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大阪府

高屋築山古墳とはどんな古墳か|誰の墓か・場所

高屋築山古墳  / タカヤツキヤマコフン

前方後円墳 6世紀

安閑天皇陵として治定され、中世には城の本丸が置かれた古墳。

高屋築山古墳とはどんな古墳か

大阪府羽曳野市古市5丁目にある前方後円墳です。宮内庁は、第27代安閑天皇の古市高屋丘陵として管理し、陵形を前方後円としています。宮内庁のページによれば、安閑天皇の御父は繼體天皇(継体天皇)、御母は妃目子媛です。

古市古墳群の最南端にあたります。この古墳が変わっているのは、中世に畠山氏の高屋城の本丸が墳丘に置かれ、形が大きく作り替えられている点です。古墳を畏れながら、城としては使うという、二重の扱いをしていたことになります。

拝所は、国道に面した前方部の正面、濠の外にあります。宮内庁は交通アクセスを「近鉄 古市駅から徒歩約10分」とし、原則として年間をとおして参拝可能、参拝時間は原則8時30分から17時までとしています。

高屋築山古墳の読み方と別名

読みは「たかやつきやまこふん」です。「築山」は、土を盛って築いた山という意味で、各地の古墳の名に使われています。奈良県大和高田市の築山古墳も同じです。

宮内庁が定める陵名は「古市高屋丘陵」で、読みは「ふるちのたかやのおかのみささぎ」。「ふるいち」ではなく「ふるち」と読みます。古市古墳群の「ふるいち」とは、同じ字でありながら読みが違います。

「丘陵」は「おかのみささぎ」と読みます。宮内庁の陵名では、陵の場所の地形をそのまま名に組み込むことがよくあります。天皇の陵に「陵」、皇族の墓に「墓」と使い分ける決まりもあり、この古墳は陵にあたります。

高屋築山古墳(たかやつきやまこふん)

考古学の側からの呼び方。所在地の高屋と、築いた山という意味を合わせた名。

古市高屋丘陵(ふるちのたかやのおかのみささぎ)

宮内庁が定める陵名。ふりがなも宮内庁のページにこの形で記されている。

安閑天皇陵(あんかんてんのうりょう)

治定にもとづく呼び方。第27代安閑天皇の陵として管理されている。

高屋築山古墳は誰の墓か

この古墳に葬られた人が誰かは、わかっていません

宮内庁は、この古墳を第27代安閑天皇の古市高屋丘陵として管理しています。ページに記されているのは、代数・諡号・御父・御母・陵名・陵形・所在地・交通アクセス・参拝の案内までで、なぜこの古墳が安閑天皇の陵なのかという根拠は示されていません。

安閑天皇は、継体天皇の子とされる人物です。その父である継体天皇の陵をめぐっては、宮内庁が治定する大阪府茨木市の太田茶臼山古墳と、高槻市が真の陵墓と考えられるとする今城塚古墳とが食い違っています。父の陵が定まらないまま、子の陵だけが定まっているという状態です。

もう一つ、この古墳は中世に高屋城の本丸として使われ、形が大きく作り替えられています。墳丘そのものが手を加えられているため、築造当時の姿から被葬者を考えることも難しくなっています。

宮内庁の治定。行政上の扱いであり、学術的に確かめられたものではない:第27代安閑天皇

古市高屋丘陵として管理される。御父は繼體天皇、御母は妃目子媛と記されている。

断定できない:わかっていない

ページは代数・陵名・陵形・所在地と参拝の案内を記すのみで、治定の根拠にはふれていない。

高屋築山古墳の大きさと形

宮内庁は、この古墳の陵形を前方後円としています。ただし、墳丘の長さや高さといった規模の数字を記した公式ページは確認できませんでした。宮内庁のページに載るのは、代数・諡号・御父・御母・陵名・陵形・所在地・交通アクセス・参拝の案内です。

下調べによれば、墳丘の長さ122メートル、前方部の幅100メートル、後円部は直径78メートルとされます。ただし、これらは公式には確かめられませんでした。

注意が要るのは、この古墳が中世に高屋城の本丸として使われ、元々の形態が大きく改変されているとされる点です。いま測れる形は、築いたときのままではありません。文化庁は2024年(令和6年)6月24日の文化審議会の答申を公表していますが、この古墳が含まれるかどうかは、公表された本文からは確かめられませんでした。

陵名:古市高屋丘陵(ふるちのたかやのおかのみささぎ)

陵形:前方後円

被葬者とされる天皇の代数:第27代

所在地:大阪府羽曳野市古市5丁目

参拝時間:原則、8時30分~17時

高屋築山古墳はいつ作られたか

この古墳の築造年代を記した公式ページを、確かめられませんでした。宮内庁のページは、代数と陵名と所在地、参拝の案内を記すだけで、年代にはふれていません。

下調べによれば、出土した円筒埴輪の特徴から6世紀初頭に築造されたものと考えられているとされます。安閑天皇は継体天皇の子とされ、その継体天皇は531年に没したと高槻市が記しています。年代としては、大きく外れる話ではありません。

6世紀初頭というのは、畿内で前方後円墳が造られる最後の段階にあたります。このあと、大王の墓は方墳や八角墳へと形を変えていきます。同じ古市古墳群の中でも、この古墳は最も新しい部類に属します。ただし、これらは公式ページで確かめられたものではありません。

高屋築山古墳の場所と行き方(観光情報)

古市古墳群は、羽曳野市と藤井寺市にまたがって広がります。この古墳は、その最南端にあたります。堺市の一覧に載る同じ羽曳野市の古墳としては、誉田御廟山古墳(425メートル)、河内大塚山古墳(335メートル)、墓山古墳(225メートル)、軽里大塚古墳(200メートル)があります。

近鉄の古市駅からは、この古墳のほかにも歩いて行ける古墳がいくつもあります。

安閑天皇 古市高屋丘陵(高屋築山古墳)

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安閑天皇 古市高屋丘陵(高屋築山古墳)の住所:大阪府羽曳野市古市5丁目

交通:近鉄 古市駅から徒歩約10分

駐車場:公式に確認できませんでした

料金:公式に確認できませんでした

内部見学:宮内庁が管理する陵墓で、墳丘に立ち入ることはできません。拝所までは原則、年間をとおして参拝可能で、参拝時間は原則8時30分から17時までです

宮内庁は、所在地を大阪府羽曳野市古市5丁目、交通アクセスを近鉄 古市駅から徒歩約10分としています。参拝可能な曜日は「原則、年間をとおして参拝可能」、参拝時間は「原則、8時30分~17時」です。

駐車場と料金については、公式ページで確かめられませんでした。拝所は、国道に面した前方部の正面、濠の外にあるとされます。

高屋築山古墳の発見と調査の歩み

  1. 古墳が城になった
  2. 父の陵は定まらず、子の陵は定まる
  3. 拝所という場所

古墳が城になった

この古墳がほかと違うのは、中世に城として使われた点です。

室町時代の後半、畠山氏がこの一帯に高屋城を築きました。その本丸が置かれたのが、この古墳の墳丘です。高い場所に、平らな土地がまとまってある。城を築くには、これ以上ない地形です。堀の代わりになる濠まで、すでにめぐっています。

面白いのは、使い方に迷いが残ることです。『足利季世紀』によれば、畠山稙長は本城を恐れて住まず、二ノ丸に居住したとされます。古墳を畏れながら、城としては使う。その両方が成り立っていました。代償として、墳丘の元々の形は大きく作り替えられています。

父の陵は定まらず、子の陵は定まる

安閑天皇は、継体天皇の子とされます。宮内庁のページも、御父を繼體天皇と記しています。

ところが、その父の陵は定まっていません。宮内庁が治定するのは大阪府茨木市の太田茶臼山古墳。いっぽう高槻市は、市内の今城塚古墳について「531年に没した継体大王の真の陵墓と考えられ」としています。継体天皇の陵とされる古墳が、二つあることになります。

それに対して、安閑天皇の陵についてはこの古墳が治定されており、大きな異論が表に出ることは多くありません。

治定は明治のころに定められたものが多く、そのあとの調査で年代が合わないとわかった古墳から順に、疑いが出てきました。父の陵で議論が起きて子の陵で起きないのは、年代の食い違いの大きさの差によります。

拝所という場所

宮内庁が管理する陵墓には、拝所という場所が設けられています。墳丘には入れませんが、そこまでは行けるという境目です。

この古墳の拝所は、国道に面した前方部の正面、濠の外にあるとされます。宮内庁は参拝可能な曜日を「原則、年間をとおして参拝可能」、参拝時間を「原則、8時30分~17時」としています。つまり、時間さえ合えばいつでも行ける場所です。

拝所からは、濠ごしに墳丘が見えます。中に入れないぶん、外形をながめることになります。

近鉄の古市駅から徒歩約10分。宮内庁が交通アクセスとして記す道のりです。陵墓のページに行き方まで書かれているものは、そう多くありません。

高屋築山古墳から出土したもの

この古墳の埋葬施設と副葬品については、何もわかっていません。宮内庁が管理する陵墓で、墳丘を掘ることができないためです。

しかも、この古墳は中世に城として使われ、元々の形態が大きく改変されているとされます。仮に掘れたとしても、古墳のものと城のものを見分ける作業から始まることになります。出土した円筒埴輪から築造時期が絞られているとされますが、公式ページでは確かめられませんでした。

円筒埴輪

出土した特徴から築造時期が6世紀初頭と考えられているとされる。

周堤

濠の外側をめぐる土手。国の史跡「古市古墳群」に加える手続きが進められた。

高屋城の遺構

中世に本丸が置かれたときのもの。墳丘の形が大きく作り替えられている。

埋葬施設

宮内庁が管理する陵墓のため掘ることができず、構造も副葬品もわかっていない。

高屋築山古墳と関連する古墳

高屋築山古墳についてよくある質問

高屋築山古墳は誰の墓ですか。

わかっていません。宮内庁は第27代安閑天皇の古市高屋丘陵として管理していますが、ページに治定の根拠は示されていません。治定は行政上の扱いです。

高屋築山古墳はどこにありますか。

宮内庁は所在地を大阪府羽曳野市古市5丁目とし、交通アクセスを近鉄 古市駅から徒歩約10分としています。古市古墳群の最南端にあたります。

高屋築山古墳の大きさはどれくらいですか。

宮内庁は陵形を前方後円としていますが、規模の数字を記した公式ページは確認できませんでした。下調べでは墳丘の長さ122メートルとされます。

高屋築山古墳はいつ作られましたか。

築造年代を記した公式ページは確認できませんでした。下調べでは、出土した円筒埴輪の特徴から6世紀初頭とされています。

高屋築山古墳は参拝できますか。

宮内庁が管理する陵墓で、墳丘に立ち入ることはできません。拝所までは原則、年間をとおして参拝可能で、参拝時間は原則8時30分から17時までです。

高屋築山古墳と併せて覚えたい言葉・用語

拝所(はいしょ)

陵墓の前に設けられた参拝の場所。墳丘には入れないが、ここまでは行ける。

陵形(りょうけい)

宮内庁が記す陵の形。前方後円・円丘・方丘などがあり、墳形とは別の言い方。

周堤(しゅうてい)

濠の外側をぐるりと取り巻く土手。墳丘の一部として史跡に加えられることがある。

本丸(ほんまる)

城の中心となる区画。高屋城では、この古墳の墳丘に置かれていた。

高屋築山古墳の参考資料

この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。

  1. 宮内庁