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大阪府

田出井山古墳とはどんな古墳か|誰の墓か・場所

田出井山古墳  / タデイヤマコフン

前方後円墳 5世紀

反正天皇陵として治定された、百舌鳥古墳群の北端に立つ前方後円墳。

田出井山古墳とはどんな古墳か

大阪府堺市にある前方後円墳です。堺市は所在地を堺市堺区北三国ヶ丘町2丁とし、全長約148メートル、後円部径約76メートル、高さ約13メートル、前方部幅約110メートル、高さ約15メートルで、百舌鳥古墳群では7番目の大きさとしています。

文化庁は、台地の西縁部に、等高線と墳丘主軸線を並行させるように前方部を南に向けて造られると説明しています。大阪湾からの眺望を意識して、場所と墳丘の向きが選ばれたということです。

現在は一重の濠ですが、築造時は二重の周濠でした。外濠は埋め戻して保存されています。宮内庁は第18代反正天皇の百舌鳥耳原北陵として管理しています。世界文化遺産の構成資産の一つです。

田出井山古墳の読み方と別名

読みは「たでいやまこふん」です。堺市のページも「はんぜいてんのうりょうこふん(たでいやまこふん)」と、二つの読みを並べて書いています。

「田出井」という字は当て字で、もとは「楯井」だったとされます。江戸時代の絵図には「反正天皇陵」「楯井陵」の表記が見えます。楯井は、この一帯の広い地名である向井の別の呼び方で、それが田出井に転じたと言われます。

世界文化遺産には「反正天皇陵古墳」という名称で登録されています。同じ古墳に、考古学の名、治定の名、世界遺産の名の三つがあることになります。

田出井山古墳(たでいやまこふん)

考古学の側からの呼び方。堺市のページでも「はんぜいてんのうりょうこふん(たでいやまこふん)」と併記される。

百舌鳥耳原北陵(もずのみみはらのきたのみささぎ)

宮内庁が定める陵名。大仙陵古墳の中陵、上石津ミサンザイ古墳の南陵と三つで一組。

楯井陵(たていりょう)

江戸時代の絵図に見える表記。楯井は当地の広域地名の別称で、田出井に転じたとされる。

田出井山古墳は誰の墓か

この古墳に葬られた人が誰かは、わかっていません

宮内庁は第18代反正天皇の百舌鳥耳原北陵として管理し、所在地を大阪府堺市北区北三国ヶ丘町二丁としています。堺市も「百舌鳥耳原三陵の北陵・反正天皇陵として宮内庁が管理しています」と書いています。

ただし、百舌鳥耳原三陵とされる三基のうち、この古墳だけが極端に小さいのです。中陵とされる大仙陵古墳は約486メートル、南陵とされる上石津ミサンザイ古墳は約365メートル。この古墳は約148メートルで、けたが違います。そこから、反正天皇の陵であることを疑う声が出ています。

宮内庁自身も、より大きいニサンザイ古墳を反正天皇の陵墓参考地としています。治定した陵と、参考地の候補とが、同じ人物で二重になっているという状態です。

宮内庁の治定:第18代反正天皇

陵名は百舌鳥耳原北陵、陵形は前方後円、所在地は大阪府堺市北区北三国ヶ丘町二丁と記される。

断定できない:わかっていない

堺市は宮内庁が管理していると書くにとどまり、被葬者を確かめた根拠にはふれていない。

治定にもとづく名称:世界遺産としては反正天皇陵古墳の名で登録

百舌鳥・古市古墳群の構成資産。文化庁は所在地を堺市、藤井寺市、羽曳野市とする。

田出井山古墳の大きさと形

堺市は、規模を全長約148メートル、後円部径約76メートル、高さ約13メートル、前方部幅約110メートル、高さ約15メートルとし、百舌鳥古墳群では7番目の大きさとしています。

文化庁は墳丘長を148メートル、高さは前方部で14.8メートルとしています。堺市の「約15メートル」と、文化庁の「14.8メートル」。同じものを、丸めて書くか、細かく書くかの違いです。

墳丘は3段に築かれ、くびれ部の西側だけに造り出しが設けられています。現在は一重の盾形の濠がめぐりますが、発掘調査によって、築造時は二重の周濠であったことが確認されています。

全長:約148メートル

後円部:径約76メートル、高さ約13メートル

前方部の幅・高さ:幅約110メートル、高さ約15メートル(堺市)/14.8メートル(文化庁)

百舌鳥古墳群での順位:7番目の大きさ

田出井山古墳はいつ作られたか

堺市は、墳丘のかたちや出土した埴輪から、5世紀後半頃に造られたと考えられるとしています。いっぽう文化庁は、築造時期を中期中葉としています。

同じ古墳に、二つの言い方が並んでいます。中期中葉は5世紀の半ばごろにあたるので、堺市の言う後半とは少しずれます。どちらも公式の記述です。

文化庁は、百舌鳥・古市古墳群全体を4世紀後半から5世紀後半にかけて築造されたとしています。この古墳は、群がいちばん盛んに造られた時期のもので、大仙陵古墳やいたすけ古墳とほぼ同じころです。

田出井山古墳の場所と行き方(観光情報)

この古墳は百舌鳥古墳群の北の端にあたります。南へ行けば、いたすけ古墳、御廟山古墳、ニサンザイ古墳、大仙陵古墳が続きます。周辺には陪塚と推定される鈴山古墳・天王古墳があり、それらも宮内庁が管理しています。

田出井山古墳(反正天皇 百舌鳥耳原北陵)

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田出井山古墳(反正天皇 百舌鳥耳原北陵)の住所:堺市堺区北三国ヶ丘町2丁

交通:南海 堺東駅から徒歩約6分(宮内庁)

駐車場:公式には確認できませんでした

料金:公式には確認できませんでした

内部見学:宮内庁が管理する陵墓で、墳丘に立ち入ることはできません。拝所までは参拝できます。宮内庁は参拝可能な曜日を「原則、年間をとおして参拝可能」、参拝時間を「原則、8時30分~17時」としています。

住所の表記が、出典によって違います。堺市は堺市堺区北三国ヶ丘町2丁とし、宮内庁は大阪府堺市北区北三国ヶ丘町二丁としています。堺区と北区で食い違っています。

行き方は、宮内庁が南海の堺東駅から徒歩約6分としています。前方部の北東の角の内濠に、方違神社の境内が接するように建っています。

田出井山古墳の発見と調査の歩み

  1. 大阪湾を向いて造られた
  2. 埋め戻して守るという方法
  3. 三つの陵と、けたの違う大きさ

大阪湾を向いて造られた

文化庁は、この古墳の立地について、はっきりした説明をしています。

台地の西縁部に、等高線と墳丘主軸線を並行させるように前方部を南に向けて造られる。大阪湾からの眺望を大いに意識した場所と墳丘の方向が選ばれている

台地のふちに、等高線と平行に置く。そうすれば、海から見上げたときにいちばん大きく見えます。

古墳は、上から見た形で語られがちですが、造った人が意識していたのは横から見た姿でした。大陸へ向かう船が出ていく海に向かって、権威を並べて見せる。文化庁は世界遺産の説明でも、この墓群が海を望む台地上に位置していることを記しています。

埋め戻して守るという方法

この古墳のまわりには、いま一重の濠しかありません。しかし発掘調査によって、築造時は二重の周濠であったことが確認されています。

外濠は13世紀の半ばから14世紀の後半にかけて埋まったと考えられています。堺市の調査では、前方部の東側や後円部の北側など、いくつもの地点で外濠の跡が見つかりました。外の肩には葺石が施され、堤には埴輪が並んでいました。

文化庁は「外濠は埋没保存されている」と書いています。掘り出して見せるのではなく、土の中に埋めたまま守るという方法です。2002年の調査では、道路の設置場所が外濠を避けるよう設計変更され、そのまま埋め戻されました。見えないものを、見えないまま残すという選択です。

三つの陵と、けたの違う大きさ

百舌鳥耳原三陵という呼び方があります。宮内庁が治定する三つの陵、すなわち中陵の大仙陵古墳、南陵の上石津ミサンザイ古墳、そして北陵のこの古墳です。

ところが大きさがそろいません。堺市の全国の一覧によれば、大仙陵古墳は約486メートルで第1位、上石津ミサンザイ古墳は約365メートルで第3位。この古墳は約148メートルです。

同じ「三陵」と呼ばれながら、一つだけ規模がまるで違います。そこから治定を疑う声が出ました。宮内庁も、より大きなニサンザイ古墳を反正天皇の陵墓参考地としています。堺市は、この古墳を百舌鳥古墳群で7番目の大きさとしています。

田出井山古墳から出土したもの

墳丘は宮内庁が管理しており、掘ることができません。出土品は、すべて濠の外側の調査で見つかったものです。

それでも、埴輪の特徴から築造の時期を絞ることができました。堺市は、出土した埴輪の特徴が5世紀後半でも古い段階のものだとしています。内濠と外濠の開き具合からも、ニサンザイ古墳より遡ることが示唆されています。

瑪瑙製勾玉

外濠の調査地点から出土。堺市が出土品として挙げている。

須恵器台

5世紀代のもの。外濠の調査で複数の地点から出土している。

円筒埴輪

中型品が主体。後円部の北東側から多く出土している。

形象埴輪

蓋型・家形の埴輪、人物埴輪の手の部分などが知られる。

田出井山古墳と関連する古墳

田出井山古墳についてよくある質問

田出井山古墳は誰の墓ですか。

わかっていません。宮内庁は第18代反正天皇の百舌鳥耳原北陵として管理していますが、三陵の中で極端に小さいことから疑う声もあり、宮内庁自身がニサンザイ古墳を陵墓参考地としています。

田出井山古墳はどこにありますか。

堺市は堺市堺区北三国ヶ丘町2丁、宮内庁は大阪府堺市北区北三国ヶ丘町二丁としており、区の書き方が食い違います。南海の堺東駅から徒歩約6分です。

田出井山古墳の大きさはどれくらいですか。

堺市は全長約148メートル、後円部径約76メートル、前方部幅約110メートルとし、百舌鳥古墳群では7番目の大きさとしています。

田出井山古墳はいつ作られましたか。

堺市は5世紀後半頃、文化庁は中期中葉としています。二つの言い方が並んでいます。文化庁は百舌鳥・古市古墳群全体を4世紀後半から5世紀後半としています。

田出井山古墳の中に入れますか。

宮内庁が管理する陵墓で、墳丘に立ち入ることはできません。拝所までは参拝でき、原則として年間をとおして参拝可能、時間は8時30分から17時とされています。

田出井山古墳と併せて覚えたい言葉・用語

二重の周濠(にじゅうのしゅうごう)

墳丘のまわりに濠を二重にめぐらせた造り。この古墳では外濠が埋没保存されている。

埋没保存(まいぼつほぞん)

掘り出さず、土に埋めたまま遺構を守ること。壊れやすい遺構に用いられる。

百舌鳥耳原三陵(もずのみみはらさんりょう)

宮内庁が百舌鳥に定める三つの陵。北陵・中陵・南陵からなる。

造り出し(つくりだし)

墳丘のくびれ部に張り出した平らな壇。この古墳では西側だけにある。

田出井山古墳の参考資料

この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。

  1. 宮内庁
  2. 堺市
  3. 文化庁
  4. 堺市・文化庁