推古天皇の磯長山田陵として治定されている、東西に長い方墳。
山田高塚古墳とはどんな古墳か
山田高塚古墳の読み方と別名
読みは「やまだたかつかこふん」です。所在地の大字山田から来ています。
「高松古墳」という別の呼び名もありますが、明日香村の高松塚古墳とはまったく別のものです。壁画で知られる高松塚古墳と取り違えないよう、注意が要ります。
宮内庁の陵名は磯長山田陵。磯長は、この谷一帯の古い地名です。同じ谷にある聖徳太子の墓の陵名も「磯長墓」で、地名が共通しています。太子町のページの見出しは「推古天皇陵」で、治定にもとづく呼び方が使われています。
山田高塚古墳(やまだたかつかこふん)
考古学の側からの呼び方。所在地の大字山田と、高い塚という見立てを合わせた名。
高松古墳(たかまつこふん)
古くからの別の呼び名。明日香村の高松塚古墳とは別のもので、混同しやすい。
磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)
宮内庁が定める陵名。推古天皇の陵として管理され、陵形は方丘と記される。
山田高塚古墳は誰の墓か
宮内庁は、この古墳を第33代推古天皇の磯長山田陵として管理しています。竹田皇子と合葬されていると伝えられます。
『日本書紀』は、推古天皇が推古天皇36年に亡くなり、遺言によって「竹田皇子之陵」に葬られたとしますが、場所や陵の名は書いていません。いっぽう『古事記』は「大野岡上」から「科長大陵」へ改葬されたとしますが、合葬のことは書いていません。二つの書物が、それぞれ別の一面しか伝えていないのです。
古い書物には、横穴式石室の中に石棺が二つあり、右が推古天皇、左が竹田皇子のものだと見えます。ただし、この古墳には石室が二つあると推定されるため、もう一方の石室の中身も考えに入れなければなりません。
真の合葬陵を東約200メートルの二子塚古墳とする説、改葬前の墓を橿原市の植山古墳とする説もあります。
宮内庁の治定:第33代推古天皇
陵名は磯長山田陵、陵形は方丘、所在地は大阪府南河内郡太子町大字山田と記されている。
断定できない:わかっていない
太子町の説明は墳形と石室にとどまり、被葬者を確かめた根拠にはふれていない。
山田高塚古墳の大きさと形
太子町は、この古墳を東西に長い三段築成の長方墳としています。宮内庁は陵形を「方丘」と記しています。
前方後円墳ではありません。7世紀に入ると、大王の墓は方形や八角形になります。同じころの野口王墓古墳や御廟野古墳は八角形とされ、この古墳は四角い形です。大きさで身分を示す時代が終わり、形が身分を示す時代になっていました。
墳丘の寸法を記した公式のページは確認できませんでした。江戸時代の修陵で大きく改変されており、いちばん下の段は、隣の春日向山古墳に合わせて造り直された可能性が指摘されています。
宮内庁が記す陵形:方丘
太子町が記す墳形:東西に長い三段築成の長方墳
石室の数:2つの横穴式石室があると考えられている
墳丘の寸法:公式には確認できませんでした
山田高塚古墳はいつ作られたか
山田高塚古墳の場所と行き方(観光情報)
磯長谷には、敏達・用明・推古・孝徳の各天皇の陵とされる古墳と、聖徳太子の墓とされる叡福寺北古墳が集まっています。
飛鳥から二上山を越えた先にあたり、都から山を一つ隔てた谷に、大王級の墓がまとめて営まれました。
山田高塚古墳(推古天皇 磯長山田陵)
山田高塚古墳(推古天皇 磯長山田陵)の住所:大阪府南河内郡太子町大字山田
交通:(バス停)推古天皇陵前から徒歩約6分(宮内庁)
駐車場:公式には確認できませんでした
料金:公式には確認できませんでした
内部見学:宮内庁が管理する陵墓で、墳丘に立ち入ることはできません。拝所までは参拝できます。宮内庁は参拝可能な曜日を「原則、年間をとおして参拝可能」、参拝時間を「原則、8時30分~17時」としています。
宮内庁が案内する行き方は、バス停「推古天皇陵前」から徒歩約6分です。バス停の名そのものが陵になっています。
太子町は、西約500メートルに葉室塚古墳、南東200メートルに二子塚古墳があると書いています。どちらも一つの墳丘に石室を二つもつ古墳で、この古墳と同じ造りです。近い範囲に同じ形の古墳が三つあることになります。谷全体を歩けば、7世紀の墓の形がよくわかります。
山田高塚古墳の発見と調査の歩み
一つの墳丘に、石室が二つ
太子町は、この古墳の内部に2つの横穴式石室があると考えられている、と書いています。
ふつう、古墳の埋葬施設は一つです。二つあるということは、初めから二人を葬るつもりで造られたことになります。東西に長い形をしているのも、そのためだとみられます。
太子町は、同じ造りの古墳として葉室塚古墳と二子塚古墳を挙げています。どちらもこの古墳の近くにあり、長方形墳または双方墳と呼ばれる形です。7世紀のこの谷で、二人を並べて葬るという形式が繰り返されました。古い書物には、石室の中に石棺が二つあり、右が推古天皇、左が竹田皇子のものだと記されています。
修陵が、形を変えた
最初の墓は、どこにあったのか
『古事記』は、推古天皇の陵について「大野岡上」から「科長大陵」へ移されたと書いています。つまり、改葬されたということです。
では、最初の墓はどこか。有力な候補として、奈良県橿原市の植山古墳が挙げられています。植山古墳は一つの墳丘に石室を二つもつ古墳で、この山田高塚古墳と同じ造りです。
同じ形の墓を、場所を変えてもう一度造った。そう考えると、二つの古墳がつながって見えてきます。移した理由は書かれていませんが、推古天皇が遺言で竹田皇子の陵に葬るよう命じたという『日本書紀』の記述と、あわせて読まれてきました。決め手はなく、説の域を出ません。
山田高塚古墳から出土したもの
この古墳には埴輪が無いとされています。7世紀の古墳では、埴輪を並べる習わしが既に終わっていました。
代わりに、墳丘の表面には貼石が用いられています。本格的な発掘調査は行われておらず、知られていることは宮内庁書陵部による墳丘の外側の調査と、古い書物の記述にかぎられます。副葬品は公式には確認できませんでした。
貼石
墳丘の表面に貼られた石。宮内庁書陵部の調査で認められている。
横穴式石室 2基
太子町は2つの石室があると考えられているとする。東西に並び、南に開くと推定される。
石棺 2基
古い書物に、右が推古天皇、左が竹田皇子のものと記されている。
山田高塚古墳と関連する古墳
山田高塚古墳についてよくある質問
山田高塚古墳は誰の墓ですか。
宮内庁は第33代推古天皇の磯長山田陵として管理し、竹田皇子と合葬されていると伝えられます。ただし治定は行政上の扱いで、太子町の説明も被葬者を確かめた根拠にはふれていません。
山田高塚古墳はどこにありますか。
宮内庁は所在地を大阪府南河内郡太子町大字山田としています。行き方はバス停「推古天皇陵前」から徒歩約6分と案内されています。
山田高塚古墳の大きさはどれくらいですか。
太子町は東西に長い三段築成の長方墳とし、宮内庁は陵形を方丘としています。墳丘の寸法を記した公式のページは確認できませんでした。
山田高塚古墳はいつ作られましたか。
推古天皇が亡くなったのは『日本書紀』によれば628年で、築造はその前後、7世紀の前半とみられます。前方後円墳が造られなくなったあとの時代です。
山田高塚古墳の中に入れますか。
宮内庁が管理する陵墓で、墳丘に立ち入ることはできません。拝所までは参拝でき、原則として年間をとおして参拝可能、時間は原則8時30分から17時とされています。
山田高塚古墳と併せて覚えたい言葉・用語
方墳(ほうふん)
平面が四角い古墳。7世紀に入ると、大王の墓もこの形や八角形になる。
方丘(ほうきゅう)
宮内庁が陵形を記すときに使う語のひとつ。四角い形の墳丘を指す。
貼石(はりいし)
墳丘の表面に貼りつけた石。葺石と同じように、斜面を覆って形を保つ。
改葬(かいそう)
一度葬った遺骸を、別の場所へ移して葬り直すこと。『古事記』が記す。
山田高塚古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。