同じ大きさの石室と石棺が二つ並ぶ、全国でも稀な双方墳。
二子塚古墳とはどんな古墳か
大阪府南河内郡太子町にある古墳です。太子町は所在地を大阪府南河内郡太子町大字山田3385番地とし、推古天皇陵の東方約200メートルの傾斜地をなす段丘上に位置する、主軸の長さ約60メートル以上の双方墳としています。
二基の方形の墳丘が並び、それぞれに東南へ開口する横穴式石室があって、いずれにも石棺が納められています。太子町によれば東墳丘石室は長さ約5メートル、西墳丘石室は長さ約5.30メートルで、どちらも壁面に塗られた漆喰が残ります。
石棺はそれぞれ石室のほぼ中央に置かれ、身は刳拔き式で外法の長さ約2.20メートル、蓋は一枚石の蒲鉾形です。太子町は、古墳時代終末期に属する古墳として稀有なもので、学術上の価値が高いとしています。
二子塚古墳の読み方と別名
読みは「ふたごづかこふん」です。文化庁のふりがなも同じです。
名の由来は、江戸時代の資料にはっきり書かれています。太子町は、享和元年(1801年)に刊行された『河内名所図会』に鳥瞰図とともに次のように見えるとしています。
二子塚山田村。推古陵の東にあり。二ッ双ふをもつて名によぶ。
二つ並んでいるから二子塚と呼ぶ、と200年以上前の書物に記されているわけです。古墳の名の由来がこれほど明確に残る例は多くありません。二子塚という名の古墳は各地にありますが、多くは前方後円墳を二つのこぶに見立てた名です。
二子塚古墳(ふたごづかこふん)
文化庁の指定名称。二基の墳丘が並ぶ姿を双子に見立てた名とみられる。
河内名所図会(かわちめいしょずえ)
享和元年刊。二ッ双ふをもつて名によぶ、と由来を記す。
双方墳(そうほうふん)
方墳が二基連なる形。全国的にも珍しく、長方墳とも呼ばれることがある。
二子塚古墳は誰の墓か
この古墳に葬られた人が誰かは、わかっていません。太子町も文化庁も、被葬者について記していません。
下調べによれば、第33代推古天皇と竹田皇子の真の合葬陵墓とする伝承があるとされます。
ここで問題になるのが、200メートル西にある山田高塚古墳です。宮内庁はそちらを推古天皇と竹田皇子の合葬陵墓として治定しています。つまり、推古天皇の陵とされる古墳が二つあることになります。
下調べは、両者が似た様相であり、考古学的にはいずれが真陵墓であるか明らかでないとしたうえで、両古墳が当時の天皇陵クラスの古墳であることは確かとされる、と記しています。
二つの石室と石棺がほぼ同じ大きさで並ぶ造りは、合葬が一般化する終末期の風習によると推測されています。二人を対等に葬るという意図だけが、形に残っています。
断定できない:わかっていない
太子町の案内は墳丘・石室・石棺の規模と指定の経緯を記すのみで、被葬者にふれていない。
宮内庁の治定は無い:治定はされていない
陵墓ではなく国の史跡。宮内庁は西方の山田高塚古墳を推古天皇陵として治定している。
二子塚古墳の大きさと形
太子町は、二基の方形の墳丘が西南方から東北方にわたって並列する主軸の長さ約60メートル以上の双方墳としています。文化庁の解説文も、あたかも主軸の長さ約60メートルの双方墳の形式をなしている、と記しています。
石室の規模は、太子町によれば東墳丘石室が長さ約5メートル・幅約1.80メートル・高さ約1.60メートル、西墳丘石室が長さ約5.30メートル・幅約1.50メートル・高さ約1.55メートルです。東西でほとんど同じ大きさに造られています。
石棺も同様で、身は刳拔き式、外法の長さ約2.20メートル、蓋は一枚石の蒲鉾形とされます。史跡としての指定面積は4,833平方メートル(公簿)です。
主軸の長さ:約60メートル以上
東墳丘石室:長さ約5メートル・幅約1.80メートル・高さ約1.60メートル
指定面積:4,833平方メートル(公簿)
二子塚古墳はいつ作られたか
太子町は、この古墳を古墳時代終末期に属する古墳とし、稀有なもので学術上の価値が高い、としています。何世紀という書き方は、公式のページには見あたりませんでした。
下調べによれば、7世紀後半頃、あるいは7世紀中頃から前半頃と推定されています。
年代を示す手がかりは、石室と石棺の造りにあります。横穴式石室の小型化や、石室の内面に漆喰を塗ることは、古墳時代終末期の様相とされます。石棺の蓋も、縄掛突起が退化して欠け、形も蒲鉾形になっています。
同じ磯長谷の山田上ノ山古墳は孝徳天皇の陵に治定されており、その崩御は654年と伝えられます。この一帯が7世紀の墓域であったことは確かとみられます。
二子塚古墳の場所と行き方(観光情報)
この古墳は磯長谷古墳群の一つに数えられます。同じ谷には、宮内庁が治定する敏達・用明・推古・孝徳の四つの天皇陵と聖徳太子墓があるとされ、梅鉢御陵と総称されます。孝徳天皇陵とされる山田上ノ山古墳も、同じ太子町山田にあります。
国指定史跡 二子塚古墳
国指定史跡 二子塚古墳の住所:大阪府南河内郡太子町大字山田3385番地
交通:公式には確認できませんでした
駐車場:公式には確認できませんでした
料金:公式には確認できませんでした
内部見学:令和4年度より、史跡の保存整備工事のため安全面を考慮して立ち入り禁止です。工事は令和8年度に終わる計画でしたが、令和11年度に延期されたと太子町が知らせています
令和4年度より、二子塚古墳は史跡の保存整備工事のため立ち入り禁止です。太子町は、保存整備工事は令和8年度に終わる計画だったが令和11年度に延期となった、と知らせています。訪ねる前に、太子町の最新の案内を確かめてください。
所在地は太子町が公表する大阪府南河内郡太子町大字山田3385番地です。行き方・駐車場・料金は、公式の記載を確かめられませんでした。
二子塚古墳の発見と調査の歩み
大正4年、住宅の壁土のために削られて
この古墳の石室が見つかったきっかけは、壁土でした。
太子町は、梅原末治の「河内國山田村二子塚調査報告」を引きながら次のように書いています。大正4年3月末に、その一部が住宅の壁土とするため削られ大石が出たと所有者から報告があった。現地へ行くと頂上が削り取られ、その下に天井石がみえ、石室の中に石棺を発見した、と。
大正5年頃には、開墾によって西墳丘の石室も見つかり、中に石棺がありました。その後も幾度となく開墾の危機にさらされますが、所有者の努力により守られてきたといいます。
それでも昭和31年、とうとう古墳が売りに出されることになりました。ここから、この古墳の運命が動きます。
高校の考古学クラブが測った
売りに出された古墳を前に、動いたのは高校生たちでした。
太子町は次のように記しています。北野耕平ら河南高校考古学クラブが、せめて古墳の記録保存をと、昭和31年4月29日から5月6日まで二子塚古墳の測量調査を行い、その成果を雑誌で発表した、と。
その測量図から、この古墳が2基の方墳が連なる全国的にも珍しい双方墳であり、小型化した横穴式石室、退化した蒲鉾形の石棺など、古墳時代終末期の姿を示す貴重な古墳であることが明らかにされました。
発表の年、昭和31年11月28日に国の史跡に指定され、昭和32年3月には公有地化されました。
8日間の測量が、古墳を残したということになります。同じころ、いたすけ古墳は市民運動によって破壊をまぬがれています。
漆喰を塗った石室が二つ
この古墳の石室には、はっきりした特徴があります。壁面に漆喰が塗られていることです。
太子町は、東西どちらの石室にも壁面に塗布された漆喰が残る、としています。文化庁の解説文も、壁面に漆喰の痕跡をとどめている、と記しています。
下調べによれば、側石には切石に近い加工を施した石が用いられ、それを2、3段に積んで隙間に礫石を充填したうえで、漆喰が塗られているといいます。羨道は極めて短く、人頭大の礫石を積んで閉塞されているとされます。
石室の内面に漆喰を塗ることは、古墳時代終末期の様相とされます。白く塗られた小さな部屋に、二上山の凝灰岩を刳り抜いた石棺が一基ずつ据えられていました。
二子塚古墳から出土したもの
遺物のほとんどは失われています。下調べによれば、知られているのは羽釜形土器、小皿形土器、鉄釘の出土だけです。棺の身にはいずれも小口側に盗掘孔があり、棺の内部で遺物は検出されていないといいます。
平成28年度からの発掘調査では、東墳丘石室の内部が床面まで良好な状態で保存されていることと、墳丘の北側・東側の裾部に区画溝があることが確認されたと太子町は記しています。
刳抜式家形石棺
東西の石室に各1基。二上山の凝灰岩製で、蓋は縄掛突起が退化した蒲鉾形。
漆喰
石室の壁面に塗られていた。太子町も文化庁も、痕跡が残ると記している。
羽釜形土器
数少ない出土品のひとつ。一説に後世の骨壷とされる。
鉄釘
小皿形土器とともに出土が知られる数少ない遺物。
二子塚古墳と関連する古墳
二子塚古墳についてよくある質問
二子塚古墳は誰の墓ですか。
わかっていません。推古天皇と竹田皇子の真の合葬陵墓とする伝承がありますが、宮内庁は西方の山田高塚古墳を推古天皇陵として治定しています。
二子塚古墳はどこにありますか。
太子町は所在地を大阪府南河内郡太子町大字山田3385番地としています。推古天皇陵の東方約200メートルの段丘上にあたります。
二子塚古墳の大きさはどれくらいですか。
太子町は主軸の長さ約60メートル以上の双方墳としています。指定面積は4,833平方メートル(公簿)です。
二子塚古墳はいつ作られましたか。
太子町は古墳時代終末期に属する古墳としています。下調べでは7世紀後半頃、あるいは7世紀中頃から前半頃と推定されています。
二子塚古墳を見学できますか。
できません。令和4年度より史跡の保存整備工事のため立ち入り禁止です。工事は令和11年度まで延期されたと太子町が知らせています。
二子塚古墳と併せて覚えたい言葉・用語
双方墳(そうほうふん)
方墳が二基連なる形の古墳。全国的にも珍しく、長方墳と呼ばれることもある。
家形石棺(いえがたせっかん)
蓋が屋根の形をした石棺。終末期には蓋が退化して蒲鉾形になる。
羨道(せんどう)
横穴式石室の入口から玄室へ通じる通路。終末期には短くなる。
漆喰(しっくい)
石灰を主とする塗り壁の材。二子塚古墳では石室の壁を白く仕上げるために用いられた。
二子塚古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。