奈良県で最大、全国第6位の巨大前方後円墳。石室も国内最大級。
五条野丸山古墳とはどんな古墳か
奈良県橿原市にある前方後円墳です。堺市の全国の大きさ順の一覧では第6位、全長約310メートルとされ、所在地は橿原市見瀬町・五条野町と書かれています。
文化庁は、指定名称を「丸山古墳」とし、所在地を橿原市五条野町・大軽町としています。解説文は、墳丘の全長を約310メートル、前方部の幅を約220メートル・高さ約15メートル、後円部の直径を約150メートル・高さ約24メートルとし、墳丘の上に葺石や埴輪は認められない、と書いています。
さらに、後円部に南を向いた全長約26メートルの巨大な横穴式石室があり、2個の石棺が安置されているといいます。大王の墓としては最後の前方後円墳とされ、河内大塚山古墳と並んで、巨大前方後円墳の終わりを示す古墳です。
五条野丸山古墳の読み方と別名
読みは「ごじょうのまるやまこふん」です。文化庁の指定名称は単に「丸山古墳」で、ふりがなは「まるやまこふん」です。
名が三つあるのは、この古墳が三つの町にまたがっているからです。後円部は五条野町、前方部は大軽町が大部分を占めており、「見瀬」を頭に置く呼び方は適当でないとされています。
「丸山」という名は、この古墳が長いあいだ単なる円墳だと思われていたことに由来します。前方部が丘陵の傾斜にまぎれ、後円部だけが丸い山に見えていたのです。
丸山古墳(まるやまこふん)
文化庁の国指定文化財等データベースが記す指定名称。ふりがなも「まるやまこふん」。
五条野丸山古墳(ごじょうのまるやまこふん)
堺市の全国の大きさ順の一覧に載る呼び方。後円部のある五条野町にちなむ、古くからの名。
見瀬丸山古墳(みせまるやまこふん)
明治以降に広まった呼び方。地元では前方部が大軽町に大きくかかるため適当でないとされる。
五条野丸山古墳は誰の墓か
この古墳に葬られた人が誰かは、わかっていません。
後円部の墳頂は、宮内庁が陵墓参考地として管理しています。かつては天武天皇と持統天皇の合葬陵の候補とされ、明日香村の野口王墓古墳とのあいだで治定が行き来しました。明治13年に鎌倉時代の盗掘記録『阿不幾乃山陵記』が見つかり、合葬陵は野口王墓と定まって、この古墳は天皇陵の指定を解かれました。
その後の説としては、欽明天皇とその后である堅塩媛の陵とするものがあります。『日本書紀』に、堅塩媛を檜隈大陵に改葬し、軽の巷で誄を奉ったとあり、その軽の巷がこの古墳の北にあたるためです。蘇我稲目の名を挙げる説もありますが、どれも決め手を欠いています。
断定できない:わかっていない
解説文は墳丘の規模と石室の記述にとどまり、被葬者にはまったくふれていない。
宮内庁の治定は野口王墓古墳:天武天皇・持統天皇ではない
宮内庁は明日香村の野口王墓古墳を檜隈大内陵として管理している。この古墳は候補から外れた。
学術的な見方のひとつ:欽明天皇と堅塩媛
堺市の一覧は治定名を併記せず「五条野丸山古墳」とだけ記す。被葬者が定まっていないため。
五条野丸山古墳の大きさと形
文化庁の解説文は、墳丘の全長を約310メートル、前方部の幅を約220メートル・高さ約15メートル、後円部の直径を約150メートル・高さ約24メートルとしています。堺市の一覧も約310メートルで、二つの数字は一致しています。
驚くのは石室です。文化庁は、後円部に南を向いた全長約26メートルの巨大な横穴式石室があり、2個の石棺が安置されていると書いています。石舞台古墳と並ぶ、国内でも最大級の石室です。
いっぽう、墳丘の上に葺石や埴輪は認められません。土を積み上げるだけ積み上げて、飾りはやめているという、後期らしい造り方です。
墳丘の全長:約310メートル
前方部:幅約220メートル、高さ約15メートル
後円部:直径約150メートル、高さ約24メートル
横穴式石室の全長:約26メートル
全国での順位:第6位(約310メートル)
五条野丸山古墳はいつ作られたか
文化庁は、この古墳を「大和地方における最大級の古墳であり、古墳時代後期の代表的前方後円墳」と結んでいます。6世紀の後半とみる説が有力です。
年代の手がかりは二つあります。一つは、墳丘に葺石も埴輪も認められないこと。埴輪は5世紀から6世紀の半ばまでの古墳に見られるもので、それが無いのは、それより後だということになります。
もう一つは、宮内庁の実測調査で出た須恵器のかけらです。その形式から、6世紀後半という年代がしぼられました。巨大前方後円墳の時代が終わり、横穴式石室を主役とする古墳へ移っていく境目にあたります。
五条野丸山古墳の場所と行き方(観光情報)
同じ橿原市・明日香村の一帯には、石舞台古墳、岩屋山古墳、牽牛子塚古墳、中尾山古墳、植山古墳が集まっています。6世紀から7世紀の古墳が、狭い範囲に並んでいます。この古墳は、その中でいちばん古く、大きなものです。
五条野丸山古墳(丸山古墳)
五条野丸山古墳(丸山古墳)の住所:橿原市五条野町・大軽町
交通:公式には確認できませんでした
駐車場:公式には確認できませんでした
料金:公式には確認できませんでした
内部見学:後円部の墳頂は宮内庁が陵墓参考地として管理しており、立ち入ることができません。それ以外の古墳全域は国の史跡です。墳丘に立ち入れるかどうかについて、公式ページでの記載は確認できませんでした。
住所は、出典によって書き方が違います。文化庁は橿原市五条野町・大軽町とし、堺市の一覧は橿原市見瀬町・五条野町としています。古墳が三つの町にまたがっているためです。
文化庁の解説文は、位置を「近鉄橿原神宮駅の南方の丘陵西端」と説明しています。行き方を案内した公式ページは確認できませんでした。石室の入口は平成4年に閉じられています。
五条野丸山古墳の発見と調査の歩み
子どもが見つけた穴と、30枚の写真
1991年、橿原市に住む児童が友人と遊んでいて、柵の外に穴があいているのを見つけました。数日前の大雨で土砂が崩れ、横穴式石室の入口が露わになっていたのです。
話を聞いた父親は、出勤前の早朝に子どもと石室に入り、内部を写真に撮りました。江戸時代の記録どおりに二つの家形石棺が並び、どちらも蓋の近くまで泥に埋まっていました。
写真の解析から、手前の石棺は6世紀の第3四半世紀、奥の石棺は7世紀の第1四半世紀に造られたと推定されました。石室正面の巨石は、石舞台古墳の石をもしのぐ重さだと判明しています。翌年、宮内庁書陵部によって開口部は閉じられました。この写真は、天皇陵の可能性がある古墳の内部を見た、数少ない記録になりました。
「丸山」と呼ばれ続けた三百年
この古墳は、長いあいだ単なる円墳だと思われていました。名も「丸山」です。
理由は地形にあります。古墳は丘陵の傾斜地に造られており、前方部が周囲の丘と続いて見えます。後円部だけが丸い山として目立っていたため、そう呼ばれてきたのです。
全国第6位の巨大前方後円墳だと判明したのは、そう遠い昔のことではありません。江戸時代の学者も、明治のお雇い外国人も、石室には強い関心を寄せながら、墳丘全体の形には気づきませんでした。いたすけ古墳やニサンザイ古墳と同じで、古墳の名は由来が忘れられたまま音だけが残ります。
日本最大の石室を、外国人が測った
明治のはじめ、造幣局に技術を伝えるために来日したウィリアム・ゴーランドは、趣味として各地の古墳を調べました。彼はこの古墳の石室を「日本最大の横穴式石室」と評しています。
記録によれば、羨道は巨大な自然石で天井を覆い、壁は粗い自然石を積んだものでした。奥へ進むと水が深くたまっていて玄室には入れませんでしたが、水面に顔を出す二つの家形石棺を観察しています。
彼が持ち帰った出土品の多くは、いまも大英博物館にあります。江戸時代にも、堤惟徳や北浦定政らが腰まで水に浸かりながら石室を測っていました。中に入れた時代の記録が、いま石室を知る手がかりです。
五条野丸山古墳から出土したもの
この古墳の墳丘からは、埴輪が一つも見つかっていません。文化庁も「墳丘上に葺石や埴輪は認められない」と書いています。
埴輪が無いことは、この古墳が5世紀から6世紀半ばの古墳より新しいことを示す手がかりになりました。出土したものが少ないのではなく、そもそも飾らない造り方に変わっていたのです。石室と石棺こそが、この古墳の主役です。
家形石棺 2基
玄室の中に直角に交わるように置かれている。材質は加古川付近の竜山石とされる。
横穴式石室
文化庁は全長約26メートルとする。羨道の天井を覆う自然石は一枚が巨大。
唐式鏡
後円部から出土。現在は京都大学に所蔵されている。
須恵器
宮内庁の実測調査で出土。形式から築造年代がしぼられた。
五条野丸山古墳と関連する古墳
五条野丸山古墳についてよくある質問
五条野丸山古墳は誰の墓ですか。
わかっていません。欽明天皇と堅塩媛の陵とする説や、蘇我稲目とする説があります。後円部の墳頂は宮内庁の陵墓参考地ですが、文化庁の解説文は被葬者にふれていません。
五条野丸山古墳はどこにありますか。
文化庁は所在地を橿原市五条野町・大軽町、堺市の一覧は橿原市見瀬町・五条野町としています。文化庁は位置を近鉄橿原神宮駅の南方の丘陵西端と説明しています。
五条野丸山古墳の大きさはどれくらいですか。
文化庁は墳丘の全長を約310メートル、前方部の幅約220メートル、後円部の直径約150メートルとしています。堺市の全国の一覧では第6位です。
五条野丸山古墳はいつ作られましたか。
文化庁は古墳時代後期の代表的前方後円墳としています。埴輪が無いことと、出土した須恵器の形式から、6世紀後半とみる説が有力です。
五条野丸山古墳の石室に入れますか。
入れません。1991年に土砂崩れで開口部が現れ、内部が撮影されましたが、翌年に宮内庁書陵部によって閉じられました。後円部の墳頂も陵墓参考地で立ち入れません。
五条野丸山古墳と併せて覚えたい言葉・用語
陵墓参考地(りょうぼさんこうち)
宮内庁が、陵墓の可能性があるとして管理する土地。治定はされていないが立ち入れない。
羨道(せんどう)
横穴式石室で、外から棺を置く部屋まで続く通路。この古墳では巨大な自然石が天井を覆う。
玄室(げんしつ)
横穴式石室の奥にある、棺を安置する部屋。この古墳では家形石棺が2基置かれている。
家形石棺(いえがたせっかん)
屋根の形の蓋をもつ石の棺。後期に広まり、横穴式石室に納められることが多い。
五条野丸山古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。