道路の下から現れた、東日本最古級とされる全長約62メートルの前方後方墳。
高尾山古墳とはどんな古墳か
高尾山古墳はひとことで言えば道路の下から出てきた古墳です。静岡県沼津市東熊堂字北方地内にあり、沼津市は愛鷹山から南に延びる尾根の末端上に立地する全長約62メートルの前方後方墳としています。
古墳と判明する前、後方部の高まりには高尾山穂見神社が、前方部には熊野神社が鎮座していました。都市計画道路の計画線上にあったことから、平成17年・19年に試掘調査が行われ、神社の移転後、平成20・21年度に本調査が実施されます。
その結果、これが古墳時代のいちばん最初の時期の古墳だとわかりました。沼津市は、箸墓古墳と同時期の古墳であるとともに、長野県松本市の弘法山古墳や千葉県木更津市の高部30・32号墳などとともに、古墳時代最初頭に東日本で成立した古墳の一つとして位置付けられる、としています。
高尾山古墳の読み方と別名
読みは「たかおさんこふん」です。沼津市の文化財のページも、この読みで振り仮名を付けています。
名の由来は、後方部の上に鎮座していた高尾山穂見神社です。方形の高台に社が立っていたことから、古墳の上に建てられているのではないかと疑われ、それが調査のきっかけになりました。
いったんは小字名から辻畑古墳として登録されましたが、2011年に高尾山古墳が正式名称とされました。社の名が、古墳の名として残った形です。
高尾山古墳(たかおさんこふん)
沼津市が用いる名。後方部にあった高尾山穂見神社にちなむ。
辻畑古墳(つじばたけこふん)
遺跡として登録された当初の名。2011年に高尾山古墳へ改められた。
高尾山古墳は誰の墓か
高尾山古墳の被葬者はわかっていません。沼津市も人物を特定していません。宮内庁の治定もありません。
かわりに沼津市が書いているのは、副葬品から読み取れる人物像です。
埋葬者は、主体部から出土した鏡(破砕鏡)や塗布された朱(水銀朱)から、高い経済力と権力を有し、副葬品のうち、鉄槍・鉄鏃などの武具が大半を占めていることから、武人的性格が強い人物と想定される
副葬品は青銅鏡1面、勾玉1点、鉄槍2点、ヤリガンナ1点、鉄鏃32点。数のうえで圧倒的なのは矢じりです。
鏡と朱で格を示し、槍と矢で立場を示した人物、というところまでが公式に言えることです。埋葬は木の棺を墓坑に直接埋める木棺直葬で、棺の底には水銀朱が敷かれていました。
公式の説明:わかっていない
人物を比定する記載はない。高い経済力と権力を持つ武人的性格の強い人物と想定するにとどまる。
高尾山古墳の大きさと形
沼津市は規模を全長約62メートルとし、後方部約31メートル、前方部約31メートル、周溝幅8から9メートル程度(ただし南端は2メートル前後)としています。
注目すべきは造り方です。沼津市によれば、墳丘は尾根を旧石器時代の地層まで平坦に削平してから、黒色土を1メートル程度盛土し、その上に色調の異なる土を交互に突き固めて4メートルほど盛土しています。
埋葬施設は木棺直葬で、墓坑は南北約5メートル・東西約6メートルの長方形。中の木棺は東西幅約5.1メートル、南北幅約1.3メートルの舟形木棺である可能性が高いとされます。細長い舟の形をした棺が、削り出した尾根の頂に据えられていました。
全長:約62メートル
後方部・前方部:ともに約31メートル
周溝の幅:8から9メートル程度(南端は2メートル前後)
盛土の厚さ:黒色土1メートル程度の上に4メートルほど
木棺の大きさ:東西幅約5.1メートル・南北幅約1.3メートル
鉄鏃の数:32点
高尾山古墳はいつ作られたか
沼津市は、この古墳の築造時期を大廓3式期かその少し前と結論づけています。大廓3式期は西暦250年頃です。
かつては、墳丘内部の土器が大廓1式期(西暦230年頃)にさかのぼることから、築造と埋葬に時間差があるのではないかと検討されていました。しかし近年の再検討で、墳丘内部の土器は古墳築造前の集落に伴うものである可能性が高いとされ、いまは築造と埋葬にほとんど時間差はないと推定されています。
西暦250年頃は、奈良県桜井市の箸墓古墳が成立したとされる時期です。沼津市は「畿内に統一的王権が成立した時に東日本でも独自に古墳時代へ移行したことを示しており」と記しています。
高尾山古墳の場所と行き方(観光情報)
この古墳は都市計画道路沼津南一色線の事業区域と重なっています。沼津市は平成29年12月に、道路事業と古墳の保存との両立、さらにこれらの利活用と周辺環境の調和を図る方針を決定しました。
行き方の案内が公式に出ていないのは、現地がまだ動いているからです。訪ねる前に沼津市のページで最新の状況を確かめてください。
高尾山古墳
沼津市は所在地を沼津市東熊堂字北方地内としています。
行き方・駐車場・料金・立ち入りの可否については、沼津市のページに記載を確かめられませんでした。古墳は都市計画道路の事業区域と重なっており、整備が進行中のためとみられます。
沼津市は高尾山古墳ガイドブックと、令和5年1月に実施した見学会の資料を公開しています。出土遺物に関する解説動画も市の公式チャンネルで公開されています。
高尾山古墳の発見と調査の歩み
道路と古墳を、両方立てる
高尾山古墳がほかの古墳と違うのは、いまも進行中の話だという点です。
沼津市によれば、都市計画道路沼津南一色線は国道1号や幹線道路の慢性的な渋滞を緩和するため平成8年から街路事業に着手しましたが、道路建設予定地内で発見された高尾山古墳が、平成26年の調査で東日本最古級かつ最大級の前方後方墳と判明しました。
沼津市は平成29年12月、道路事業と古墳の保存との両立を図る方針を決定します。そして通常の入札ではなく設計競技方式を採用し、最優秀提案を決定しました。
道を通すか、古墳を残すか。その二択にしない方法を、市は選びました。
尾根を削り、五メートル積む
沼津市の記述で目を引くのは、墳丘の造り方です。
墳丘は、尾根を旧石器時代の地層まで平坦に削平してから、黒色土を1メートル程度盛土し、その上に色調の異なる土を交互に突き固め4メートルほど盛土している
旧石器時代の地層まで削る。そのうえで色の違う土を交互に突き固めて積む。手間のかかる工程です。
古墳の立地の標高は約20メートルで、高台に築かれた古墳とは言いにくい場所にあります。それでも土を五メートル近く積み上げているのは、高さそのものを作り出す意志があったからです。同じ時期の東日本では、長野県松本市の弘法山古墳が同じく前方後方墳として知られます。
三十年ぶりの国史跡
令和6年6月24日、国の文化審議会から文部科学大臣に高尾山古墳の国史跡指定が答申されました。
文化庁の報道発表によれば、この日の答申は特別史跡の新指定1件、史跡名勝天然記念物の新指定12件・追加指定等37件などを含み、この結果、官報告示を経て史跡名勝天然記念物は3,376件となる予定でした。
沼津市は、令和6年10月11日付け官報号外第238号 文部科学省告示第142号にて正式に国指定史跡になったとし、沼津市の国史跡指定は興国寺城跡以来、30年ぶりになると記しています。
発見から指定までのあいだに、試掘から本調査、追加調査、保存方針の決定、設計競技と、二十年近い時間が流れました。
高尾山古墳から出土したもの
沼津市は、主体部以外でも土器などが大量に出土しているとし、周溝の土器に東海西部系・北陸系・近江系など他地域のものが含まれる状況を挙げています。
よそから来た土器が混じるということは、そこに人の行き来があったということです。主体部は未盗掘でした。
青銅鏡
破砕鏡で、上方作系浮彫式獣帯鏡。主体部から1面が出土している。
勾玉
主体部から1点。鏡とともに、鉄製品以外の数少ない副葬品。
鉄槍・鉄鏃
鉄槍2点、鉄鏃32点。副葬品の大半を武器が占める。
ヤリガンナ
木を削る鉄の工具。1点が出土している。
土器
周溝から大廓1式から4式が連綿と出土。東海西部系・北陸系・近江系も少量含む。
高尾山古墳と関連する古墳
高尾山古墳についてよくある質問
高尾山古墳は誰の墓ですか。
わかっていません。沼津市も人物を特定していません。鏡や水銀朱から高い経済力と権力を持ち、鉄槍・鉄鏃などの武具が副葬品の大半を占めることから、武人的性格が強い人物と想定されています。
高尾山古墳の大きさはどれくらいですか。
沼津市は全長約62メートルの前方後方墳とし、後方部約31メートル、前方部約31メートル、周溝幅8から9メートル程度としています。
高尾山古墳はいつ作られましたか。
沼津市は大廓3式期(西暦250年頃)かその少し前と結論づけています。箸墓古墳と同時期にあたり、古墳時代最初頭に東日本で成立した古墳の一つとされます。
高尾山古墳はどこにありますか。
静岡県沼津市東熊堂字北方地内です。愛鷹山から南に延びる尾根の末端上に立地します。行き方については、沼津市のページに記載を確かめられませんでした。
高尾山古墳は国の史跡ですか。
はい。令和6年6月24日に国史跡指定が答申され、令和6年10月11日付け官報号外第238号 文部科学省告示第142号で正式に国指定史跡になりました。
高尾山古墳と併せて覚えたい言葉・用語
前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)
四角い墳丘に方形の突出部が付く古墳。前方後円墳より古い例も多い。
木棺直葬(もっかんじきそう)
石室を築かず、掘った墓坑に木の棺を直接埋める葬り方。
舟形木棺(ふながたもっかん)
平面が舟の形をした木の棺。丸太を刳り抜いて作る。
水銀朱(すいぎんしゅ)
硫化水銀からなる赤い顔料。棺の内側に敷かれることが多い。
高尾山古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。