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三重県

能褒野王塚古墳(能褒野墓)とはどんな古墳か|誰の墓か・場所

能褒野王塚古墳  / ノボノオウツカコフン

前方後円墳 4世紀

宮内庁が日本武尊の墓と定めた、伊勢北部でもっとも大きい前方後円墳。

能褒野王塚古墳とはどんな古墳か

能褒野王塚古墳は、三重県亀山市にある前方後円墳です。もとは「丁子塚(ちょうじづか)」と呼ばれていました。前方後円の形が銚子に見立てられたことによる名だといいます。

この塚が全国に知られたのは、1879年(明治12年)に宮内省(いまの宮内庁)が日本武尊(やまとたけるのみこと)の墓と定めたためです。以後「能褒野墓」として宮内庁の管理下にあり、主墳の発掘調査は行われていません。周囲には十数基の古墳が広がり、まとめて能褒野古墳群と呼ばれます。その中でいちばん大きいのがこの古墳です。

ただし、宮内庁が墓と定めたことと、そこに誰が葬られているかがわかっていることは、別のことです。大仙陵古墳誉田御廟山古墳と事情は同じで、名のついた墓でありながら被葬者は決まっていません。

能褒野王塚古墳の読み方と別名

読みは「のぼのおうつかこふん」です。

むずかしいのは「のぼの」の字です。『日本書紀』は「能褒野」、『古事記』は「能煩野」、『延喜式』は「能裒野」と書いており、同じ地名が三通りに書き分けられています。いずれも「のぼの」と読み、鈴鹿山脈の野登山(ののぼりやま)のふもとを指す地名と推測されています。

なお「陵」の字は天皇・皇后などの墓に、「墓」の字はそのほかの皇族の墓に使うのがきまりです。日本武尊は天皇ではないため「墓」となります。

能褒野王塚古墳(のぼのおうつかこふん)

古墳としての名。周囲の古墳とあわせて能褒野古墳群を構成する。

能褒野墓(のぼののはか)

宮内庁が日本武尊の墓として管理するときの名。「陵」ではなく「墓」の字を使う。

丁子塚(ちょうじづか)

治定される前の呼び名。江戸時代の絵図にもこの名で描かれている。

能褒野王塚古墳は誰の墓か

能褒野王塚古墳の被葬者は、考古学的にはわかっていません

宮内庁は、この古墳を第12代景行天皇の皇子である日本武尊の墓「能褒野墓」に治定しています。治定とは、どの陵墓が誰のものかを国が定めることをいいます。定めたのは1879年(明治12年)で、この古墳が北勢地方で最大規模の前方後円墳であったことが背景にあったと見られています。

一方で、日本武尊は実在した一人の人物ではなく、各地の伝えを一つの人格にまとめた姿だとする見方が、いまでは広く受け入れられています。その立場からは、伝説が作られたのに合わせて墓も選ばれたことになります。

ただし、古墳の築造時期とヤマト王権が東へ勢力をのばした時期が重なることから、後のヤマトタケル伝説のもとになった王族の一人が葬られている、と考えてよいのではないかという見解もあります。

宮内庁の治定:日本武尊

1879年に宮内省が丁子塚を日本武尊の墓と定めた。この治定を示す公式のページは確認できませんでした。

断定できない:わかっていない

亀山市史はヤマトタケルと日本武尊を項目に立てるが、被葬者を断定する記述は確認できませんでした。

能褒野王塚古墳の大きさと形

墳丘の数値は、公式のページでは確かめられませんでした。

宮内庁が管理する陵墓であるため主墳の発掘調査が行われておらず、亀山市の公式ページも古墳を扱う部分は本文が取り出せる形になっていませんでした。

わかるのは形と位置です。墳形は前方後円形で、前方部を南東の方角に向けています。後円部は二段または三段、前方部は一段に築かれたと見られます。墳丘の周りには外溝と外堤がめぐりますが、いま見えるものは1880年(明治13年)に新しく作られたもので、もとの姿はわかっていません。

埋葬施設もはっきりしません。治定される前の墳頂には、何人もの人が入れる盗掘の穴があったという言い伝えがあり、もとは竪穴式石室だった可能性が指摘されています。

墳丘の長さ・後円部の直径・高さ:公式のページでは確認できませんでした

能褒野王塚古墳はいつ作られたか

築造の時期は、4世紀末、古墳時代中期のはじめごろと推定されています。ただしこの年代を示す公式のページは確認できませんでした。

付近には同じころの名越古墳があり、この二基が鈴鹿川流域ではじめて前方後円墳として築かれた古墳にあたるとされます。つまりこの地域では、能褒野王塚古墳の登場が、前方後円墳という形のはじまりでした。

4世紀の終わりは、東国でも大型の前方後円墳が現れる時期です。同じころ、多摩川のほとりには亀甲山古墳が、三浦半島には長柄桜山古墳群が築かれています。畿内の形が東へ広がっていく流れの、伊勢での一点がこの古墳です。

のちの奈良時代には、すぐ近くに伊勢国府が置かれました。

能褒野王塚古墳の場所と行き方(観光情報)

訪ねる前に、亀山市または宮内庁の最新の案内を確かめることをおすすめします。

公式に確かめられなかった事柄が多い古墳です。行き方・駐車場・料金・立ち入りの可否は、いずれも公式のページでは確認できませんでした。近くには能褒野神社と、のぼのの森公園があります。

能褒野王塚古墳(能褒野墓)

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能褒野王塚古墳(能褒野墓)の住所:亀山市(詳しい地番は公式に確認できませんでした)

交通:公式に確認できませんでした

駐車場:公式に確認できませんでした

料金:公式に確認できませんでした

内部見学:宮内庁が管理する墓のため、立ち入りについては公式に確認できませんでした

所在地は三重県亀山市の田村町にあたりますが、番地までを記した公式のページは確認できませんでした。

宮内庁が管理する陵墓は、ふつう墳丘の中に入ることができず、拝所から拝む形になります。参拝できる曜日や時間についての公式の記載は確かめられませんでした。

古墳のかたわらには、1895年(明治28年)に創建された能褒野神社があります。治定のあとで建てられた社です。

能褒野王塚古墳の発見と調査の歩み

  1. 墓の場所は、三度うつり変わった
  2. 白鳥になって飛び去った、という話
  3. 治定が先で、神社はあとから建った
  4. 掘らないという選び方

墓の場所は、三度うつり変わった

日本武尊の墓がどこかという問いは、江戸時代から明治にかけて何度も答えが変わりました。

近世に唱えられたのは三説です。白鳥塚(鈴鹿市石薬師町)、武備塚(同市長沢町)、双子塚(同市長沢町)。武備塚は日本武尊の名代部と伝わる建部との関わりが、双子塚は大碓命と小碓命の双子の伝えが、それぞれ想定されました。

1871年(明治4年)には、伊勢神戸藩が白鳥塚を、亀山藩が双子塚をそれぞれ日本武尊の墓と認めて政府に報告し、1876年(明治9年)までに教部省は白鳥塚に定めます。

ところが1879年(明治12年)、宮内省は三説のどれでもない丁子塚へと治定を改めました。三つの候補が争っているあいだ、当の古墳は候補にすら入っていなかったのです。

白鳥になって飛び去った、という話

『日本書紀』の景行天皇紀によれば、日本武尊は「能褒野」で亡くなり、天皇は官人に命じて伊勢国の能褒野陵に葬らせました。

ところが日本武尊は白鳥となって飛び立ち、大和の琴弾原、ついで河内の旧市邑にとどまったため、それぞれの地にも陵が造られたといいます。この三つをあわせて「白鳥陵」と呼び、中には衣冠が納められたとされます。遺体のない墓が三つある、という不思議な話です。

927年に成立した『延喜式』諸陵寮には「能裒野墓」の名が見え、伊勢国鈴鹿郡の所在、兆域は東西2町・南北2町、守戸3烟を付すとされています。伊勢国で唯一の陵墓であり、10世紀の前半まで管理と祭りが続いていたことがわかります。

治定が先で、神社はあとから建った

この古墳のまわりの風景は、治定によって作られました。

1879年(明治12年)の治定を受けて、1880年から1885年(明治13年から18年)にかけて兆域が確定され、周堤が修められます。いま墳丘のまわりに見える溝と堤は、このときのものです。古墳の外形そのものが、明治の整備でつくり直されているわけです。

1883年(明治16年)には地元の有志が墓のかたわらに神社を建てることを企て、1895年(明治28年)に能褒野神社が創建されました。祭神は日本武尊です。

宮内庁は、能褒野墓の飛地陪冢として5基、域内陪冢として9基の計14基を治定しています。ただし試掘の結果、その多くは陪塚ではなく、古墳時代後期に下って築かれた古墳であると考えられています。

掘らないという選び方

能褒野王塚古墳では、主墳の発掘調査が一度も行われていません。宮内庁が管理する陵墓だからです。

これまでに行われたのは、1929年(昭和4年)の帝室林野局による測量調査と、2013年度(平成25年度)の宮内庁書陵部による墳丘測量調査、そして周囲の古墳の試掘調査だけです。

掘らないという方針は、被葬者がわからないままである理由でもあり、墳丘が壊されずに残った理由でもあります。

同じことは、宮内庁が管理する大仙陵古墳や誉田御廟山古墳でも起きています。いっぽう、宮内庁の管理下になかった侍塚古墳は、江戸時代に掘られ、そして丁寧に埋め戻されました。守り方には、いくつもの形があります。

能褒野王塚古墳から出土したもの

出土品を記した公式のページは確認できませんでした。ここに挙げたものは、いずれも「そう伝えられている」という段階の情報です。

鰭付円筒埴輪の広がり方からは、伊賀地方から北勢地方へ、さらに西濃・尾張へと形が伝わっていったとする道筋が指摘されています。

円筒埴輪の破片

墳丘の表面から数十片が採集されたと伝えられる。鰭(ひれ)のついた鰭付円筒埴輪を含むとされる。

朝顔形埴輪

口が開いた形の埴輪。鰭付円筒埴輪とともに能褒野神社で保管されていたと伝えられる。

器財埴輪

道具や武具をかたどった埴輪。現在は亀山市歴史博物館に寄託されているとされる。

竪穴式石室(推定)

埋葬施設は明らかでないが、治定前の墳頂に大きな盗掘坑があったという言い伝えから推定されている。

能褒野王塚古墳と関連する古墳

能褒野王塚古墳についてよくある質問

能褒野王塚古墳は誰の墓ですか。

考古学的にはわかっていません。宮内庁は日本武尊の墓「能褒野墓」に治定していますが、治定は国が定めたものであって、被葬者が学問的に確かめられたことを意味しません。日本武尊自体、各地の伝えをまとめた姿とする見方が広く受け入れられています。

能褒野王塚古墳はどこにありますか。

三重県亀山市にあります。ただし番地までを記した公式のページは確認できませんでした。最寄り駅や徒歩の分数も、公式に確かめられませんでした。

能褒野王塚古墳の大きさはどれくらいですか。

公式のページでは確かめられませんでした。前方後円墳で、前方部を南東に向け、後円部は二段または三段、前方部は一段に築かれたと見られます。伊勢北部ではもっとも大きい古墳とされています。

能褒野王塚古墳はいつ作られましたか。

4世紀の終わりごろ、古墳時代中期のはじめと推定されています。ただしこの年代を示す公式のページは確認できませんでした。近くの名越古墳とともに、鈴鹿川流域で最初の前方後円墳とされます。

能褒野王塚古墳の中に入れますか。

宮内庁が管理する墓のため、立ち入りについては公式に確認できませんでした。陵墓は通常、墳丘の中に入ることができず、拝所から拝む形になります。かたわらには1895年創建の能褒野神社があります。

能褒野王塚古墳と併せて覚えたい言葉・用語

治定(じじょう)

どの陵墓が誰のものかを国が定めること。学問的に確かめられたという意味ではない。

陵墓(りょうぼ)

宮内庁が管理する天皇・皇族の墓。天皇や皇后の墓を陵、そのほかの皇族の墓を墓と呼び分ける。

陪冢(ばいちょう)

大きな古墳に付き従うように築かれた小さな古墳。陪塚とも書く。

鰭付円筒埴輪(ひれつきえんとうはにわ)

筒形の埴輪の左右に、板のような鰭がつくもの。古墳時代前期から中期に見られる。

兆域(ちょういき)

陵墓として国が定めた範囲。能褒野墓では明治13年から18年にかけて確定された。