甲冑24組が一つの石室から出た、全国最多の前方後円墳。
黒姫山古墳とはどんな古墳か
黒姫山古墳の読み方と別名
読みは「くろひめやまこふん」です。所在地の黒山という地名からとられています。
この古墳は、古くは「墓山」などと呼ばれていました。ところが羽曳野市には墓山古墳という別の大型前方後円墳があり、そのままでは取り違えが起こります。そこで1947年からの発掘調査のときに、黒姫山古墳という新しい名が付けられました。
黒姫山古墳(くろひめやまこふん)
堺市と文化庁が用いる名。1947年からの発掘調査のときに新しく決められた呼び方である。
黒山(くろやま)
所在地の地名。堺市は所在地を堺市美原区黒山302外としている。
墓山(はかやま)
古くはこう呼ばれた。羽曳野市の墓山古墳と紛らわしいため、いまは使われない。
黒姫山古墳は誰の墓か
黒姫山古墳の被葬者はわかっていません。宮内庁の治定もありません。江戸時代から明治にかけて仁賢天皇陵や皇后の陵とされたことがありますが、いずれも取り消され、いまは陵墓ではありません。
堺市は、被葬者そのものではなく、築いた勢力について書いています。
黒姫山古墳は古墳時代中期(5世紀中頃)に、この地域で勢力を誇っていた丹比(たじひ)氏によって築造されたと考えられます
その後円部は、盗掘によって埋葬施設が破壊され、消滅しています。石棺も石室も持ち去られ、被葬者を知る手がかりは残りませんでした。わかるのは、前方部の石室に納められた武具の量だけです。
公式の説明:わかっていない
後円部の埋葬施設は盗掘により破壊され消滅しているとする。人物の比定はない。
学術的な見方のひとつ:丹比氏
この地域で勢力を誇っていた丹比氏によって築造されたと考えられる、とする。
過去に取り消された治定:仁賢天皇・その皇后
江戸期から明治期にかけての比定。現在は陵墓ではなく、国の史跡として扱われている。
黒姫山古墳の大きさと形
堺市は全長114メートル、前方部幅65メートル、前方部高さ11.6メートル、後円部径64メートル、後円部高さ11メートルとしています。墳丘は二段築成で、前方部はほぼ西を向いています。
百舌鳥・古市の巨大古墳が宮内庁の管理下で調べられないなか、この規模の古墳が発掘されたことに意味があります。墳丘の構造と埋葬施設と出土品が同時にわかる例としては、この時期でほとんど唯一に近いものです。
墳丘の長さ:114メートル
後円部の径:64メートル
後円部の高さ:11メートル
前方部の幅:65メートル
前方部の高さ:11.6メートル
周濠の幅と深さ:幅13から18メートル・深さ2メートル
黒姫山古墳はいつ作られたか
黒姫山古墳の場所と行き方(観光情報)
古墳のすぐそばにガイダンス施設があり、解説の映像を見られます。復元された竪穴石室と埴輪も置かれています。
出土品の実物を見たい場合は、堺市美原区黒山281の堺市立みはら歴史博物館へ向かってください。甲冑類は堺市指定有形文化財で、平成20年7月17日に指定されています。駐車場がないため、行き方は事前に調べておいてください。
黒姫山古墳(史跡黒姫山古墳歴史の広場)
黒姫山古墳(史跡黒姫山古墳歴史の広場)の住所:堺市美原区黒山302外
交通:公式に確認できませんでした
駐車場:駐車場はない(公共交通機関の利用を求めている)
料金:公式に確認できませんでした
内部見学:史跡黒姫山古墳歴史の広場として整備され、ガイダンス施設と復元された竪穴石室・埴輪がある
堺市は所在地を堺市美原区黒山302外としています。平成元年から国と府の補助を受けて環境整備が行われ、平成5年度に「史跡黒姫山古墳歴史の広場」として開園しました。
堺市は次のように書いています。
※ 駐車場はありませんので、公共交通機関をご利用ください。
最寄りの駅やバス停については、公式の記載を確かめられませんでした。開園時間と料金についても同じです。
黒姫山古墳の発見と調査の歩み
人を葬らない石室に、よろいだけが詰まっていた
黒姫山古墳の前方部の頂上には、竪穴式の石室がありました。ふつう石室は棺を納める場所ですが、この石室に人を葬った形跡はありません。
代わりに入っていたのが、甲冑です。堺市は内訳をこう書いています。短甲24領、衝角付冑11個、眉庇付冑13個。附属具として頸甲11領、肩甲12領、草摺4個。
よろいを24組。一人が着るためのものではありません。
戦争中の松の根掘りが、石室を掘り当てた
この石室が見つかったきっかけは、発掘調査ではありませんでした。
堺市がまとめた年表は、戦時中の出来事から始まります。
航空機用燃料として松根油の採取をしていたところ、竪穴式石室を発見
松根油(しょうこんゆ)は、松の根から採る油です。戦争の末期、航空機の燃料が足りなくなり、各地で松の根が掘り起こされました。その作業の途中で、古墳の前方部から石室が現れたのです。
戦争の物資不足がなければ、この石室はまだ土の下にあったかもしれません。
巨大古墳を調べられないから、この古墳が要る
百舌鳥古墳群と古市古墳群には、日本でいちばん大きい古墳が並んでいます。堺区の大仙陵古墳は486メートル、羽曳野市の誉田御廟山古墳は425メートルです。
黒姫山古墳は、その二つの古墳群のちょうど中間にあります。規模は114メートルと小さいものの、墳丘の構造、埋葬施設、出土品のすべてが調査で確かめられました。
同じ時代の、調べられる古墳。その一点で、この古墳は両古墳群の実態を考えるための物差しになっています。堺市の御廟山古墳や羽曳野市の墓山古墳も中心部は調べられておらず、黒姫山古墳から見えたことを当てはめていく作業が続いています。
黒姫山古墳から出土したもの
出土した甲冑類は、平成20年7月17日に堺市指定有形文化財となりました。大半が保存処理を終え、堺市立みはら歴史博物館で一部が展示されています。
堺市は、古墳時代中期を「武器・武具の副葬が卓越する時期」としています。黒姫山古墳は、その変化がもっとも極端な形で現れた古墳です。
短甲
24領。胴を守る鎧。三角板鋲留襟付が1領、三角板鋲留が10領、横矧板鋲留が12領、形式不明が1領。
衝角付冑
11個。前がとがった形のかぶと。横矧板鋲留が8個、形式不明が3個。
眉庇付冑
13個。ひさしの付いたかぶと。横矧板鋲留3個、小札鋲留5個、長方形小札鋲留1個、形式不明4個。
頸甲・肩甲・草摺
甲冑の附属具。頸甲11領、肩甲12領、草摺4個が伴っていた。
鉄製の武具・武器
甲冑のほかに、大量の鉄製武具と武器が石室から出土している。
黒姫山古墳と関連する古墳
黒姫山古墳についてよくある質問
黒姫山古墳は誰の墓ですか。
わかっていません。宮内庁の治定もありません。堺市は、この地域で勢力を誇っていた丹比氏によって築造されたと考えられるとしていますが、後円部の埋葬施設は盗掘で破壊され消滅しています。
黒姫山古墳から甲冑は何領出ましたか。
短甲が24領、衝角付冑が11個、眉庇付冑が13個です。附属具として頸甲11領、肩甲12領、草摺4個が伴っていました。24組という数は一つの古墳への副葬量として国内で最多です。
黒姫山古墳の大きさはどれくらいですか。
堺市は全長114メートル、後円部径64メートル、後円部高さ11メートル、前方部幅65メートル、前方部高さ11.6メートルとしています。二段築成の前方後円墳です。
黒姫山古墳はどこにありますか。
大阪府堺市美原区黒山302外です。百舌鳥古墳群と古市古墳群の中間にあたります。駐車場はないため、堺市は公共交通機関の利用を求めています。
黒姫山古墳はいつ作られましたか。
堺市は古墳時代中期、5世紀中頃としています。出土した甲冑は5世紀中葉の製作で、納められたのは5世紀後半と推測されています。
黒姫山古墳と併せて覚えたい言葉・用語
短甲(たんこう)
鉄板をつないで作った、胴を守る鎧。古墳時代中期の副葬品を代表する品。
衝角付冑(しょうかくつきかぶと)
前面が船の舳先のようにとがったかぶと。黒姫山古墳から11個出ている。
眉庇付冑(まびさしつきかぶと)
前にひさしの付いたかぶと。飾りの強いつくりで、13個が出ている。
松根油(しょうこんゆ)
松の根から採る油。戦争末期に航空機の燃料として採られ、この古墳の石室発見のきっかけになった。
黒姫山古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。