聖徳太子の墓として伝えられてきた、大阪府太子町の円墳。
叡福寺北古墳とはどんな古墳か
大阪府南河内郡太子町、叡福寺の境内の北側にある古墳です。二上山のふもとに広がる磯長谷という谷の、丘の先端に南を向いて築かれています。
太子町は「太子墓は径50メートル、高さ10メートルほどの円墳で、内部は精巧な切石を用いた横穴式石室です」と書いています。そして、太子と母君の穴穂部間人皇后、妃の膳郎女の3人の棺が納められていると伝えられることから、三骨一廟と呼ばれる、と説明しています。
石室の中には棺を載せる台が三つ「品」の字の形に並び、そのまわりには夾紵棺の破片が散らばっています。墳丘のふもとには、後世に立てられた「結界石」という石の列が二重にめぐります。
叡福寺北古墳の読み方と別名
読みは「えいふくじきたこふん」です。叡福寺というお寺の北にあるから、というだけの名です。
隣の寺を基準にした名がついているのは、この古墳が長く寺の一部として守られてきたからです。太子町のページの見出しは今も「聖徳太子墓」です。
『日本書紀』は「磯長陵」に葬ったと記し、『延喜式』は「磯長墓」として載せます。磯長は、この谷一帯の古い地名です。同じ谷にある山田高塚古墳の陵名も「磯長山田陵」で、地名が共通しています。
叡福寺北古墳(えいふくじきたこふん)
考古学の側からの呼び方。叡福寺の境内の北側にあることから付けられた、場所による名。
聖徳太子墓(しょうとくたいしのはか)
太子町が用いる呼び方。町のページの見出しも「聖徳太子墓」で、太子墓とも略される。
三骨一廟(さんこついちびょう)
三人が一つの廟に葬られているという意味の呼び名。太子町が伝えられていると書いている。
叡福寺北古墳は誰の墓か
太子町は、聖徳太子が『日本書紀』によると推古29年に亡くなり、磯長の地に葬られたと書いています。そして棺が三つ納められていると伝えられることから、三骨一廟と呼ばれるとしています。
この伝えは古く、途切れずに続いてきました。多くの古墳が誰の墓かわからなくなったのに対し、この古墳は早くから神聖なものとして守られたため、伝承が残りました。
ただし、考古学からは疑問も出ています。石室の造りは明日香村の岩屋山古墳とよく似ており、その形は7世紀後半のものとされるのに、聖徳太子が亡くなったのは7世紀の前半だからです。
棺台が三つあることから、太子と母、妃の合葬とみる説は有力です。柏原市の安福寺に伝わる夾紵棺の破片が、この古墳の棺ではないかとも言われています。
古くからの言い伝え:聖徳太子と母・妃の三人
太子町は「3人の棺が納められていると伝えられる」と、伝承であることをはっきり書いている。
学術的な見方のひとつ:聖徳太子
柏原市は安福寺の夾紵棺について、一説として叡福寺北古墳のものが浮上していると書く。
断定できない:わかっていない
太子町の説明は墳形と石室、伝承にとどまり、被葬者を確かめた根拠にはふれていない。
叡福寺北古墳の大きさと形
太子町は、この古墳を径50メートル、高さ10メートルほどの円墳とし、内部は精巧な切石を用いた横穴式石室だとしています。
墳丘は山にもたれるように造られているため、北と南で形が違います。南から見たときにきれいな円に見えるよう整えられており、正面から見る姿を意識した造りだと考えられています。
柏原市は、この古墳の棺台を長さ242センチメートル、幅109.5センチメートルとし、安福寺に伝わる夾紵棺の破片の大きさとも合うと書いています。
墳丘の径:径50メートルほど
墳丘の高さ:高さ10メートルほど
棺台の大きさ:長さ242センチメートル、幅109.5センチメートル
安福寺夾紵棺の残存部:長さ94センチメートル、幅47.5センチメートル、厚さ3センチメートル
叡福寺北古墳はいつ作られたか
叡福寺北古墳の場所と行き方(観光情報)
この谷には、天皇の陵とされる古墳が四つと聖徳太子の墓が集まっており、あわせて「梅鉢御陵」と呼ばれます。山田高塚古墳(推古天皇陵)もその一つです。磯長谷は、飛鳥から二上山を越えた先にあたります。
叡福寺北古墳(聖徳太子墓)
叡福寺北古墳(聖徳太子墓)の住所:大阪府南河内郡太子町太子(叡福寺境内北側)
交通:公式には確認できませんでした
駐車場:公式には確認できませんでした
料金:公式には確認できませんでした
内部見学:宮内庁が管理する皇族の墓として扱われており、墳丘や石室に立ち入ることはできません。石室は閉じられています。墳丘の手前までは叡福寺の境内から見られます。参拝できる曜日や時間は公式には確認できませんでした。
太子町の公式ページは、聖徳太子墓が叡福寺境内の北側にあることを地図とともに示しています。地番は掲載されていないため、所在地は町名と境内での位置までを記載しています。
古墳は叡福寺の境内北側にあり、寺に参るとそのまま墳丘の正面に出ます。石室の中の様子は、大阪府立近つ飛鳥博物館で実物大の復元模型として見られます。
叡福寺北古墳の発見と調査の歩み
結界石という、後から足された石の列
この古墳を見て、まず目に入るのは墳丘ではなく石の列です。ふもとに二重にめぐる結界石と呼ばれる石柱で、内側を中段結界石、外側を下段結界石といいます。
中段結界石は方柱の形をした石で、頭に梵字が刻まれています。太子自身が運んだ、空海が寄進したという言い伝えがありますが、宮内庁書陵部の調査では鎌倉時代の嘉禄元年以降に立てられた可能性が高いとされています。下段結界石は頭が山形の石で、浄土三部経と施主の名が刻まれています。
つまり、この古墳の外観の大半は、造られてから六百年以上あとに足されたものです。古墳としての姿と、信仰の場としての姿が重なっています。
安福寺の床の間にあった棺の破片
柏原市の安福寺に、板状の漆の破片が伝わっています。長さ94センチメートル、幅47.5センチメートル、厚さ3センチメートル。寺の床の間に飾られていたものです。
柏原市は、これを夾紵棺の一部と説明しています。夾紵棺は全国で7基の古墳から出土が報告され、確実なのは牽牛子塚古墳と阿武山古墳だけだといいます。
その二例が麻布であるのに対し、安福寺の破片は麻よりも高級な絹を使っています。柏原市は「夾紵棺を使用できる人物は天皇クラスに限られていた」とし、一説として叡福寺北古墳のものが浮上していると書いています。棺台の大きさとも合うといいます。
棺台が三つあることの意味
石室の中には、棺を載せる台が三つ、「品」の字の形に並んでいます。奥に一つ、手前の右と左に一つずつです。右手前の台がいちばん大きく、左手前の台がそれに次ぎます。
この並び方から、奥が母、右が太子、左が妃だろうと推し量られてきました。太子町が伝える三骨一廟という呼び名と、石室の中の配置が符合します。
三つの台のまわりには、夾紵棺の破片が散らばっています。江戸時代に石室に入った僧の描いた絵図には、奥の棺に金の獅子が一対、部屋の北西に井戸や鏡台があったと記されています。中を見た人の記録が残っているという点で、めずらしい古墳です。
叡福寺北古墳から出土したもの
石室は閉じられており、正式な発掘は行われていません。知られていることの多くは、明治より前に中へ入った人の記録によります。
江戸時代の僧が描いた絵図や、明治12年の宮内省の立入記録が、内部を知る手がかりです。墳丘の上は鎌倉時代以降に民間の墓としても使われたとみられ、五輪塔や骨片が見つかっています。
棺台
石室の中に三つ並ぶ、棺を載せる台。柏原市は大きさを長さ242センチメートル、幅109.5センチメートルとする。
夾紵棺の破片
棺台のまわりに散らばる、漆で布を貼り固めた棺のかけら。
結界石
墳丘のふもとに二重にめぐる石柱の列。鎌倉時代以降に立てられたとされる。
土師器の皿
墳丘のまわりから大量に出土。灯明をともす行事が行われていた様子を示す。
叡福寺北古墳と関連する古墳
叡福寺北古墳についてよくある質問
叡福寺北古墳は誰の墓ですか。
太子町は、太子と母君の穴穂部間人皇后、妃の膳郎女の3人の棺が納められていると伝えられる、と書いています。伝承であり、石室の年代は太子の没年より半世紀ほど下るとされ、確定していません。
叡福寺北古墳はどこにありますか。
大阪府南河内郡太子町の叡福寺の境内北側にあります。太子町のページに住所の文字列は載っておらず、正確な番地は公式には確認できませんでした。
叡福寺北古墳の大きさはどれくらいですか。
太子町は径50メートル、高さ10メートルほどの円墳としています。内部は精巧な切石を用いた横穴式石室で、中には棺台が三つ並んでいます。
叡福寺北古墳はいつ作られましたか。
石室の造りから7世紀後半ごろと推し量られています。明日香村の岩屋山古墳とよく似た切石積みで、その形の石室は聖徳太子の没年より半世紀ほど下る時期のものとされます。
叡福寺北古墳の中に入れますか。
石室は閉じられており、立ち入ることはできません。叡福寺の境内から墳丘の正面までは行けます。石室の中の様子は、大阪府立近つ飛鳥博物館の実物大の復元模型で見られます。
叡福寺北古墳と併せて覚えたい言葉・用語
三骨一廟(さんこついちびょう)
三人が一つの廟に葬られているという意味の呼び名。太子と母、妃の合葬を指して使われる。
横穴式石室(よこあなしきせきしつ)
横から入る通路のついた石の部屋。あとから棺を足せるため、合葬に向く。
結界石(けっかいせき)
聖なる場所の境を示すために立てられた石柱。この古墳では墳丘のふもとに二重にめぐる。
磯長谷(しながだに)
二上山のふもとの谷。天皇陵とされる古墳と太子の墓が集まり、梅鉢御陵と呼ばれる。
叡福寺北古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。