纒向遺跡でもっとも古い古墳とされてきた、全長約99メートルの墳丘。
纒向石塚古墳とはどんな古墳か
纒向石塚古墳は、奈良県桜井市大字太田にある前方後円墳です。国の史跡「纒向古墳群」を構成し、標高69メートル前後の扇状地の上に立ちます。
桜井市纒向学研究センターは「1971年の調査で周濠から出土した多くの遺物の年代観から、庄内0式期(3世紀初頭)の築造とされ、最古の古墳として注目された古墳です」としています。
規模は全長約99メートル、後円部径約68メートルから69メートル、前方部長約31メートル。同センターは「全長と後円部径、前方部長の比率が3:2:1の纒向型前方後円墳の典型的なスタイルを持ちます」としています。
第二次世界大戦中に高射砲陣地が置かれ、埋葬施設ごと墳丘の上部が大きく削られました。そのため、中に誰がどう葬られていたのかは、いまもわかっていません。
纒向石塚古墳の読み方と別名
読みは「まきむくいしづかこふん」です。桜井市纒向学研究センターのページにも、ふりがなが同じ形で載っています。
難しいのは纒の字です。纏と書かれることも多く、遺跡名も纒向遺跡と纏向遺跡の両方が使われてきました。公式の機関名は桜井市纒向学研究センターで、纒の字を用いています。
国の史跡としての名称は「纒向古墳群」で、纒向石塚古墳はその構成要素にあたります。同じ組のホケノ山古墳も同じ史跡に含まれます。
纒向石塚古墳(まきむくいしづかこふん)
桜井市纒向学研究センターと文化庁が用いる表記。史跡の名は纒向古墳群です。
纏向石塚古墳(まきむくいしづかこふん)
纒を纏と書く形。同じ古墳を指します。地図や本によって字が揺れます。
纒向石塚古墳は誰の墓か
纒向石塚古墳の被葬者はわかっていません。宮内庁の治定もありません。
それ以前に、埋葬施設そのものが残っていません。桜井市纒向学研究センターは、第二次世界大戦中に高射砲陣地の設営のために埋葬施設とともに墳丘の上部が大きく削平されているとしています。棺も、槨も、副葬品も、まとめて失われました。誰が葬られていたかを知る手がかりが、なくなったのです。
文化庁も、纒向古墳群の解説で埋葬の内容には触れていません。周溝から農具・土木具、祭祀具、建築部材などが出土したことを述べるにとどまります。
この古墳が3世紀の初めから前半のものだとすれば、邪馬台国や卑弥呼の話と重なります。そのため人物を当てはめる説も語られてきましたが、根拠のある話ではありません。
断定できない:わかっていない
埋葬施設は戦時中の削平で失われたとし、被葬者には触れていない。
公式の説明:わかっていない
纒向古墳群の解説は周溝からの出土品に触れるのみで、被葬者を比定する記載はない。
纒向石塚古墳の大きさと形
桜井市纒向学研究センターは、墳丘を「全長約99m、後円部径約68~69m、前方部長約31m」とし、周濠の幅を約20メートルとしています。
目を引くのは比率です。全長・後円部径・前方部長の比が三対二対一という纒向型前方後円墳の典型で、後円部が大きく、前方部が短い。前方部が短いことは、この形が定型になる前の姿を示していると考えられています。
墳丘の構造については、後円部西側の一部に段築が残っていることが確認され、本来は後円部が3段、前方部には段築が無かったと想定されています。国の史跡「纒向古墳群」全体の面積は49916.6平方メートルです。
墳丘の長さ:約99メートル
後円部の径:約68メートルから69メートル
前方部の長さ:約31メートル
周濠の幅:約20メートル
立地する扇状地の標高:69メートル前後
史跡「纒向古墳群」の面積:49916.6平方メートル
纒向石塚古墳はいつ作られたか
築造の時期については、説が分かれています。桜井市纒向学研究センターは、当初は庄内0式期(3世紀初頭)の築造とされたとしたうえで、現在は「庄内1式期(3世紀前半)とする説と、築造が庄内3式期(3世紀中頃)で埋葬を布留0式期(3世紀後半)とする説の2者があります」としています。同じ3世紀のなかで、初頭から後半まで幅があるということです。
文化庁は、纒向古墳群全体の築造時期を「庄内式期から布留式最古期、すなわち弥生時代終末期から古墳時代前期初頭にかけて」としています。同じ史跡のホケノ山古墳は3世紀中頃、箸墓古墳は3世紀中頃から後半とされ、纒向石塚古墳はその手前に置かれます。
纒向石塚古墳の場所と行き方(観光情報)
纒向遺跡には、纒向石塚古墳のほかに矢塚古墳、勝山古墳、東田大塚古墳、そしてホケノ山古墳と箸墓古墳があります。
桜井市纒向学研究センターは、これまでの調査面積が広大な遺跡の2パーセントにも足りないとしています。つまり、まだほとんど掘られていない場所です。
纒向石塚古墳
所在地は、桜井市纒向学研究センターのページに「纒向石塚古墳(国指定史跡)(桜井市大字太田)」と記されています。
最寄り駅からの道のり、駐車場、料金、墳丘に入れるかどうかについては、公式のページで確かめられませんでした。推測では書きません。
同センターは、纒向遺跡そのものについて「桜井市域の北部、JR巻向駅周辺にひろがる」と説明しています。古墳は、その遺跡の一画にあります。
纒向石塚古墳の発見と調査の歩み
三対二対一という、決まった形
纒向石塚古墳の形は、数字で言い表せます。
桜井市纒向学研究センターは「全長と後円部径、前方部長の比率が3:2:1の纒向型前方後円墳の典型的なスタイルを持ちます」としています。全長約99メートル、後円部径約68メートルから69メートル、前方部長約31メートル。たしかに、おおよそ三対二対一です。
あとの時代の前方後円墳は、前方部がもっと長く、高く、大きく広がります。大仙古墳や誉田御廟山古墳では、前方部のほうが目立つほどです。纒向型はその逆で、円い部分が主で、前方部は取っ手のように短く付きます。形が定まる前の、途中の姿だと考えられています。
同じ形は九州から関東にまで分布します。文化庁は、その分布の中心が大和にあり規模も大きいことから、すでに大和の首長を中心とした政治連合ができあがっていたことを示唆するとしています。
高射砲の陣地にされ、上が削られた
弥生の墓か、最初の古墳か
纒向石塚古墳は、時代の区切りの上に立っています。
文化庁は、纒向古墳群の価値を次のように述べています。
本古墳群は定型化した前方後円墳の成立過程、さらには我が国における古代国家の形成過程及びその時期の社会の在り方を知るうえで重要である
同じ解説のなかで、文化庁は「纒向石塚古墳の周溝から出土した木製品、ホケノ山古墳の埋葬施設や副葬品の構成等は、定型化した前方後円墳には見られないものであり、弥生時代終末期の墳丘墓とする意見もある」とも書いています。
古墳と呼ぶか、墳丘墓と呼ぶか。その線引きが、まだ定まっていません。古墳時代がいつ始まったかという問いは、この古墳の呼び名の問題でもあります。
纒向石塚古墳から出土したもの
桜井市纒向学研究センターは、この古墳について「遺物は比較的豊富にあるものの、築造時期については現在、庄内1式期とする説と、築造が庄内3式期で埋葬を布留0式期とする説の2者があります」としています。品はあるのに、年代が決まらない。どの層から出た土器を基準にするかで、答えが変わるためです。
埋葬施設が失われているため、棺に納められていた品は一つも知られていません。
弧文円板
弧を組み合わせた文様を刻んだ木の円板。祭りに使われたとみられる品で、山陽地方に多い。
鶏形木製品
鶏をかたどった木製品。朱が塗られていたとされる。周濠から出土した。
鋤・鍬・建築部材
周溝から出土した木製品。墓でありながら、暮らしと土木の道具が納められていた。
纒向石塚古墳と関連する古墳
纒向石塚古墳についてよくある質問
纒向石塚古墳は誰の墓ですか。
わかっていません。宮内庁の治定もありません。第二次世界大戦中に埋葬施設ごと墳丘の上部が削られたため、葬られた人を知る手がかりそのものが失われています。
纒向石塚古墳はどこにありますか。
奈良県桜井市大字太田です。桜井市纒向学研究センターは、纒向遺跡がJR巻向駅の周辺にひろがるとしています。最寄り駅からの行き方は公式のページで確かめられませんでした。
纒向石塚古墳の大きさはどれくらいですか。
桜井市纒向学研究センターは全長約99メートル、後円部径約68メートルから69メートル、前方部長約31メートルとしています。周濠の幅は約20メートルです。
纒向石塚古墳はいつ作られたのですか。
3世紀とされますが、説が分かれています。庄内1式期の3世紀前半とする説と、築造が庄内3式期の3世紀中頃で埋葬が布留0式期の3世紀後半とする説があります。
纒向石塚古墳の読み方は何ですか。
まきむくいしづかこふんです。纒の字は纏と書かれることもあります。国の史跡としての名称は纒向古墳群で、この古墳はその構成要素にあたります。
纒向石塚古墳と併せて覚えたい言葉・用語
纒向型前方後円墳(まきむくがたぜんぽうこうえんふん)
全長・後円部径・前方部長の比が三対二対一になる形。前方部が短く低いのが特徴。
周溝(しゅうこう)
墳丘のまわりに掘られた溝。土を取った跡でもあり、そこに投げ込まれた品が出土する。
弧文円板(こもんえんばん)
弧を組み合わせた文様を刻んだ木の円板。祭りに用いられたとみられる。
布留式(ふるしき)
庄内式に続く土器の型式。古墳時代前期の年代のものさしとして使われる。
纒向石塚古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。