雄略天皇陵として治定された、古市古墳群でただ一つの大型円墳。
島泉丸山古墳とはどんな古墳か
島泉丸山古墳の読み方と別名
読みは「しまいずみまるやまこふん」です。「高鷲丸山古墳」とも呼ばれます。どちらも地名から来ています。島泉は宮内庁が記す所在地の町名、高鷲は陵名にも最寄り駅の名にも使われている広い地名です。
宮内庁の陵名は丹比高鷲原陵。丹比は河内の古い郡の名で、高鷲原はその中の地名です。この地名が丹比郡高鷲原であることが、ここを雄略天皇の陵とする説の有力な根拠になってきました。『日本書紀』が雄略天皇の陵を「丹比高鷲原陵」と記しているためです。名前の一致が、治定を支えています。
島泉丸山古墳(しまいずみまるやまこふん)
考古学の側からの呼び方。所在地の島泉と、丸い山という形の見立てを合わせた名。
高鷲丸山古墳(たかわしまるやまこふん)
別の呼び方。高鷲は宮内庁の陵名にも含まれる地名で、最寄り駅の名でもある。
丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)
宮内庁が定める陵名。『延喜式』にも遠陵の「丹比高鷲原陵」として載る。
島泉丸山古墳は誰の墓か
この古墳に葬られた人が誰かは、わかっていません。
宮内庁は第21代雄略天皇の陵として管理しています。根拠のひとつは地名です。『日本書紀』は雄略天皇の陵を「丹比高鷲原陵」とし、ここの地名が丹比郡高鷲原にあたります。江戸時代の『河内鑑名所記』にも、この古墳を雄略天皇陵とする記述が見えます。
しかし、立地も墳形も規模も、古市古墳群の大王墓とは性格が違います。古市古墳群の大王級の古墳は、いずれも巨大な前方後円墳です。この古墳は円墳で、規模も見合いません。
そこで近年は、真の雄略天皇陵を藤井寺市の岡ミサンザイ古墳に求める説などが挙げられています。あちらは宮内庁が仲哀天皇の陵として治定していますが、築造は5世紀の後葉から末頃とされ、雄略天皇の時期とよく合います。名前が、二つの古墳のあいだで宙に浮いています。
宮内庁の治定:第21代雄略天皇
陵名は丹比高鷲原陵、陵形は円丘、所在地は大阪府羽曳野市島泉8丁目と記されている。
断定できない:わかっていない
宮内庁のページは陵名・陵形・所在地を記すのみで、被葬者を確かめた根拠にはふれていない。
学術的な見方のひとつ:真の雄略天皇陵は岡ミサンザイ古墳とする説
宮内庁は岡ミサンザイ古墳を仲哀天皇の惠我長野西陵として管理している。治定は別人である。
島泉丸山古墳の大きさと形
宮内庁が記す陵形は「円丘」です。円い墳丘という意味で、前方後円墳ではありません。
ところが、実際に現地で見える形は前方後円形です。元治元年に、東南東にある島泉平塚古墳が「雄略天皇前陵」として陵域に取り込まれ、明治18年に二つの古墳のあいだに土が盛られて、全体が前方後円形に整えられたためです。
つまり、いま見えている「前方部」は古墳ではありません。明治に盛られた土です。宮内庁の欄が「円丘」であるのは、本来の姿が円墳だからです。墳丘の直径や高さを記した公式のページは確認できませんでした。
宮内庁が記す陵形:円丘
宮内庁が記す陵名:丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)
所在地:大阪府羽曳野市島泉8丁目
墳丘の直径・高さ:宮内庁のページには記載がなく、公式には確認できませんでした
島泉丸山古墳はいつ作られたか
島泉丸山古墳の場所と行き方(観光情報)
北の方には、宮内庁が飛地の陪冢として管理する隼人塚古墳があります。『日本書紀』が伝える、雄略天皇に殉じた隼人の墓とされてきた古墳です。
かつては「ハイト塚」とも呼ばれ、いまも歯痛の神として信仰されているといいます。
島泉丸山古墳(雄略天皇 丹比高鷲原陵)
島泉丸山古墳(雄略天皇 丹比高鷲原陵)の住所:大阪府羽曳野市島泉8丁目
交通:近鉄 高鷲駅から徒歩約10分(宮内庁)
駐車場:公式には確認できませんでした
料金:公式には確認できませんでした
内部見学:宮内庁が管理する陵墓で、墳丘に立ち入ることはできません。拝所までは参拝できます。宮内庁は参拝可能な曜日を「原則、年間をとおして参拝可能」、参拝時間を「原則、8時30分~17時」としています。
宮内庁が記す所在地は大阪府羽曳野市島泉8丁目、行き方は近鉄高鷲駅から徒歩約10分です。駅名の「高鷲」は、陵名の丹比高鷲原陵と同じ地名です。
拝所は、もとは丸山古墳の近くにありましたが、明治23年に平塚古墳の側へ移されました。二つの古墳を一つの前方後円墳に見せる整形にあわせて、参る場所も動いたことになります。墳丘のまわりには丸山池と呼ばれる周濠がめぐります。
島泉丸山古墳の発見と調査の歩み
二つの古墳を、一つに見せる
この古墳のいちばん大きな見どころは、形そのものが作られたものだという点です。
元治元年、館林藩主の秋元氏による修陵が行われ、東南東にある島泉平塚古墳が「雄略天皇前陵」として陵域に取り込まれました。それまでは丸山古墳だけが雄略天皇陵とされ、平塚古墳のあたりは小高い田畑だったといいます。
そして明治18年、丸山古墳と平塚古墳のあいだに土が盛られ、全体が前方後円形に整形されました。円墳と方墳をつないで、前方後円墳に仕立てたのです。天皇の陵は前方後円墳であるべきだ、という当時の考えが、そのまま地面の上に形になりました。古墳の形は、後の世の考え方によって書き換えられることがあります。
平塚古墳は、そもそも古墳なのか
前方部にあたる島泉平塚古墳は、一辺約50メートル、高さ8メートルの方墳とされ、墳丘は2段または3段に築かれていると言われます。
ところが、古墳であることを示す遺構や出土品は、これまで確認されていません。2010年度のトレンチ調査でも、何も検出されませんでした。
そこから、平塚古墳を古墳とすること自体に疑いを差しはさむ説もあります。もし古墳でなければ、いま見えている前方後円墳は、円墳一基と、田畑と、盛り土でできていることになります。河内大塚山古墳のように何もわからない古墳もあれば、この古墳のように、目に見えているものの成り立ちが疑われる古墳もあります。
ワカタケル大王は、どこに眠るのか
雄略天皇は、実在が確かめられる数少ない大王です。埼玉県の稲荷山古墳から出た鉄剣に「獲加多支鹵大王」の名が刻まれ、熊本県の江田船山古墳の鉄刀にも同じ大王の名があるとされます。
中国の『宋書』が伝える「倭王武」も、同じ人物とみられています。関東から九州までを見わたす力を持った大王でした。
その大王の墓が、古市古墳群でただ一基の円墳だというのは、つり合いが取れないように見えます。そこで、藤井寺市の岡ミサンザイ古墳を真の陵とする説が有力になりました。あちらは全国第16位の巨大前方後円墳で、築造は5世紀後葉から末頃。ただし宮内庁は、そちらを仲哀天皇の陵として治定しています。名前と古墳が、うまくかみ合っていません。
島泉丸山古墳から出土したもの
埋葬施設と副葬品は、まったくわかっていません。宮内庁が管理する陵墓であり、本格的な調査が行われていないためです。
知られているのは、外構の柵の設置や見張所の改築といった工事にともなって行われた、限られた範囲の調査の成果だけです。それでも埴輪が出土したことで、5世紀後半頃という年代が推し量られています。
円筒埴輪
整備にともなう調査で検出されている。築造年代を考える手がかりになる。
須恵器
窯で焼いた硬い土器。同じく整備の調査で見つかっている。
土師器
野焼きで作られた土器。埴輪や須恵器とあわせて年代の判断に用いられる。
島泉丸山古墳と関連する古墳
島泉丸山古墳についてよくある質問
島泉丸山古墳は誰の墓ですか。
わかっていません。宮内庁は第21代雄略天皇の丹比高鷲原陵として管理していますが、立地も墳形も規模も大王墓に見合わないとされ、岡ミサンザイ古墳を真の陵とする説があります。
島泉丸山古墳はどこにありますか。
宮内庁は所在地を大阪府羽曳野市島泉8丁目としています。行き方は近鉄の高鷲駅から徒歩約10分と案内されています。
島泉丸山古墳の大きさはどれくらいですか。
宮内庁のページに墳丘の寸法の記載はなく、公式には確認できませんでした。記されているのは陵形が「円丘」であることまでです。古市古墳群では唯一の大型円墳です。
島泉丸山古墳はいつ作られましたか。
出土した埴輪から、古墳時代中期の5世紀後半頃と推定されています。誉田御廟山古墳より新しく、岡ミサンザイ古墳より古い時期にあたります。
島泉丸山古墳はなぜ前方後円墳に見えるのですか。
元治元年に東南東の島泉平塚古墳が陵域に取り込まれ、明治18年に二つの古墳のあいだに土が盛られて、全体が前方後円形に整形されたためです。本来は円墳です。
島泉丸山古墳と併せて覚えたい言葉・用語
円墳(えんぷん)
平面が円い古墳。数のうえではもっとも多いが、大型のものは限られる。
円丘(えんきゅう)
宮内庁が陵形を記すときに使う語のひとつ。円い形の墳丘を指す。
陪冢(ばいちょう)
大きな古墳に付き従うように築かれた小さな古墳。宮内庁は飛地の陪冢も管理する。
修陵(しゅうりょう)
陵墓を整え直す工事。この古墳では二つの古墳をつなぐ大きな改変が行われた。
島泉丸山古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。