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奈良県

段ノ塚古墳(舒明天皇陵)とはどんな古墳か|誰の墓か・場所

段ノ塚古墳  / ダンノツカコフン

八角墳 7世紀

天皇の墓に八角形が採られた最初の例とされる、忍阪の終末期古墳。

段ノ塚古墳とはどんな古墳か

奈良県桜井市大字忍阪にある、古墳時代終末期の古墳です。宮内庁はこの古墳を第34代舒明天皇の押坂内陵として管理し、陵形を「上円下方」、所在地を奈良県桜井市大字忍阪、最寄りを近鉄大和朝倉駅から徒歩約24分としています。

いっぽう考古学の側では、台形の方形壇の上に八角形の墳丘をのせた姿から八角墳、より正確には上八角下方墳と呼ばれます。同じ一基に、宮内庁の「上円下方」と学術上の「八角墳」という二つの見方が並んでいます。

外鎌山から南へ伸びる尾根の先端に築かれています。下部の方形壇は三段で、最下段の前面の幅はおよそ105メートル。上の八角部は二段で、下段の対辺の間はおよそ42メートルとされます。八角形の墳丘は、このあと牽牛子塚古墳中尾山古墳へ受け継がれていきます。

段ノ塚古墳の読み方と別名

読みは「だんのづかこふん」です。段のある塚、という土地の呼び名がそのまま名になりました。この名は、八角形とわかるずっと前から、墳丘の見た目だけで呼ばれてきたものです。

宮内庁が用いるのは押坂内陵(おさかのうちのみささぎ)という陵名です。所在地の欄では「忍阪」、陵名では「押坂」と書かれており、同じ地名に二つの表記があります。

墳形の呼び方も分かれています。宮内庁は陵形を「上円下方」としますが、考古学の側では八角墳、あるいは上八角下方墳と呼びます。どちらの言い方も、この一基を指しています。

段ノ塚古墳(だんのづかこふん)

考古学の側で用いられる名。段のある塚という土地の呼び名にもとづき、被葬者を決めずに古墳そのものを指す。

押坂内陵(おさかのうちのみささぎ)

宮内庁が用いる正式な陵名。行政上の扱いを示す名で、被葬者が確かめられたことを意味しない。

舒明天皇陵(じょめいてんのうりょう)

宮内庁の治定にもとづく通称。地図や案内板ではこの名で示されることが多い。

上八角下方墳(じょうはっかくかほうふん)

墳形をあらわす学術用語。下が方形壇、上が八角形という構造を正確に言いあらわしたもの。

段ノ塚古墳は誰の墓か

宮内庁は、この古墳を第34代舒明天皇の押坂内陵として管理しています。宮内庁は舒明天皇の父を押坂彦人大兄皇子、母を妃糠手姫皇女としています。

治定は行政上の扱いであって、発掘によって被葬者が確かめられたわけではありません。ただしこの古墳の場合、学術の側でも治定と同じ方向の見方が有力です。忍阪の地に築かれた古墳としては群を抜いた規模であること、八角形という特異な墳丘をもつことから、舒明天皇の押坂内陵である可能性はきわめて高いとされています。

それでも「確定した」とは書けません。墳丘の中は調べられておらず、被葬者を直接示すものは見つかっていないためです。

この古墳の意義は、被葬者の名だけにあるのではありません。前方後円墳が消えたあと、皇族や有力豪族は方墳や円墳を採りました。八角墳はそれに代わる新しい形として現れます。天皇の墓に八角形が採られた最初の例という点で、この古墳はきわめて重要です。

宮内庁の治定(行政上の扱いで、学術的な確定ではありません):第34代舒明天皇

陵名を押坂内陵、陵形を上円下方、所在地を奈良県桜井市大字忍阪とする。

断定できない:確かめられていない

宮内庁の記す陵形は「上円下方」で、考古学が示す八角墳という墳形とは言い方が異なる。

段ノ塚古墳の大きさと形

宮内庁が公表しているのは、陵名・陵形・所在地・交通アクセスといった項目までで、墳丘の実測値は記されていません。ここでは、確かめられた項目だけを一覧に載せています。

墳丘の造りは、下部の方形壇が三段、その上の八角部が二段という構成です。最下段の前面の幅はおよそ105メートル、八角部の下段の対辺の間はおよそ42メートルとされます。方形壇の各段の斜面には自然石を用いた貼石があり、八角部の下段は板石で覆われていることが宮内庁の調査でわかりました。

尾根を途中で切断し、その先端の斜面に切土と盛土を行って築かれています。両側の谷も整形されており、造成は広い範囲におよんだとみられます。

陵名:押坂内陵(おさかのうちのみささぎ)

陵形(宮内庁の記載):上円下方

所在地:奈良県桜井市大字忍阪

被葬者とされる天皇の代数:第34代

段ノ塚古墳はいつ作られたか

築造は7世紀、古墳時代終末期と考えられています。前方後円墳が造られなくなってから、しばらくたったころです。

この時期の古墳は、規模を小さくするかわりに、形と石の造りに凝るようになります。明日香村の石舞台古墳都塚古墳は方墳、キトラ古墳高松塚古墳は円墳でした。そのなかで八角形という形が現れ、天皇の墓に限って使われるようになります。

段ノ塚古墳のあとには、牽牛子塚古墳、中尾山古墳、野口王墓といった八角墳が続きます。八角形は方位を八つに分ける考え方と結びつくとされ、天下を治める者の墓にふさわしい形として選ばれたという見方があります。

段ノ塚古墳の場所と行き方(観光情報)

桜井市には、桜井茶臼山古墳メスリ山古墳箸墓古墳ホケノ山古墳纒向石塚古墳といった古い時代の古墳が集まっています。同じ市の中で、3世紀の纒向石塚古墳から7世紀の段ノ塚古墳までをたどることができます。

段ノ塚古墳(舒明天皇 押坂内陵)

地図で開く

段ノ塚古墳(舒明天皇 押坂内陵)の住所:奈良県桜井市大字忍阪

交通:宮内庁は交通アクセスを「近鉄 大和朝倉駅から徒歩約24分」としています

駐車場:公式には確認できませんでした

料金:公式には確認できませんでした

内部見学:宮内庁が管理する陵墓で、墳丘に立ち入ることはできません。拝所までは参拝でき、宮内庁は参拝可能な曜日を「原則、年間をとおして参拝可能」、参拝時間を「原則、8時30分~17時」としています

宮内庁が示す所在地は奈良県桜井市大字忍阪です。最寄りの近鉄大和朝倉駅からは徒歩約24分と、この図鑑に載る陵墓のなかでは歩く時間が長いほうです。

古墳は外鎌山から南へ伸びる尾根の先端にあります。谷をさらに奥へ入ると、鏡女王墓と大伴皇女押坂墓があります。どちらも宮内庁が管理しています。歩く前に、参拝時間を確かめておくと安心です。

段ノ塚古墳の発見と調査の歩み

  1. 「上円下方」と「八角墳」
  2. 八角形が始まった場所
  3. 石室は、まだ見つかっていない

「上円下方」と「八角墳」

宮内庁は、この古墳の陵形を上円下方としています。下が四角く、上が丸いという意味です。

いっぽう考古学の側では、この古墳を八角墳と呼びます。上にのっているのは丸ではなく、八つの辺をもつ多角形だからです。より正確に上八角下方墳と呼ぶこともあります。

どちらかが誤りというわけではありません。宮内庁の陵形は、江戸時代以来の見方を引き継いだ分類で、細かい墳形を区別しません。上に丸みのある高まりがあれば「上円」と記します。いっぽう考古学の分類は、実測にもとづいて八つの辺を数えます。この図鑑では、両方の呼び方を出典とともに載せています。市庭古墳念仏寺山古墳でも、宮内庁が「円丘」とする古墳を考古学が前方後円墳とする、同じ食い違いが起きています。

八角形が始まった場所

前方後円墳が造られなくなったあと、皇族や有力豪族は方墳や円墳を採りました。石舞台古墳は方墳、キトラ古墳や高松塚古墳は円墳です。

そこに現れたのが、八角形の墳丘でした。段ノ塚古墳は、天皇陵として初めて八角墳を採用した古墳とされ、その点で大変意義深いとされます。

このあと、牽牛子塚古墳、中尾山古墳、野口王墓といった八角墳が続きます。八角形は天皇の墓に限って使われた形で、7世紀の墓を見分ける手がかりになります。同じ7世紀でも、束明神古墳菖蒲池古墳岩屋山古墳は別の形をとっており、形の違いがそのまま立場の違いを示していたと考えられます。

石室は、まだ見つかっていない

この古墳の埋葬施設が、いまどうなっているのかはわかっていません。宮内庁が管理する陵墓であるため、墳丘の中を掘ることができないためです。

手がかりはいくつかあります。幕末の山陵研究家である谷森喜臣の『山稜考』には、石室の内部に石棺が二基あったという村人の伝聞が紹介されています。また宮内庁の調査では、八角部の前面で羨道の天井石らしきものが確認されました。

仮に八角形の中心部を奥壁と考えると、全長20メートルを超える巨大な横穴式石室が想定されます。これは奈良県の牧野古墳の石室全長17.1メートルや、赤坂天王山古墳の石室を上回る大きさです。あくまで想定であって、確かめられてはいません。

段ノ塚古墳から出土したもの

この古墳からは、副葬品らしいものが知られていません。宮内庁が管理する陵墓であるため、墳丘の中を掘ることができないからです。

知られているのは、墳丘の表面を覆っていた石です。方形壇には自然石の貼石があり、八角部の下段は板石で覆われていました。どちらも宮内庁の調査でわかったことで、外側から見えるものだけが手がかりになっています。

貼石

方形壇の各段の斜面に用いられた自然石。墳丘の表面を化粧するために貼られている。

板石(榛原石)

八角部の下段を覆っていた石。宮内庁の調査でその存在が確かめられた。

羨道の天井石らしきもの

八角部の前面で宮内庁の調査により確認されたもの。巨大な石室の存在を示す手がかりとされる。

段ノ塚古墳と関連する古墳

段ノ塚古墳についてよくある質問

段ノ塚古墳は誰の墓ですか。

宮内庁は第34代舒明天皇の押坂内陵として治定しています。学術の側でも、規模と八角形という墳形から可能性はきわめて高いとされますが、確定はしていません。

段ノ塚古墳はどこにありますか。

宮内庁は所在地を奈良県桜井市大字忍阪としています。外鎌山から南へ伸びる尾根の先端にあり、最寄りは近鉄大和朝倉駅から徒歩約24分です。

段ノ塚古墳の大きさはどれくらいですか。

宮内庁は墳丘の実測値を公表していません。下部の方形壇は三段で最下段の前面の幅はおよそ105メートル、上の八角部は二段で下段の対辺の間はおよそ42メートルとされます。

段ノ塚古墳はいつ作られましたか。

7世紀、古墳時代終末期と考えられています。前方後円墳が造られなくなり、方墳や円墳を経て八角墳が現れた時期にあたります。

段ノ塚古墳の中に入れますか。

宮内庁が管理する陵墓ですので、墳丘に立ち入ることはできません。拝所までは参拝でき、宮内庁は原則として年間をとおして、8時30分から17時までとしています。

段ノ塚古墳と併せて覚えたい言葉・用語

八角墳(はっかくふん)

上から見て八角形の古墳。7世紀の天皇の墓に限って用いられた形とされる。

終末期古墳(しゅうまつきこふん)

古墳時代の終わりごろ、7世紀に築かれた古墳。規模は小さいが、形と石の造りに凝る。

方形壇(ほうけいだん)

古墳の下部に設けられた四角い壇。段ノ塚古墳では三段で、その上に八角形の墳丘がのる。

羨道(せんどう)

横穴式石室の入口から玄室へ通じる通路。ここに副葬品が並べられることもある。

段ノ塚古墳の参考資料

この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。

  1. 宮内庁