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大阪府

摩湯山古墳とはどんな古墳か|誰の墓か・場所

摩湯山古墳  / マユヤマコフン

前方後円墳 4世紀

和泉最古級にして、前期古墳では畿内屈指の大きさを持つ古墳。

摩湯山古墳とはどんな古墳か

大阪府岸和田市にある前方後円墳です。堺市がまとめた全国の古墳大きさランキングは、墳丘規模200メートルで第36位に置き、所在地を大阪府岸和田市久米田摩湯町としています。

いっぽう文化庁は、所在地を岸和田市摩湯町とし、丘陵端に営まれた前方後円墳で、ほぼ西南に面する主軸の長さ約190メートルに達する墳丘をなす、としています。同じ古墳に、200メートルと190メートルという二つの数字があります。

文化庁は続けて、円筒埴輪列もめぐらされ葺石もよく遺存している、保存の状態もまたきわめて良好であり、学術上の価値は高い、と記しています。1956年(昭和31年)5月15日に国の史跡に指定され、2010年(平成22年)8月5日に範囲が追加指定されました。

摩湯山古墳の読み方と別名

読みは「まゆやまこふん」です。文化庁のふりがなも同じです。

摩湯は、所在地の町の名です。ただし、この名をどう書くかは資料によって違います。文化庁は岸和田市摩湯町とし、堺市の全国ランキングは大阪府岸和田市久米田摩湯町としています。発掘調査報告書は、大阪府岸和田市摩湯町地内と記しています。

久米田は、この一帯の広い地名です。同じ場所を、どの範囲で呼ぶかによって書き方が変わっていることになります。

摩湯山古墳(まゆやまこふん)

文化庁の指定名称。ふりがなも「まゆやまこふん」で、これが公式の呼び方になる。

摩湯町(まゆちょう)

所在地の町名。文化庁は岸和田市摩湯町、堺市の一覧は久米田摩湯町と記す。

馬子塚古墳(まごづかこふん)

南側にある一辺約35メートルの方墳。摩湯山古墳の陪塚と推定されている。

摩湯山古墳は誰の墓か

この古墳に葬られた人が誰かは、わかっていません。宮内庁の陵墓ではなく、国の史跡として扱われています。

下調べによれば、1997年度から1998年度に周濠と周堤部の発掘調査が実施されているものの、本格的な調査は実施されていないとされます。埋葬施設も明らかでなく、後円部中央の陥没坑と緑泥片岩の散在から、竪穴式石室があったと推定されるにとどまります。

わかるのは、この古墳が置かれた位置です。前期古墳としては畿内でも屈指の規模であり、和泉地方の前方後円墳としては最古級の古墳として位置づけられるとされます。

もう一つ、墳形からの手がかりがあります。この古墳の形は、奈良市の佐紀陵山古墳と相似形をなすといいます。相似形の前方後円墳は畿内を取り囲むように分布することから、築造当時に畿内制的な領域支配が存在したとする説があるとされます。

断定できない:わかっていない

解説文は墳丘・埴輪列・葺石の保存状態を記すのみで、葬られた人にはふれていない。

宮内庁の治定は無い:治定はされていない

全国ランキングでは、天皇陵古墳のような括弧つきの陵名を伴わずに記載されている。

摩湯山古墳の大きさと形

この古墳には、公式の数字が二つあります。堺市の全国ランキングは墳丘規模200メートル、文化庁の解説文は主軸の長さ約190メートルです。10メートルの差があります。

どちらが誤りというわけではありません。文化庁の解説文は1956年の史跡指定のときのもので、堺市の一覧はその後にまとめられたものです。測る基準や時期が違えば、数字は変わります。同じことは、いたすけ古墳でも起きています。

堺市の全国ランキングでは、この200メートルという値が第36位にあたります。同じ順位には白鳥陵古墳、島の山古墳神明山古墳両宮山古墳などが並びます。

下調べでは、後円部の直径は約127メートル、前方部の幅は約100メートルとされます。前方部側の周濠は馬蹄形で幅約36メートルといいますが、これらは公式には確かめられませんでした。

墳丘規模(全長):200メートル

全国での順位:第36位(200メートル)

主軸の長さ:約190メートル

国の史跡の指定年月日:1956年(昭和31年)5月15日

摩湯山古墳はいつ作られたか

築造の時期を記した公式のページは、確かめられませんでした。文化庁のデータベースは時代・年代・西暦の欄がいずれも空欄です。

下調べによれば、古墳時代前期後半の4世紀後半、あるいは4世紀末頃と推定されています。前期古墳としては畿内でも屈指の規模であり、和泉地方の前方後円墳としては最古級とされます。

4世紀後半は、大阪府南部にまだ巨大古墳が集中していなかった時期です。百舌鳥古墳群古市古墳群に大王級の古墳が並ぶのは、5世紀に入ってからのことです。それより前に、この規模の古墳が和泉の丘陵の先端に築かれていたことになります。

南側の陪塚とされる馬子塚古墳も、4世紀後半あるいは5世紀初頭頃と推定されています。

摩湯山古墳の場所と行き方(観光情報)

この古墳の付近には、陪塚と推定される古墳がいくつかあるとされます。南側の馬子塚古墳、北側のイナリ古墳(稲荷山古墳)です。北東側の淡路神社境内でも円筒埴輪が出土しており、そこにも古墳があったと推測されています。

同じ大阪府では、黒姫山古墳墓山古墳が知られます。摩湯山古墳はそれらより古く、和泉の平野を見おろす位置に築かれています。

摩湯山古墳

地図で開く

摩湯山古墳の住所:岸和田市摩湯町

交通:公式には確認できませんでした

駐車場:公式には確認できませんでした

料金:公式には確認できませんでした

内部見学:立ち入りについて公式の記載は確認できませんでした。下調べでは、現在は古墳域内への立ち入りが制限されているとされます

所在地の書き方が資料によって違います。文化庁は岸和田市摩湯町、堺市の全国ランキングは大阪府岸和田市久米田摩湯町、発掘調査報告書は大阪府岸和田市摩湯町地内としています。

いずれも番地までは記されていません。行き方・駐車場・料金も、公式の記載を確かめられませんでした。下調べによれば、いまは古墳域内への立ち入りが制限されているとされます。周濠はため池に改変されています。

摩湯山古墳の発見と調査の歩み

  1. 200メートルと190メートル
  2. 佐紀陵山古墳と同じ形
  3. 陪塚から出た鏡と、堤の工事

200メートルと190メートル

この古墳の大きさには、公式の数字が二つあります。

堺市がまとめた全国の古墳大きさランキングは、摩湯山古墳を墳丘規模200メートルとし、第36位に置いています。いっぽう文化庁の解説文は、ほぼ西南に面する主軸の長さ約190メートルに達する墳丘をなす、と記しています。

差は10メートルです。どちらかが間違っているのではなく、測った時期と基準が違うと考えるのが自然です。文化庁の解説文は1956年の史跡指定のときのものです。

古墳の大きさは、測り直されるたびに書き換わります。いたすけ古墳では堺市の146メートルと文化庁の140メートルという違いがありました。数字を一つに決めようとするより、二つ並べて出典を添えるほうが正確です。

佐紀陵山古墳と同じ形

この古墳の墳形には、はっきりした特徴があります。下調べによれば、奈良市の佐紀陵山古墳と相似形をなすとされます。

相似形とは、大きさが違っても形の比が同じであることをいいます。前方部が未発達で、柄鏡のように見える形です。

佐紀陵山古墳と相似形の前方後円墳は、畿内を取り囲むように分布するといいます。ここから、築造当時に畿内制的な領域支配が存在したとする説があるとされます。

同じ設計図を配って各地に古墳を造らせた、という見立てです。浦間茶臼山古墳箸墓古墳の2分の1で企画されたとする指摘も、同じ考え方に立っています。ただし、いずれも公式のページで確かめられた話ではありません。

陪塚から出た鏡と、堤の工事

摩湯山古墳の南側には、馬子塚古墳という方墳があります。下調べによれば一辺約35メートル、2段築成で、埋葬施設は粘土槨と推定されています。

この古墳は、1958年(昭和33年)に長池という池の堤を補修する工事の際、墳丘が大きく削られました。そのときに斜縁二神二獣鏡と管玉15個が出土したといいます。長池は、摩湯山古墳の前方部の正面にある池です。

発掘調査報告書には、未発表資料であった馬子塚古墳の出土遺物を掲載したと特記事項が記されています。工事のときに出た品が、長く世に出ないままだったことになります。

本体である摩湯山古墳が本格的に掘られていない以上、この陪塚から出た鏡は、この一帯を治めた人々を考える数少ない手がかりです。

摩湯山古墳から出土したもの

摩湯山古墳そのものは、本格的な発掘調査が行われていません。埋葬施設も明らかでなく、副葬品はわかっていません。

文化庁が記しているのは、円筒埴輪列がめぐらされ葺石もよく遺存している、という墳丘の外側の様子です。発掘調査報告書は、主な遺物として土師器・円筒埴輪・形象埴輪・鏡を挙げています。

円筒埴輪列

文化庁は、墳丘に円筒埴輪列がめぐらされているとしている。器財埴輪や鰭付円筒埴輪を含むとされる。

葺石

文化庁は、葺石もよく遺存していると記す。丘陵を利用した墳丘を覆っている。

土師器

墳頂部から高坏が出土したとされる。

斜縁二神二獣鏡

陪塚とされる馬子塚古墳から、堤の補修工事の際に管玉15個とともに出土した。

摩湯山古墳と関連する古墳

同じ時代・地域 同じ古墳群・形 比較対象 学説・治定の違い

摩湯山古墳についてよくある質問

摩湯山古墳は誰の墓ですか。

わかっていません。本格的な発掘調査が行われておらず、埋葬施設も明らかでありません。宮内庁の陵墓ではなく国の史跡です。

摩湯山古墳はどこにありますか。

文化庁は岸和田市摩湯町、堺市の全国ランキングは大阪府岸和田市久米田摩湯町としています。番地までは確かめられませんでした。

摩湯山古墳の大きさはどれくらいですか。

堺市の全国ランキングは墳丘規模200メートル・第36位、文化庁の解説文は主軸の長さ約190メートルとしています。二つの数字があります。

摩湯山古墳はいつ作られましたか。

公式のページでは確かめられませんでした。下調べでは4世紀後半、あるいは4世紀末頃とされ、和泉地方の前方後円墳としては最古級とされます。

摩湯山古墳の墳丘に登れますか。

立ち入りについて公式の記載は確認できませんでした。下調べでは、古墳域内への立ち入りは制限されているとされます。

摩湯山古墳と併せて覚えたい言葉・用語

柄鏡式(えかがみしき)

前方部が細く長い前方後円墳の形。柄の付いた鏡に似ることによる呼び名。

相似形(そうじけい)

大きさが違っても形の比が同じであること。同じ設計を共有した証と考えられる。

渡土堤(わたりどて)

周濠を横切って墳丘へ渡る土手。摩湯山古墳のものは築造当時のものと推測される。

鰭付円筒埴輪(ひれつきえんとうはにわ)

両側にひれ状の張り出しが付く円筒埴輪。前期から中期の古墳に見られる。

摩湯山古墳の参考資料

この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。

  1. 文化庁
  2. 堺市