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奈良県

野口王墓古墳とはどんな古墳か|誰の墓か・場所

野口王墓古墳  / ノグチノオウノハカコフン

八角墳 7世紀

天武天皇と持統天皇の合葬陵とされる、明日香村の八角形の古墳。

野口王墓古墳とはどんな古墳か

奈良県高市郡明日香村にある古墳です。宮内庁は、第40代天武天皇と第41代持統天皇の檜隈大内陵として管理し、所在地を奈良県高市郡明日香村大字野口としています。

宮内庁が記す陵形は「円丘」です。いっぽう考古学では、八角形の墳丘を持つ八角墳と考えられています。八角墳は7世紀の中ごろから大王の墓にかぎって造られるようになった形で、京都市の御廟野古墳、明日香村の牽牛子塚古墳中尾山古墳も同じ仲間に数えられます。

石室は切石を積んだもので、二つの部屋からなると伝えられます。天武天皇の夾紵棺と、火葬された持統天皇の骨蔵器が納められていたとされます。被葬者がほとんど疑われない、数少ない古墳です。

野口王墓古墳の読み方と別名

読みは「のぐちのおうのはかこふん」です。「王墓」を「おうぼ」ではなく「おうのはか」と読みます。明日香村大字野口という地名に、「王の墓」を足した形です。

この古墳には、立場によって三つの呼び方があります。宮内庁の帳簿の上では檜隈大内陵、考古学の論文では野口王墓古墳、そして教科書や案内板では天武・持統天皇陵です。どれも同じ一つの古墳を指します。

『日本書紀』には「大内陵」と記され、持統天皇を「大内山陵に合葬」したと見えます。宮内庁の陵名は、この古い呼び名を引き継いでいます。

野口王墓古墳(のぐちのおうのはかこふん)

考古学の側からの呼び方。所在地の明日香村大字野口という地名に由来する。

檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)

宮内庁が定める陵名。天武天皇と持統天皇の両方の陵として、同じ名で記されている。

天武・持統天皇陵(てんむ・じとうてんのうりょう)

治定にもとづく呼び方。二人の合葬陵とされることから、こう並べて書かれる。

野口王墓古墳は誰の墓か

宮内庁は、この古墳を天武天皇と持統天皇の檜隈大内陵として管理しています。そして、この治定については学説の側からもほとんど異論がありません。

理由は、鎌倉時代の盗掘にあります。1235年に賊が入り、そのときに石室の中を書きとめた『阿不幾乃山陵記』という記録が作られました。石室は瑪瑙、棺は乾漆であったと書かれています。

明治13年、この記録が京都の高山寺から見つかります。記録に記された「野口」という里の名と、古い文書にある「大和青木御陵天武天皇御陵」の記載が結びつき、明治14年に野口王墓が天武・持統合葬陵として定まりました。

それ以前は、橿原市の五条野丸山古墳をこの陵とする説と行き来していました。持統天皇は火葬されて骨壺に納められたはずで、石棺が二つある五条野丸山は合葬陵として不自然だという指摘が、決め手のひとつになりました。

宮内庁の治定。学説もこれを支持する:第40代天武天皇

陵名は檜隈大内陵、陵形は円丘、所在地は奈良県高市郡明日香村大字野口と記されている。

宮内庁の治定。天武天皇と同じ陵に合葬:第41代持統天皇

持統天皇のページにも同じ檜隈大内陵・同じ所在地が記されている。合葬であることがわかる。

野口王墓古墳の大きさと形

宮内庁が公表しているのは、陵名・陵形・所在地・行き方・参拝の時間までです。墳丘の寸法は、宮内庁のページには載っていません。

宮内庁が記す陵形は「円丘」です。ところが考古学では、本来の墳形は八角形で、五段に築かれ、まわりに石段がめぐっていたと考えられています。同じ古墳を、行政の帳簿は円丘と呼び、研究者は八角墳と呼んでいます。

同じことは京都市の御廟野古墳でも起きています。宮内庁は「上円下方」とし、研究者は八角墳とします。二つの説明が争っているのではなく、そもそも記録の目的が違うのです。宮内庁の欄は陵墓を管理するためのもので、発掘の結果を書く場所ではありません。

墳丘の各部の寸法を記した公式のページは、今回は確かめられませんでした。

宮内庁が記す陵形:円丘

宮内庁が記す陵名:檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)

所在地:奈良県高市郡明日香村大字野口

墳丘の直径・高さ:宮内庁のページには記載がなく、公式には確認できませんでした

野口王墓古墳はいつ作られたか

『日本書紀』には、天武天皇の死後、687年に「始めて大内陵を築く」という記事があります。翌688年に天武天皇が葬られ、702年に亡くなった持統天皇は703年に火葬されて合葬されたと伝えられます。

造られた年がここまではっきりしている古墳は、ほとんどありません。箸墓古墳大仙陵古墳も、埴輪や土器から年代を推し量るしかありません。

646年に薄葬の令が出たあとも、支配者層はなお古墳を造り続けました。中尾山古墳や高松塚古墳と同じく、この古墳もその令のあとに築かれた古墳です。大きさではなく形と造りで身分を示す時代に入っていました。

野口王墓古墳の場所と行き方(観光情報)

この古墳は「飛鳥・藤原の宮都」として世界遺産に登録されています。明日香村の古墳は、一つずつ見るより、まとめて歩いたほうが違いがよくわかります。

拝所の前に立っても、墳丘は木におおわれていて八角形には見えません。形を知りたいときは、村の資料館の模型を見るのが早道です。

野口王墓古墳(天武天皇・持統天皇 檜隈大内陵)

地図で開く

野口王墓古墳(天武天皇・持統天皇 檜隈大内陵)の住所:奈良県高市郡明日香村大字野口

交通:近鉄 飛鳥駅から徒歩約17分(宮内庁)

駐車場:公式には確認できませんでした

料金:公式には確認できませんでした

内部見学:宮内庁が管理する陵墓で、墳丘に立ち入ることはできません。拝所までは参拝できます。宮内庁は参拝可能な曜日を「原則、年間をとおして参拝可能」、参拝時間を「原則、8時30分~17時」としています。

宮内庁は、天武天皇のページにも持統天皇のページにも、まったく同じ所在地と同じ行き方を載せています。二人が同じ陵に葬られているためです。

近鉄飛鳥駅から徒歩約17分。同じ明日香村には高松塚古墳・キトラ古墳石舞台古墳・中尾山古墳が集まっており、歩いてまわれる範囲にいくつもの古墳があります。いずれも7世紀の、古墳時代の終わりの姿を伝えるものです。

野口王墓古墳の発見と調査の歩み

  1. 鎌倉時代の盗掘が、被葬者を確かなものにした
  2. 五条野丸山古墳と、行ったり来たりした治定
  3. 八角墳という、大王だけの形

鎌倉時代の盗掘が、被葬者を確かなものにした

1235年3月、二晩にわたって賊が入り、この古墳は盗掘を受けました。藤原定家の日記『明月記』にその記録が残っています。

天武天皇の棺は暴かれ、遺体は引き出され、石室の中に遺骨と白髪が散乱していたと伝えられます。持統天皇の遺骨は火葬されて銀の骨壺に納められていましたが、壺は奪われ、中の骨は近くに捨てられたといいます。

ひどい話ですが、このとき石室の様子を書きとめた『阿不幾乃山陵記』という記録が作られました。それが明治13年に高山寺から見つかり、被葬者を定める決め手になります。盗掘という最悪の出来事が、六百年後に古墳を救ったことになります。

五条野丸山古墳と、行ったり来たりした治定

江戸時代から明治にかけて、天武・持統の合葬陵がどれかは定まりませんでした。候補は二つ、この野口王墓と、橿原市の五条野丸山古墳です。

元禄の修陵では野口王墓が合葬陵とされましたが、享保の『大和志』では五条野丸山が合葬陵とされ、野口王墓は言及されなくなります。幕末には野口王墓が文武天皇陵として仮に修補され、明治4年には合葬陵ではなくなりました。

決め手になったのは、持統天皇が火葬されていたという事実です。骨壺に納められた人と、石棺に納められた人が並ぶはずがない。石棺が二つある五条野丸山は合葬陵としては不自然だ、という指摘が通り、明治14年に野口王墓に戻りました。五条野丸山は陵墓参考地になりました。

八角墳という、大王だけの形

7世紀の中ごろから、大王の墓は八角形に造られるようになります。日本で初めて、大王だけに固有の形の墓が現れた時期です。

八角形とされる古墳は多くありません。桜井市の段ノ塚古墳、明日香村の牽牛子塚古墳・中尾山古墳、京都市の御廟野古墳、そしてこの野口王墓です。高取町の束明神古墳や明日香村の岩屋山古墳にも、その可能性が指摘されています。

前方後円墳が大きさで身分を示したのに対し、八角墳は形そのもので身分を示しました。大きさを競う時代が終わり、天の方角にちなむ八という数に意味を託す時代に変わったのです。この古墳は、その変化のただ中にあります。

野口王墓古墳から出土したもの

この古墳から出土したものは、ほとんど残っていません。1235年の盗掘で、副葬品の大部分が持ち去られたためです。

いま伝わるのは、そのときに作られた『阿不幾乃山陵記』という書かれた記録だけです。ものは失われましたが、記録が残ったおかげで被葬者が確かめられました。牽牛子塚古墳や高松塚古墳のように、発掘によって中身がわかった古墳とは道筋が違います。

夾紵棺

天武天皇の棺とされる、漆で布を貼り固めた棺。石室に納められていたと伝えられる。

金銅製骨蔵器

持統天皇の骨壺とされるもの。火葬された遺骨を納めた。鎌倉時代の盗掘で奪われた。

切石積みの石室

二つの部屋からなるとされる石室。『阿不幾乃山陵記』は瑪瑙であったと記す。

野口王墓古墳と関連する古墳

野口王墓古墳についてよくある質問

野口王墓古墳は誰の墓ですか。

宮内庁は第40代天武天皇と第41代持統天皇の檜隈大内陵として管理しています。鎌倉時代の盗掘記録が明治になって見つかったことから、学説の側からもほとんど異論のない、めずらしい古墳です。

野口王墓古墳はどこにありますか。

宮内庁は所在地を奈良県高市郡明日香村大字野口としています。行き方は近鉄飛鳥駅から徒歩約17分と案内されています。

野口王墓古墳の大きさはどれくらいですか。

宮内庁のページには墳丘の寸法の記載がなく、公式には確認できませんでした。記されているのは陵形が「円丘」であることまでです。考古学では八角形の五段築成と考えられています。

野口王墓古墳はいつ作られましたか。

『日本書紀』には、天武天皇の死後、687年に大内陵を築き始めたとあります。翌年に天武天皇が葬られ、703年に持統天皇が合葬されたと伝えられます。

野口王墓古墳の中に入れますか。

宮内庁が管理する陵墓で、墳丘に立ち入ることはできません。拝所までは参拝でき、宮内庁は原則として年間をとおして参拝可能、時間は原則8時30分から17時としています。

野口王墓古墳と併せて覚えたい言葉・用語

八角墳(はっかくふん)

墳丘の平面が八角形の古墳。7世紀の大王の墓にかぎられ、全国でも数基しか知られていない。

治定(じじょう)

宮内庁がこの古墳を誰それの陵墓と定めること。行政上の扱いであり、発掘で確かめた結果ではない。

合葬(がっそう)

二人以上を同じ墓に葬ること。この古墳では天武天皇と持統天皇が合葬されたと伝えられる。

骨蔵器(こつぞうき)

火葬した遺骨を納める容器。火葬が広まる7世紀末以降に現れ、棺に代わる役目を果たす。

野口王墓古墳の参考資料

この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。

  1. 宮内庁
  2. 宮内庁