36基あったうち5基だけが残った、北摂を代表する古墳群。
桜塚古墳群とはどんな古墳か
大阪府豊中市の岡町から桜塚一帯に広がる古墳群です。豊中市は、4世紀中頃から5世紀末にかけてつくられた、北摂でも有数の古墳群としています。
明治時代の絵図によると、かつて36基の古墳があったようです。いま残るのは、阪急宝塚線の西側に大石塚古墳・小石塚古墳、東側に大塚古墳・御獅子塚古墳・南天平塚古墳の計5基だけです。残りは区画整理事業と宅地開発で消えました。
この古墳群を特徴づけるのは鉄です。豊中市は、群中の各古墳から鉄製品が多量に出土し、特に甲冑などの武器・武具類の保有量やその内容が注目される、としています。大塚古墳から出た副葬品は、一括して国の重要文化財に指定されています。
大石塚古墳と小石塚古墳が国の史跡となったのは1956年(昭和31年)です。
桜塚古墳群の読み方と別名
読みは「さくらづかこふんぐん」です。豊中市も文化庁も、この読みで統一しています。
桜塚という地名の由来は、はっきりしていません。原田神社沿いに立つ桜塚碑には、桜塚古墳がこの場所にあったと書かれていますが、その桜塚古墳が地名の由来だという見方と、隣の荒神塚古墳こそが本来の桜塚だという見方の両方が伝えられています。荒神塚古墳は大正11年(1922年)ごろに崩され、そのとき頂上から大きな桜の根が出たという話も残ります。いずれも公式の資料では確かめられませんでした。
桜塚古墳群(さくらづかこふんぐん)
豊中市と文化庁が用いる正式な名。文化庁のふりがなも同じ読みで一致する。
大石塚古墳(おおいしづかこふん)
群でいちばん大きい前方後円墳。墳丘に河原石が葺かれていたことが名の由来ともいわれる。
摂津豊中大塚古墳出土品(せっつとよなかおおつかこふんしゅつどひん)
大塚古墳から出た副葬品の、重要文化財としての指定名称。
桜塚古墳群は誰の墓か
この古墳群に葬られた人が誰かは、わかっていません。
豊中市の案内は、5基それぞれについて規模・築成・出土品を細かく記していますが、葬られた人については何も書いていません。文化庁の解説文も、近畿地方を代表する古墳群の一つであることから5基が史跡に指定されている、と述べるにとどまります。
この古墳群は、宮内庁が管理する陵墓にも陵墓参考地にも入っていません。そのぶん掘ることができ、大塚古墳では総計500点近い副葬品が確かめられました。大仙陵古墳のように墳丘に入れない古墳とは、わかっていることの量が違います。
わかるのは立場です。5世紀のはじめに、これだけの鉄をまとめて持てた人がここにいた、というところまでは言えます。
断定できない:わかっていない
5基それぞれの規模と出土品は詳しく記されるが、葬られた人についての記述はない。
宮内庁の治定は無い:治定はされていない
陵墓ではなく、国の史跡として指定されている。1956年指定、1998年に追加指定。
桜塚古墳群の大きさと形
5基それぞれで大きさが違います。豊中市はいちばん大きい大石塚古墳を、3段に築かれた全長80メートル以上、後円部径48メートルの前方後円墳としています。小石塚古墳は2段築成で全長49メートル、前方部幅21メートルです。
東側の大塚古墳は3段築成の円墳で、直径56メートル、その周囲に幅12メートルの濠がめぐります。文化庁は同じ古墳を、径56メートル・高さ8メートルの3段築成の円墳としています。御獅子塚古墳は全長55メートルの前方後円墳で、周濠を含めると70メートルです。南天平塚古墳は全長28メートルとされますが、豊中市は、近年の調査でも墳丘の形を明確にすることはできませんでした、と書いています。
大石塚古墳の全長:80メートル以上
大塚古墳の直径と高さ:径56メートル・高さ8メートル
御獅子塚古墳の全長:55メートル(周濠を含めると70メートル)
南天平塚古墳の全長:28メートル
桜塚古墳群はいつ作られたか
豊中市は、桜塚古墳群を4世紀中頃から5世紀末にかけてつくられた古墳群としています。5基それぞれの年代も示されています。
西側の大石塚古墳と小石塚古墳が4世紀中頃。東側の大塚古墳が4世紀末から5世紀初め、御獅子塚古墳が5世紀前半、南天平塚古墳が5世紀後半です。つまり西から東へ、およそ150年をかけて造る場所が移っていったことになります。
古い西の2基は前方後円墳で、新しい東の3基には円墳や帆立貝式が混じります。形と場所は、時代とともに変わりました。
桜塚古墳群の場所と行き方(観光情報)
阪急宝塚線をはさんで、西に大石塚・小石塚古墳、東に大塚・御獅子塚・南天平塚古墳が分かれています。大塚古墳の副葬品は、国の重要文化財として豊中市立文化芸術センター収蔵庫に納められています。
桜塚古墳群
桜塚古墳群の住所:豊中市岡町北・中桜塚・南桜塚
交通:豊中市は、大石塚古墳と小石塚古墳が阪急岡町駅の西側、岡町北1丁目に南北に並んで立地すると書いています
駐車場:公式に確認できませんでした
料金:公式に確認できませんでした
内部見学:墳丘への立ち入りについて、公式の記載は確認できませんでした。5基はいずれも市街地の中に残り、御獅子塚古墳は市立南桜塚小学校の東に隣接します
所在地の書き方が、豊中市と文化庁で少し違います。豊中市は豊中市岡町北・中桜塚・南桜塚、文化庁は豊中市岡町・中桜塚・南桜塚としています。「北」が付くかどうかの差です。
5基は歩いてまわれる範囲に散らばります。豊中市によれば大塚古墳は中桜塚4丁目です。駐車場と料金は、公式の記載を確かめられませんでした。
桜塚古墳群の発見と調査の歩み
36基が5基になるまで
豊中市は、明治時代の絵図によるとかつて36基の古墳があったようだ、と書いています。明治7年から明治14年にかけて大きな調査があり、そのときの絵図が残されています。
減りはじめたのは昭和10年代です。土地区画整理事業で道路が引かれ、南天平塚古墳はその4分の3が壊されることになりました。1937年(昭和12年)に発掘調査が行われたのは、壊す前に記録を取るためです。
戦後は宅地開発が進み、44基のうち39基が失われたとされます。荒神塚古墳の跡はスーパーの屋内駐輪場になったといいます。
鉄が集まっていた古墳群
豊中市はこの古墳群について、群中の各古墳からは鉄製品が多量に出土し、特に甲冑などの武器・武具類の保有量やその内容は注目されます、と書いています。
大塚古墳の3つの埋葬施設からは、総計500点近い副葬品が出ました。中でも三角板革綴襟付短甲は、胴の後ろに襟を付けた全国的にも珍しい形式のもので、衝角付冑とともに2領出土しています。三角形や長方形の鉄板を革ひもで綴じ合わせる、革綴じという技法によるものです。
石製把付短剣も出ています。鉄の刀身を緑色凝灰岩の把にはめ込んだ短剣で、豊中市は、実用のものとしては全国で唯一の出土例になる、としています。
木の棺の形が、ここでわかった
南天平塚古墳は、4分の3を道路に取られた古墳です。しかしそこで、古墳の研究にとって大きなことが起きました。
戦前の発掘調査では、2つの木棺から鏡、刀剣、短甲、馬具、楯などが出土しました。豊中市は、一方の木棺はほとんど腐らずに残っており、これによって割竹形木棺の構造がはじめてわかりました、と書いています。
割竹形木棺とは、大きな丸太を縦に二つ割りにして中をくり抜き、身と蓋にした棺のことです。木は土の中でふつう残らず、形がわかるのはまわりを包んだ粘土に痕が写るからです。ここでは木そのものが残りました。壊されかけた古墳が、棺の作り方を教えたことになります。
桜塚古墳群から出土したもの
大塚古墳では、1983年(昭和58年)の発掘調査で3つの埋葬施設から総計500点近い副葬品が出土しました。豊中市は、これらが一括して国指定重要文化財になっていると記しています。
豊中市は、鉄製品の傷みが激しかったため、平成27年から4か年かけて全出土品を保存修理したと書いています。
三角板革綴襟付短甲
胴の後ろに襟部をつけた、全国的にも珍しい形式の鉄の鎧。衝角付冑とともに2領出土した。
石製把付短剣
鉄の刀身を緑色凝灰岩の把にはめ込んだ短剣。実用のものとしては全国唯一の出土例とされる。
方格規矩獣文鏡
大塚古墳から出た銅の鏡。玉類や鉄製農工具とともに重要文化財に含まれる。
円筒埴輪・朝顔形埴輪
大石塚古墳では墳丘の平坦面に3本一組で配されていた。
桜塚古墳群と関連する古墳
桜塚古墳群についてよくある質問
桜塚古墳群は誰の墓ですか。
わかっていません。豊中市の案内は5基の規模と出土品を詳しく記していますが、葬られた人にはふれていません。宮内庁の陵墓ではなく、国の史跡として扱われています。
桜塚古墳群はどこにありますか。
豊中市は所在地を豊中市岡町北・中桜塚・南桜塚としています。大石塚古墳と小石塚古墳は、阪急岡町駅の西側の岡町北1丁目に南北に並んでいます。
桜塚古墳群でいちばん大きい古墳はどれですか。
大石塚古墳です。豊中市は3段築成で全長80メートル以上、後円部径48メートルとしています。次いで御獅子塚古墳が全長55メートル、大塚古墳が直径56メートルです。
桜塚古墳群はいつ作られましたか。
豊中市は4世紀中頃から5世紀末としています。西の大石塚・小石塚古墳が4世紀中頃、東の3基が4世紀末から5世紀後半にかけての築造とされます。
桜塚古墳群の墳丘に登れますか。
立ち入りについて公式の記載は確認できませんでした。5基は市街地の中に分かれて残ります。訪ねる際は現地の表示に従ってください。
桜塚古墳群と併せて覚えたい言葉・用語
葺石(ふきいし)
墳丘の斜面を覆う石。大石塚古墳では河原石が使われていたという。
割竹形木棺(わりたけがたもっかん)
丸太を縦に二つ割りにして中をくり抜いた棺。南天平塚古墳の例でその構造がはじめてわかった。
短甲(たんこう)
胴を覆う鉄の鎧。革ひもで綴じる革綴じと、鋲で留める鋲留めがある。
帆立貝式前方後円墳(ほたてがいしきぜんぽうこうえんふん)
前方部が低く短い前方後円墳。帆立貝を伏せた形に見えることによる名。
桜塚古墳群の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。