天皇陵4基と聖徳太子墓が集まる、「王陵の谷」と呼ばれる谷。
磯長谷古墳群とはどんな古墳か
大阪府南河内郡太子町にある古墳群です。二上山の山麓が幅の広い谷をつくる一帯を磯長谷といい、そこに宮内庁が治定する天皇陵4基と聖徳太子墓を含む、およそ30基の古墳が集まっているとされます。
この古墳群については、公式ページを1本も確かめることができませんでした。以下は下調べにもとづく記述で、公式に裏づけられたものではありません。
下調べによれば、治定されている天皇陵は敏達・用明・推古・孝徳の4基です。皇族の陵墓が集中していることから、この谷は「王陵の谷」とも呼ばれます。天皇陵4基と聖徳太子廟の五つは、梅の花びらになぞらえて梅鉢御陵と総称されます。
前方後円墳の造営が終わったあとの、6世紀中頃から7世紀前半にかけての古墳が中心とされます。前方後円墳は敏達天皇陵とされるもの1基だけといいます。方形や双方形の墳丘が並ぶのが、この谷の姿です。
磯長谷古墳群の読み方と別名
読みは「しながだにこふんぐん」です。ただし、この読みを記した公式のページは確かめられませんでした。
磯長は、この一帯の古い地名です。日本書紀は孝徳天皇の陵を「大坂磯長陵」と記し、その名がいまも陵号に受け継がれています。谷の名が、そのまま陵の名になっているわけです。
もう一つ注意が要る名があります。奥城古墳です。下調べによれば、磯長谷にはこの名で呼ばれる古墳があるものの、太子西山古墳(敏達天皇陵)の別名とする資料と、聖徳太子廟の名称とする資料の両方があるといいます。同じ名が別の古墳を指している可能性がある、ということです。
磯長谷古墳群(しながだにこふんぐん)
古墳群としての呼び方。磯長谷という谷の名にもとづく。
王陵の谷(おうりょうのたに)
皇族の陵墓が集中していることによる呼び名。観光や案内でよく使われる。
梅鉢御陵(うめばちごりょう)
天皇陵4基と聖徳太子廟の五つの総称。梅の花びらの並びになぞらえた名。
磯長谷古墳群は誰の墓か
この谷の古墳に葬られた人が誰かは、宮内庁の治定を除けば、ほとんどわかっていません。
下調べによれば、宮内庁は敏達・用明・推古・孝徳の4基を天皇陵に治定し、あわせて聖徳太子墓も管理しているとされます。ただし治定は行政上の扱いであって、被葬者が学問的に確かめられたことを意味しません。
そのことがよくわかるのが、二子塚古墳の例です。太子町が所在地を大阪府南河内郡太子町大字山田3385番地とするこの古墳には、推古天皇と竹田皇子の真の合葬陵墓とする伝承があります。いっぽう宮内庁は、200メートル西の山田高塚古墳を推古天皇陵として治定しています。推古天皇の陵とされる古墳が、二つあることになります。
孝徳天皇陵とされる山田上ノ山古墳も、7世紀の王陵とすることに懐疑的な見解があるとされます。治定された4基のうち複数について、学術的な議論が続いている状態です。
磯長谷古墳群の大きさと形
この古墳群の規模を記した公式のページは、確かめられませんでした。以下は下調べにもとづく数字です。
群を構成する古墳のうち、規模が伝えられているものを挙げます。二子塚古墳は長辺約60メートル、短辺約25メートル、墳丘の高さ約6メートルから4.8メートルの双方墳とされます。この古墳については、太子町が主軸の長さ約60メートル以上の双方墳としており、公式に確かめられます。
越前塚古墳は東西約75メートル、南北約55メートル、墳丘の高さ約8メートルの長方墳とされ、西側は墳丘が大きく破壊されているといいます。その周囲には、モンド神塚古墳、かまど塚古墳、石塚古墳といった小さな古墳が寄り添っているとされます。
孝徳天皇陵とされる山田上ノ山古墳は、直径32メートルの円墳とされます。大きさの幅が広い群です。
古墳群の規模:公式には確認できませんでした
構成する古墳の基数:公式には確認できませんでした
所在地:公式には確認できませんでした
築造年代:公式には確認できませんでした
磯長谷古墳群はいつ作られたか
築造の時期を記した公式のページは、確かめられませんでした。
下調べによれば、これらの古墳は前方後円墳の造営が終了したあとの、6世紀中頃から7世紀前半にかけての古墳時代末期から飛鳥時代初期のものと見られるとされます。ただし敏達天皇陵は、磯長谷では唯一の前方後円墳といいます。
同じ時期、飛鳥では石舞台古墳が築かれ、やがて牽牛子塚古墳や中尾山古墳のような八角墳が現れます。磯長谷の古墳は方墳や円墳、双方墳が中心で、八角墳は含まれないとされます。
太子町は二子塚古墳を古墳時代終末期に属する古墳とし、下調べは7世紀後半頃と推定しています。谷全体としては、6世紀中頃から7世紀後半にかけての墓域だったとみられます。
磯長谷古墳群の場所と行き方(観光情報)
この谷で、公式の案内が得られる古墳は二子塚古墳です。太子町が所在地を大阪府南河内郡太子町大字山田3385番地とし、指定面積を4,833平方メートル(公簿)としています。ただし立ち入りはできません。
孝徳天皇陵とされる山田上ノ山古墳も、同じ太子町山田にあります。この一帯は竹内街道が通る道筋にあたるとされ、歩いて巡ることを前提に考えられてきた土地です。
磯長谷古墳群
磯長谷古墳群の住所:公式には確認できませんでした
交通:公式には確認できませんでした
駐車場:公式には確認できませんでした
料金:公式には確認できませんでした
内部見学:宮内庁が治定する天皇陵4基と聖徳太子墓には、墳丘に立ち入ることはできないと考えられます。二子塚古墳は、太子町によれば保存整備工事のため立ち入り禁止です
この古墳群については、住所・行き方・料金のいずれも公式のページで確かめられませんでした。
下調べによれば、所在地は大阪府南河内郡太子町です。谷の中には性格の違う古墳が混じっており、立ち入りの可否も一様ではありません。宮内庁が治定する陵墓は墳丘に入れず、拝所までの参拝になります。国の史跡である二子塚古墳は、太子町によれば令和4年度より保存整備工事のため立ち入り禁止で、工事は令和11年度まで延期されました。訪ねる前に、それぞれの古墳について確かめる必要があります。
磯長谷古墳群の発見と調査の歩み
梅の花びらに見立てられた五つの陵
この谷の呼び名のうち、いちばん特徴的なのが梅鉢御陵です。
下調べによれば、天皇陵4基と聖徳太子廟の五つの古墳が、梅の花びらになぞらえてそう総称されるといいます。梅鉢は、五枚の花びらを丸く並べた文様の名です。
五つの陵が、梅の花のように配されているという見立てです。
この呼び名がいつからのものかは、確かめられませんでした。ただ、五つを一つのまとまりとして見る発想があったことは確かです。皇族の陵墓が集中していることから、谷そのものが「王陵の谷」とも呼ばれてきました。
奈良県明日香村の古墳群が飛鳥という土地の名で語られるのに対し、この谷は陵の集まりとして名づけられています。谷の性格を、そのまま名にした例です。
前方後円墳が1基だけの群
この古墳群には、はっきりした特徴があります。前方後円墳がほとんど無いことです。
下調べによれば、群を構成する古墳は6世紀中頃から7世紀前半のものが中心で、前方後円墳は敏達天皇陵とされるもの1基だけといいます。
代わりに並ぶのは、方形や長方形、双方形の墳丘です。二子塚古墳は一辺約25メートルの方墳が二基連なる双方墳、越前塚古墳は東西約75メートル・南北約55メートルの長方墳、孝徳天皇陵とされる山田上ノ山古墳は直径32メートルの円墳とされます。
前方後円墳が造られなくなったあとに、この谷の墓域が本格的に使われはじめたということです。同じころ岐阜県の洞ひさご塚古墳では、逆に7世紀後半になってから前方後円墳が築かれています。時代の流れは、場所によって速さが違います。
名が重なる古墳がある
この谷には、名前の扱いに注意が要る古墳があります。奥城古墳です。
下調べによれば、磯長谷には奥城古墳と呼ばれる名称の古墳があるものの、太子西山古墳(敏達天皇陵)の別名とする資料と、聖徳太子廟の名称としている文献の両方があるといいます。
同じ名が、別の古墳を指している可能性があるということです。
古墳の名は、後の人が付けたものがほとんどです。土地の呼び名、墳丘の形、そこに建てられた祠。由来はさまざまで、記録に残らないまま伝わることも多くあります。鳥屋ミサンザイ古墳のミサンザイが陵の音のなまりであるように、名は変わりながら残ります。
磯長谷を歩くときは、案内板の名と資料の名が一致しているかを確かめたほうが確実です。
磯長谷古墳群から出土したもの
この谷の古墳の多くは宮内庁が治定する陵墓であり、掘って確かめることができません。そのため、出土品はほとんど知られていません。
わずかに、国の史跡である二子塚古墳で調査が行われています。太子町によれば、東西の石室に石棺が納められ、壁面に塗布された漆喰が残ります。出土品は羽釜形土器、小皿形土器、鉄釘にとどまるとされます。
出土品
宮内庁が治定する陵墓が大半を占めるため、副葬品はほとんど知られていない。
刳抜式家形石棺
二子塚古墳の東西の石室に各1基。二上山の凝灰岩製で、蓋は蒲鉾形をなす。
漆喰
二子塚古墳の石室の壁面に塗られていた。終末期の様相を示す。
海獣葡萄鏡
孝徳天皇陵とされる山田上ノ山古墳の陪塚から出たと伝えられる。出土地の詳細は不明。
磯長谷古墳群と関連する古墳
磯長谷古墳群についてよくある質問
磯長谷古墳群は誰の墓ですか。
宮内庁は敏達・用明・推古・孝徳の4基を天皇陵に治定し、聖徳太子墓も管理しているとされます。ただし治定は行政上の扱いで、実際の被葬者は確かめられていません。
磯長谷古墳群はどこにありますか。
公式のページでは確かめられませんでした。下調べでは大阪府南河内郡太子町にあり、二上山の山麓が幅の広い谷をつくる一帯とされます。
磯長谷古墳群は何基ありますか。
公式の数字は確かめられませんでした。下調べでは、天皇陵4基と聖徳太子墓など、およそ30基からなるとされます。
磯長谷古墳群はいつ作られましたか。
公式のページでは確かめられませんでした。下調べでは6世紀中頃から7世紀前半にかけての、古墳時代末期から飛鳥時代初期のものとされます。
磯長谷古墳群の墳丘に入れますか。
宮内庁が治定する陵墓には立ち入れません。国の史跡である二子塚古墳も、太子町によれば保存整備工事のため立ち入り禁止です。
磯長谷古墳群と併せて覚えたい言葉・用語
王陵の谷(おうりょうのたに)
皇族の陵墓が集中する磯長谷の呼び名。天皇陵4基と聖徳太子墓が集まる。
梅鉢御陵(うめばちごりょう)
天皇陵4基と聖徳太子廟の総称。梅の花びらの並びになぞらえた呼び名。
長方墳(ちょうほうふん)
平面が長方形の古墳。磯長谷では越前塚古墳がこの形とされる。
飛鳥時代(あすかじだい)
6世紀末から8世紀初めにかけての時代。古墳時代の終末期と重なる。