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埼玉県

吉見百穴とはどんな古墳か|誰の墓か・場所

吉見百穴  / ヨシミヒャクアナ

横穴墓群 6世紀7世紀

斜面に219基の穴が開く横穴墓群。古墳ではなく、崖に掘った墓の集まり。

吉見百穴とはどんな古墳か

吉見百穴はひとことで言えば古墳ではない遺跡です。埼玉県比企郡吉見町にあり、丘陵の斜面にいくつもの穴が口を開けています。

土を高く盛って造るのが古墳ですが、ここは逆に、岩の斜面を横から掘り抜いて墓にしています。こういう墓を横穴墓と呼びます。吉見町は「古墳時代の末期(6世紀末~7世紀後半)に造られた横穴墓群」と説明し、現在確認できる横穴の数を219基としています。

死者が埋葬された主体部の構造は古墳時代後期の横穴式石室とほとんど同じである

吉見町はこう書いています。盛るか掘るかの違いはあっても、中で行われたことは古墳と同じでした。国の史跡に指定されたのは大正12年です。

吉見百穴の読み方と別名

読み方が二つあります。吉見町は「よしみひゃくあな」、文化庁のデータベースは「よしみひゃっけつ」です。

管理している町と、指定した国とで読みが割れている、めずらしい状態です。ややこしいことに、同じ場所を天然記念物として指定した「吉見百穴ヒカリゴケ発生地」のほうは、文化庁も「よしみひゃくあな」と読ませています。

どちらが誤りというわけではありません。地元で通っているのは「ひゃくあな」のほうです。

吉見百穴(よしみひゃくあな)

史跡を管理する吉見町がウェブサイトで用いる読み。

吉見百穴(よしみひゃっけつ)

文化庁の国指定文化財等データベースが付けているふりがな。

吉見百穴ヒカリゴケ発生地(よしみひゃくあなひかりごけはっせいち)

同じ場所が国の天然記念物としても指定されており、そのときの名。

吉見百穴は誰の墓か

吉見百穴に葬られた人々が誰だったのかはわかっていません。219基もの穴があり、しかも一つの穴に複数の人が葬られていますから、そもそも個人を特定する問いになりません。

吉見町は次のように書いています。

吉見百穴に葬られた人々は、この周辺地域を治めていた有力者層(家族を含む)であったことが考えられます

家族を含むという一言が重要です。大王や大豪族ひとりのための古墳ではなく、一族をまとめて葬るための場所だった、ということになります。

明治20年に発掘調査が行われましたが、吉見町によれば「わずかな写真と出土品を残すのみで詳細な情報はほとんど残っていない」状態です。当時はこの穴が住居か墓かをめぐる論争もありました。今は墓とみるのが定説です。

学術的な見方のひとつ:周辺地域を治めていた有力者層

家族を含む有力者層と考えられるとする。個人名は挙げていない。

公式の説明:わかっていない

解説文は横穴の数と関東での著名さを述べるだけで、被葬者にふれていない。

吉見百穴の大きさと形

吉見町は、現在確認できる横穴の数を219基としています。文化庁の解説文は、指定当時の文体のまま「其ノ口ヲ開ケルモノ二百數十個ニ及ヒ」と記しています。

吉見町によれば、ほとんどの横穴の壁際には10から20センチメートルほどの段が作られており、これが遺体を安置した部分です。

一つの横穴に段が二つあれば、複数の人が葬られたことを示します。入り口には緑泥石片岩という緑色の石の蓋が立てかけられていました。蓋であって、封じ切る壁ではありません。

同じ丘には、昭和19年から20年に掘られた地下軍需工場の坑道もあります。吉見町は開口部を直径3メートル程とし、対象となった区間を約1300メートルとしています。

横穴の数:219基

遺体を安置した段の高さ:10から20センチメートル程

地下軍需工場の開口部:直径3メートル程

地下軍需工場の対象区間:約1300メートル

吉見百穴はいつ作られたか

吉見町は、造られた時期を6世紀末から7世紀後半、古墳時代の末期としています。

この時期がどういう時代だったかを、吉見町は自ら書いています。仏教が伝来したのは西暦538年(一説には552年)、聖徳太子が推古天皇の摂政となって活躍したのは593年から622年で、百穴が造られ始めたころとほぼ一致します。645年の大化の改新、翌646年の薄葬令。国のしくみが大きく変わる時期に、この穴は掘られました。

薄葬令は、地方豪族の権力の象徴である古墳の造営を禁じた法です。大きな古墳が造られなくなり、代わりに現れたのが吉見百穴のような横穴墓群でした。奈良の牽牛子塚古墳のような終末期の古墳と、時代を共有しています。

吉見百穴の場所と行き方(観光情報)

岩山の下方にはヒカリゴケが自生する穴があり、国の天然記念物「吉見百穴ヒカリゴケ発生地」に指定されています。

ヒカリゴケは黄緑色の光を放つように見えるコケで、一定の気温と湿度が保たれる環境を必要とします。本来は中部以北の山地に見られるもので、関東平野に生育していることが植物学の上で貴重だと吉見町は説明しています。

地下軍需工場の坑道跡は、崩落の危険があるため立入が制限されています。

吉見百穴

地図で開く

吉見百穴の住所:埼玉県比企郡吉見町大字北吉見324

交通:東武東上線「東松山駅」下車、川越観光バス「免許センター行」約5分、「百穴入口」下車徒歩約5分。JR高崎線「鴻巣駅」からは同バス「東松山駅行」約25分、「百穴入口」下車徒歩約5分

駐車場:公式に確認できませんでした

料金:入園料 中学生以上300円、小学生200円、小学生未満無料(20名以上の団体は大人200円、学生・生徒150円)

内部見学:横穴の内部を見ることができる。ヒカリゴケが自生している穴もある

吉見町は所在地を埼玉県比企郡吉見町大字北吉見324、電話番号を0493-54-4541としています。営業時間は午前8時45分から午後4時50分まで(入園は午後4時30分まで)です。

車の場合、関越自動車道の東松山インターチェンジから鴻巣方面へ約5キロメートル、圏央道の川島インターチェンジから東松山方面へ約8キロメートル。国道17号からは鴻巣天神2丁目交差点から東松山方面へ約10キロメートルです。

おむつ交換のできる「赤ちゃんの駅」があります。

吉見百穴の発見と調査の歩み

  1. なぜ「古墳」ではないのか
  2. 追葬を前提にした造り
  3. 戦争が削った十数基

なぜ「古墳」ではないのか

吉見百穴を古墳図鑑に載せるにあたって、はじめにはっきりさせておくべきことがあります。これは古墳ではありません。

古墳は、土や石を積み上げて墳丘という山を造り、その中や下に埋葬施設を設けたお墓です。大仙陵古墳稲荷山古墳も、まず山を造っています。

吉見百穴は逆です。吉見町の言葉を借りれば「丘陵や台地の斜面を掘削して墓としたもの」です。積むのではなく、彫る。

ただし、時代も、中で行われたことも、古墳と地続きです。吉見町は、埋葬部分の構造は古墳時代後期の横穴式石室とほとんど同じだとしています。だからこの図鑑では、古墳の隣に置くべきものとして扱い、形は「横穴墓群」としました。

追葬を前提にした造り

吉見百穴の横穴には、共通した特徴があります。壁際に10から20センチメートルほどの段があるのです。吉見町によれば、これが遺体を安置した部分です。

一つの横穴に段が二つあれば、二人以上が葬られたことになります。そして入り口には、緑泥石片岩と呼ばれる緑色の石の蓋が立てかけられていました。

蓋であるということは、また開けられるということです。吉見町は「横穴に死体を葬った後であっても、再び石室内に入ることが可能である」と説明しています。

一つの墓に次々と死者を葬ることを追葬といいます。竪穴式石室の古墳では、一度閉じたら壊さない限り入れませんでした。その行き着いた形の一つが吉見百穴です。同じ組の葉佐池古墳(愛媛県松山市)でも、追葬の跡が確かめられています。

戦争が削った十数基

吉見百穴の下部には、素掘りのままの大きな穴が並んでいます。昭和19年から20年に掘られた地下軍需工場の跡です。

吉見町によれば、中島飛行機の工場が空襲で生産能力を落とし、地下への移転が急がれました。掘削に適した凝灰質砂岩が広がるこの場所が選ばれ、「吉松工事」と呼ばれる工事が行われます。対象は松山城から岩粉坂までの直線距離にして約1300メートル、4つの工区に分かれていました。

工事に携わったのは全国から集められた朝鮮人労働者で、昼夜を通した突貫工事でした。本格的な生産に移る前に終戦となっています。

掘削工事に従事した最後の人の帰国に際して植えられたムクゲの木が、今もこの地で育っています。

吉見百穴から出土したもの

何が副葬されていたかについて、まとまった記録は残っていません。吉見町は、明治20年の発掘調査について「わずかな写真と出土品を残すのみで詳細な情報はほとんど残っていない」と書いています。

日本の考古学がまだ始まったばかりの時期に掘られたことが、そのまま情報の少なさになっています。

緑泥石片岩の閉塞石

横穴の入り口に立てかけられていた緑色の石の蓋。山間部に分布する石が運ばれている。

棺座(段)

横穴の壁際に作られた高さ10から20センチメートル程の段。遺体を安置した部分。

明治20年の調査の出土品

坪井正五郎による発掘の成果。吉見町は、わずかな写真と出土品を残すのみだとしている。

ヒカリゴケ

出土品ではないが、横穴墓の内部に自生する。国の天然記念物に指定されている。

吉見百穴と関連する古墳

吉見百穴についてよくある質問

吉見百穴は古墳ですか。

古墳ではありません。丘陵の斜面を掘り抜いて造った横穴墓の群れです。ただし、埋葬部分の構造は古墳時代後期の横穴式石室とほとんど同じだと吉見町は説明しています。

吉見百穴は誰の墓ですか。

わかっていません。吉見町は、この周辺地域を治めていた有力者層(家族を含む)と考えられるとしています。一つの横穴に複数の人が葬られていました。

吉見百穴に穴はいくつありますか。

吉見町は、現在確認できる横穴の数を219基としています。文化庁の解説文は「二百數十個ニ及ヒ」と古い文体で記しています。

吉見百穴はいつ作られましたか。

吉見町は6世紀末から7世紀後半、古墳時代の末期としています。大化の改新や薄葬令と重なる、国のしくみが大きく変わった時期にあたります。

吉見百穴の読み方と入園料は。

吉見町は「よしみひゃくあな」、文化庁は「よしみひゃっけつ」と読ませています。入園料は中学生以上300円、小学生200円、小学生未満は無料です。

吉見百穴と併せて覚えたい言葉・用語

横穴墓(よこあなぼ)

丘陵や台地の斜面を横から掘り抜いて造った墓。土を盛る古墳とは造り方が逆。

追葬(ついそう)

一つの墓に、あとから次の死者を葬ること。横穴式石室と横穴墓で行われた。

凝灰質砂岩(ぎょうかいしつさがん)

火山灰を含む、比較的やわらかく掘りやすい岩。吉見の丘陵に広がる。

薄葬令(はくそうれい)

646年に出された、葬送を簡素にするよう定めた法。古墳の造営を制限した。

吉見百穴の参考資料

この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。

  1. 吉見町
  2. 文化庁