宮内庁が敏達天皇と石姫皇女の合葬陵とする、磯長谷で唯一の前方後円墳。
太子西山古墳とはどんな古墳か
大阪府南河内郡太子町にある前方後円墳です。宮内庁はこの古墳を第30代敏達天皇の河内磯長中尾陵として管理し、陵形を「前方後円」、所在地を「大阪府南河内郡太子町大字太子」と公表しています。御父は欽明天皇、御母は皇后石姫皇女と記されています。
太子町の磯長谷には、用明・推古・孝徳の各天皇陵と聖徳太子墓が集まり、まとめて「梅鉢御陵」と呼ばれてきました。その中で、この古墳だけが前方後円墳です。
もし治定のとおりであれば、天皇陵としては最後の前方後円墳ということになります。ただし治定は行政上の扱いであって、学術的に確かめられたことを意味しません。円筒埴輪があることから年代が合わないとする見方もあります。
宮内庁の管理下にあるため本格的な調査は行われていません。参拝は原則として年間をとおして可能です。
太子西山古墳の読み方と別名
読みは「たいしにしやまこふん」です。太子町の西の山、という土地の名から付いています。
この古墳には、立場によって三つの名があります。考古学の側は太子西山古墳、あるいは奥城古墳と呼びます。宮内庁は河内磯長中尾陵と呼び、石姫皇女の墓としては磯長原陵という別の陵名も持ちます。
宮内庁の表記で目を引くのは、天皇の名の字です。公式ページには「敏逹天皇(びだつてんのう)」とあり、一般に使われる「達」ではなく「逹」の字が用いられています。読みは同じです。
太子西山古墳(たいしにしやまこふん)
考古学の側で用いられる名。太子町の西の山という土地の名から付いている。
奥城古墳(おくつきこふん)
別の呼び方。奥城は墓を意味する古い言葉で、そのまま古墳の名になっている。
河内磯長中尾陵(こうちのしながのなかのおのみささぎ)
宮内庁が定める陵名。敏達天皇の陵として管理されている。
磯長原陵(しながのはらのみささぎ)
母の石姫皇女の墓としての陵名。同じ古墳が二つの陵名を持つことになる。
太子西山古墳は誰の墓か
宮内庁は、この古墳を第30代敏達天皇の河内磯長中尾陵として管理しています。母の石姫皇女の磯長原陵でもあり、一つの古墳が二人の陵として治定されている合葬陵という扱いです。
ただし、治定は行政上の扱いであって、学術的に確かめられたことを意味しません。
下調べの範囲では、二つの問題が挙げられています。一つは年代です。この古墳では円筒埴輪が採集されており、その存在から本古墳を敏達天皇陵とすることに否定的な説があります。もう一つは、文献で敏達天皇陵と石姫皇女墓が別々に記載されていることです。そこから後円部と前方部で別の埋葬が行われたと推測する説もあります。
真陵を太子町葉室の葉室塚古墳に求める説も挙げられています。ただし、これらはいずれも公式ページでは確認できませんでした。宮内庁の管理下にあるため、本格的な調査は行われていません。
宮内庁の治定。学術的な確定ではない:第30代敏達天皇
宮内庁は陵名を河内磯長中尾陵、陵形を前方後円、所在地を大阪府南河内郡太子町大字太子とする。
学術的には未確定:断定できない
宮内庁が公表するのは陵名・陵形・所在地・参拝の案内であって、被葬者を裏づける根拠ではない。
太子西山古墳の大きさと形
宮内庁が公表しているのは陵形だけで、墳丘の数値はありません。公式ページの欄には「陵形 前方後円」とあります。
下調べでは、墳丘長113メートル(または93メートル)、後円部の直径58メートル、前方部の幅67メートルとされます。113メートルと93メートルという二つの数字が並んでいます。ただし、いずれも公式ページでは確かめられませんでした。
墳丘は2段に築かれ、周囲には水の無い空壕がめぐるとされます。埋葬施設は明らかでないものの、横穴式石室の使用が推測されています。磯長谷古墳群のうち、前方後円墳はこの古墳だけです。
陵形:前方後円
陵名:河内磯長中尾陵(こうちのしながのなかのおのみささぎ)
代数:第30代
墳丘の数値:公式には確認できませんでした
太子西山古墳はいつ作られたか
宮内庁の公式ページには、築造年代の欄がありません。載っているのは代数・諡号・御父・御母・陵名・陵形・所在地・交通アクセス・参拝の案内です。陵墓のページは、参拝のための案内であって、考古学の資料ではありません。
下調べでは、出土した埴輪などから古墳時代後期前半頃の築造と推定されています。『日本書紀』は敏達天皇が585年に亡くなり、その後の殯を経て591年に石姫皇女の墓へ追葬されたと伝えます。
この年代の食い違いが、真陵をめぐる議論の出発点になっています。円筒埴輪を伴う古墳が、6世紀末の天皇の陵でありうるか。そこが問われています。この年代を示す公式の記載は確認できませんでした。
太子西山古墳の場所と行き方(観光情報)
磯長谷には、この古墳のほかに用明天皇陵・推古天皇陵・孝徳天皇陵、そして聖徳太子墓があります。まとめて梅鉢御陵と呼ばれてきました。
梅の花びらのように陵が配されている、という見立てです。いずれも宮内庁の管理下にあり、墳丘に立ち入ることはできません。天皇陵がこれだけ密集する谷は、ほかにありません。
河内磯長中尾陵(太子西山古墳)
河内磯長中尾陵(太子西山古墳)の住所:大阪府南河内郡太子町大字太子
交通:宮内庁は「(バス停)敏逹天皇陵前から徒歩約9分」と案内しています
駐車場:公式には確認できませんでした
料金:公式には確認できませんでした
内部見学:宮内庁が管理する陵墓で、墳丘に立ち入ることはできません。拝所までは参拝でき、原則として年間をとおして参拝可能、時間は原則8時30分から17時までです
所在地は宮内庁が公表する大阪府南河内郡太子町大字太子です。行き方は「(バス停)敏逹天皇陵前から徒歩約9分」と案内されています。バス停の名がそのまま陵の名になっています。
参拝可能な曜日は「原則、年間をとおして参拝可能」、参拝時間は「原則、8時30分~17時」です。いずれも原則であって、事情によって変わることがあります。
太子西山古墳の発見と調査の歩み
最後の前方後円墳という位置
この古墳が注目されるのは、もし敏達天皇の陵であれば、天皇陵としては最後の前方後円墳になるからです。
前方後円墳は、6世紀の終わりごろに造られなくなります。以後の大王の墓は方墳になり、やがて八角墳になります。この図鑑で扱った石舞台古墳が方墳、中尾山古墳や牽牛子塚古墳が八角墳です。
敏達天皇が亡くなったのは585年とされます。その時期に前方後円墳が造られていたのか。ここが議論の分かれ目です。円筒埴輪の存在から年代が合わないとする説があり、真陵を葉室塚古墳に求める見方もあります。
同じことは太田茶臼山古墳でも起きています。宮内庁が継体天皇陵とするその古墳について、高槻市は今城塚古墳を真の陵墓と考えられると書いています。
一つの古墳に、二つの陵名
この古墳は、宮内庁によって二人の陵として治定されています。第30代敏達天皇の河内磯長中尾陵と、その母である石姫皇女の磯長原陵です。
『日本書紀』は、敏達天皇が585年に亡くなり、殯を経て591年に、先に亡くなっていた石姫皇女の墓へ追葬されたと伝えます。母の墓に、子があとから加えられたという筋書きです。
『延喜式』では、敏達天皇陵が遠陵の河内磯長中尾陵として、石姫皇女墓が遠墓の磯長原墓として、それぞれ別に記載されているといいます。文献が別々に書いているのに、治定は一つの古墳を指しています。そこから、後円部と前方部で別々に葬られたと推測する説も出ています。
治定は、いつ、どう決まったか
宮内庁の陵墓の治定は、多くが江戸時代から明治にかけて定められました。この古墳もその一つです。
下調べによれば、元禄の探陵の時点でこの地は叡福寺の寺領であり、元治元年(1864年)に拝所が設けられ、明治32年(1899年)に御在所の修補がなされたと伝えられます。つまり、いま参拝できる拝所は幕末に整えられたものです。
治定の根拠になったのは、『延喜式』などの古い記録と、近世の地誌でした。土を掘って中身を確かめたうえで決めたわけではありません。阿保親王塚古墳では、江戸時代に長州藩が治定した墓が、いまも宮内庁の管理下にあります。
太子西山古墳から出土したもの
宮内庁の管理下にあるため、この古墳では本格的な発掘調査が行われていません。埋葬施設も明らかでなく、横穴式石室の使用が推測されているにとどまります。
知られているのは、墳丘の周辺で採集された埴輪片です。採集というのは、掘らずに地表で拾うことをいいます。陵墓では、これが実際上ほぼ唯一の手がかりになります。宮内庁の公式ページには、この古墳の出土品についての記載はありません。
円筒埴輪
墳丘周辺で採集されている。この埴輪の存在が、敏達天皇陵とすることへの疑問の根拠になっている。
埴輪片
墳丘周辺で採集されたとされる。宮内庁の管理下のため本格的な調査は行われていない。
空壕
墳丘の周囲をめぐる水の無い濠。出土品ではないが、墳丘の範囲を示す遺構。
太子西山古墳と関連する古墳
太子西山古墳についてよくある質問
太子西山古墳は誰の墓ですか。
宮内庁は第30代敏達天皇の河内磯長中尾陵、および母の石姫皇女の磯長原陵として治定しています。ただし治定は行政上の扱いで、学術的な確定ではありません。円筒埴輪の存在から否定的な説もあります。
太子西山古墳はどこにありますか。
宮内庁は所在地を大阪府南河内郡太子町大字太子としています。行き方は「(バス停)敏逹天皇陵前から徒歩約9分」と案内されています。
太子西山古墳の大きさはどれくらいですか。
宮内庁が公表しているのは陵形の「前方後円」だけで、数値はありません。下調べでは墳丘長113メートルまたは93メートルとされますが、公式には確認できませんでした。
太子西山古墳はいつ作られましたか。
宮内庁は年代を示していません。下調べでは出土した埴輪から古墳時代後期前半とされます。『日本書紀』は敏達天皇が585年に亡くなり、591年に追葬されたと伝えます。
太子西山古墳に入れますか。
宮内庁が管理する陵墓のため、墳丘に立ち入ることはできません。拝所までは参拝でき、原則として年間をとおして可能、時間は原則8時30分から17時までです。
太子西山古墳と併せて覚えたい言葉・用語
治定(じじょう)
宮内庁が、この墓は誰それのものと定めること。行政上の扱いで、学術的な確定ではない。
合葬陵(がっそうりょう)
二人以上が葬られたとして治定された陵。この古墳は敏達天皇と石姫皇女の合葬陵とされる。
拝所(はいしょ)
陵墓の前に設けられた参拝の場所。墳丘には入れないが、ここまでは行ける。
殯(もがり)
亡くなってから葬るまで、遺体を仮に安置する期間。数年に及ぶこともあった。
太子西山古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。