本文へ移動

奈良県

石のカラト古墳とはどんな古墳か|誰の墓か・場所

石のカラト古墳  / イシノカラトコフン

上円下方墳 7世紀8世紀

下が方形、上が円形。奈良県と京都府の境にまたがる終末期の古墳。

石のカラト古墳とはどんな古墳か

奈良県奈良市神功と京都府木津川市兜台にまたがる古墳です。文化庁の国指定文化財等データベースは、所在都道府県の欄を「2県以上」とし、所在地を「奈良市神功、木津川市兜台」と記しています。府県の境が、そのまま古墳の上を通っています。

形は上円下方墳です。奈良市は「墳丘は二段になっていて、下段が方形、上段が円形の上円下方墳とよばれるもの」と説明します。文化庁は指定の解説文で、第1段方形部を一辺13.8メートル、第2段上円部を径9.2メートル・高さ2.9メートルとし、「墳形が上円下方というわが国では唯一の例」と書いています。

埋葬施設は凝灰岩の切石を組んだ横口式石槨です。奈良市はこれを、高松塚古墳キトラ古墳と同じ終末期古墳の系統に置いています。

木津川市は「現在築造当時の姿を復原し、公園として整備しています」としています。

石のカラト古墳の読み方と別名

読みは「いしのからとこふん」です。文化庁のふりがなも「いしのからとこふん」で登録されています。

「カラト」は片仮名で書かれます。石室が唐櫃に似ることに由来するといわれますが、確かめられてはいません。唐櫃は、脚の付いた蓋つきの箱のことです。

奈良市は、この古墳が「カザハヒ古墳」とも呼ばれると記しています。こちらの由来もわかっていません。土地の人が呼んできた音だけが残り、意味は失われました。

石のカラト古墳(いしのからとこふん)

文化庁のふりがなもこの読み。石室が唐櫃に似ることに由来するといわれる。

カザハヒ古墳(かざはひこふん)

奈良市が別名として挙げる呼び方。由来は確かめられていない。

上円下方墳(じょうえんかほうふん)

この古墳の墳形。文化庁は、わが国では唯一の例だとしている。

石のカラト古墳は誰の墓か

葬られた人が誰かは、わかっていません

文化庁は指定の解説文で、この古墳を「この時期の貴人の墓としてきわめて重要なもの」としています。貴人、とだけ書いてあります。名前はありません。

木津川市は、もう一歩踏み込んで「立地から平城京遷都に関係する皇族の墓ではないかといわれています」と記しています。この古墳は平城京の北の奈良山丘陵にあります。

ただし、これは断定ではありません。中世に盗掘を受けており、副葬品の多くが失われています。残っていたのは金と銀の玉が各1つ、銀装の大刀の金具、金箔片、木心乾漆棺の断片、そして墓道の埋土から出た須恵器片1点でした。宮内庁の陵墓でも陵墓参考地でもなく、平成8年に国の史跡に指定されています。

学術的な見方のひとつ:奈良時代に近い頃の貴人

文化庁は指定の解説文で「この時期の貴人の墓としてきわめて重要」とする。名は挙げていない。

学術的な見方のひとつ:平城京遷都に関係する皇族

木津川市は「立地から平城京遷都に関係する皇族の墓ではないかといわれています」と記す。

石のカラト古墳の大きさと形

墳丘は2段です。文化庁は第1段方形部を一辺13.8メートル、第2段上円部を径9.2メートル・高さ2.9メートルとしています。

木津川市はもう少し細かく、下の方形部を一辺13.8メートル・高さ1.36メートル、上の円形部を径9.2メートル・高さ1.55メートルとしています。文化庁の高さ2.9メートルは、この二つを足したものにあたります。食い違いではなく、測り方の違いです。

石室は、文化庁によれば内法の南北方向が2.6メートル、東西方向が1.04メートル、高さ1.07メートル。天井部は屋根型に10センチメートル刳りこんであります。石室の前面には幅3メートルの墓道が設けられていました。

小さな古墳です。それでも国の史跡になったのは、墳形が唯一の例であり、遺存度も良好だからです。

下段(方形部)の一辺:13.8メートル

上段(円形部)の径:9.2メートル

上円部の高さ:2.9メートル(文化庁)/方形部1.36メートル・円形部1.55メートル(木津川市)

石室の内法:南北2.6メートル、東西1.04メートル、高さ1.07メートル

石のカラト古墳はいつ作られたか

文化庁は、構造と出土遺物から「7・8世紀の交頃に築造されたと推定でき」るとしています。7世紀から8世紀へ移り変わるあたり、という意味です。

奈良市は、この古墳の石槨のような墓を終末期古墳と呼んでいます。古墳という墓の造り方が終わっていく、いちばん最後の時期です。

平城京への遷都は710年です。木津川市が「立地から平城京遷都に関係する皇族の墓ではないか」と書くのは、この年代の近さによります。

このころになると、墳丘は小さくなり、石室は精密になります。土を高く盛って権威を示す時代は終わり、切石を組んだ小さな部屋に人を納めるようになりました。

石のカラト古墳の場所と行き方(観光情報)

この古墳が府県の境にまたがる経緯として、江戸時代の争いが伝えられます。享保9年(1724年)の絵図によれば、大和国と山城国の間で山の境の争いが起き、大和側が勝訴して相楽郡へ舌状に張り出すことになったといいます。

その張り出しの上に、この古墳がありました。近くには平城宮跡や、ウワナベ古墳コナベ古墳があります。

石のカラト古墳

地図で開く

石のカラト古墳の住所:木津川市兜台2・奈良市神功1

交通:公式には確認できませんでした

駐車場:公式には確認できませんでした

料金:公式には確認できませんでした

内部見学:宮内庁の陵墓ではなく国の史跡です。木津川市は「現在築造当時の姿を復原し、公園として整備しています」としており、公園として見学できます

住所は木津川市が公表する木津川市兜台2・奈良市神功1です。文化庁は所在地を「奈良市神功、木津川市兜台」とし、所在都道府県の欄を「2県以上」としています。二つの市と二つの府県にまたがる、珍しい書き方になっています。

木津川市によれば、標高112メートルの丘陵の緩傾斜面にあり、築造当時の姿に復原されて公園として整備されています。

石のカラト古墳の発見と調査の歩み

  1. 上円下方墳は、なぜ唯一なのか
  2. 高松塚古墳と同じ形の石室
  3. 水を抜くしくみ

上円下方墳は、なぜ唯一なのか

文化庁は、この古墳について「墳形が上円下方というわが国では唯一の例であり、遺存度も良好である」と書いています。

上円下方墳は、下が四角く、上が円い形の古墳です。ほかにも上円下方墳とされる古墳はあり、武蔵府中熊野神社古墳もその一つです。それでも文化庁が「唯一」と書いたのは、昭和54年の調査でこの形がはっきり確かめられたからです。

解説文には、それ以前は「円墳とも方墳ともあるいは上円下方墳ともいわれていた」とあります。掘るまで、形がわからなかったということです。第1段の葺石は残りがよく、上面では四隅を結ぶ対角線上に水道を設けた精密な葺き方がされていた、と記されています。

高松塚古墳と同じ形の石室

文化庁は、この古墳の石室を「高松塚古墳と同形の横口式石室」としています。木津川市は「高松塚古墳石室の退化した横口式石室」と書いています。

横口式石槨は、切石を組んで箱のような部屋を造り、その短辺に入口を開ける形式です。高松塚古墳では二上山産の凝灰岩の切石16枚で組まれていました。石のカラト古墳も凝灰岩の切石16枚で、天井は屋根形に刳りこまれています。

同じ設計図から造られたように見えます。高松塚古墳やキトラ古墳では、その石槨の壁に壁画が描かれていました。石のカラト古墳では壁画は確認されていません。奈良市は、こうした石槨墳を終末期古墳と呼んでいます。

水を抜くしくみ

この古墳で目を引くのは、排水のしくみです。

文化庁の解説文によれば、墳丘の下には礫を詰めた盲暗渠が三条あり、いずれも墳丘の外へ延びています。墳丘の周囲にも排水溝がめぐらされ、裾と排水溝の間はバラス敷になっていました。

石室に水が入らないよう、幾重にも手が打たれています。高松塚古墳では2002年に石室内でカビが発生し、石室を解体して運び出す修理が行われました。湿気は壁画の大敵です。

墳丘は版築で、土を突き固めて積み上げてあります。石室の前面には、石材を運ぶためのコロを敷いた道板の抜き取り痕も見つかりました。

石のカラト古墳から出土したもの

中世に盗掘を受けており、石室内は遺物がほとんど無い状態でした。文化庁の解説文も「石室内は盗掘によって遺物はほとんどなかった」と記しています。

それでも残ったものがあります。金と銀の玉が各1点、銀装の大刀の鞘の金具、金箔片、木心乾漆棺の断片。わずかですが、葬られた人の身分を示すには足りる品です。石室の前面の墓道では、墓前の祭りに関わると考えられる礫敷も見つかっています。

金製の玉・銀製の玉

文化庁の解説文によれば各1点。盗掘をまぬがれて石室に残っていた。

銀装唐様太刀鞘責金具

銀で飾った大刀の鞘の金具。奈良市も「銀装の大刀の金具」として挙げている。

木心乾漆棺断片

木を芯にして漆を塗り重ねた棺の破片。手のかかる棺で、身分の高さを示す。

須恵器

墓道の埋土から1点出土。墓の前で行われた祭りに関わるものと考えられている。

石のカラト古墳と関連する古墳

石のカラト古墳についてよくある質問

石のカラト古墳は誰の墓ですか。

わかっていません。文化庁は「この時期の貴人の墓」とし、木津川市は「立地から平城京遷都に関係する皇族の墓ではないかといわれています」と記していますが、名は挙げられていません。

石のカラト古墳はどこにありますか。

木津川市は所在地を「木津川市兜台2・奈良市神功1」としています。文化庁は所在都道府県の欄を「2県以上」とし、奈良県と京都府の境にまたがる古墳です。

石のカラト古墳の大きさはどれくらいですか。

文化庁によれば下段の方形部が一辺13.8メートル、上段の円形部が径9.2メートル・高さ2.9メートルです。木津川市は方形部の高さを1.36メートル、円形部を1.55メートルとしています。

石のカラト古墳はいつ作られましたか。

文化庁は構造と出土遺物から「7・8世紀の交頃」としています。高松塚古墳やキトラ古墳と同じ、古墳時代の終末期にあたります。

石のカラト古墳は見学できますか。

木津川市は「現在築造当時の姿を復原し、公園として整備しています」としています。宮内庁の陵墓ではなく、平成8年7月16日に国の史跡に指定されました。行き方と駐車場は公式には確認できませんでした。

石のカラト古墳と併せて覚えたい言葉・用語

上円下方墳(じょうえんかほうふん)

下段が四角く上段が円い墳丘。文化庁はこの古墳を、わが国では唯一の例としている。

横口式石槨(よこぐちしきせっかく)

切石を組んだ箱形の部屋の短辺に入口を開ける埋葬施設。終末期の古墳に見られる。

版築(はんちく)

土を薄く敷いては突き固める作業を繰り返して積み上げる工法。崩れにくい墳丘になる。

盲暗渠(めくらあんきょ)

地中に礫を詰めて造った排水路。墳丘の下を通し、水を外へ逃がすために設けられた。

石のカラト古墳の参考資料

この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。

  1. 文化庁
  2. 木津川市