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京都府

天皇の杜古墳とはどんな古墳か|誰の墓か・場所

天皇の杜古墳  / テンノウノモリコフン

前方後円墳 4世紀

全長83.0メートル。文徳天皇の陵と語り継がれてきた京都市内最大級の古墳。

天皇の杜古墳とはどんな古墳か

天皇の杜古墳は、京都市西京区御陵塚ノ越町にある前方後円墳です。京都市は、古墳時代前期(4世紀代)に築造された市内で最大級の数少ない前方後円墳で、当時桂川右岸を支配していた豪族の墳墓と推定される、と説明しています。

名前は伝承から来ています。京都市によれば、地元では古くから「文徳天皇(平安時代の天皇)の御陵」として語り継がれ、「御陵さん」の呼び名で畏敬と親しみをもって守られてきました。

その伝承のおかげで保存状態がよく、歴史的・学術的価値が高いことから、大正11年(1922年)に国の史跡に指定されました。

平成6年4月(1994年)からは史跡公園として開かれ、市民が広く文化財に親しめる場、古代史学習の場になっています。いまは史跡「乙訓古墳群」を構成する1基でもあります。

天皇の杜古墳の読み方と別名

読みは「てんのうのもりこふん」です。文化庁のふりがなも「てんのうのもりこふん」となっています。

「天皇の杜」という名も、周辺の地名「御陵」も、この古墳を文徳天皇の陵とする伝承から来ています。京都市は、地元で「御陵さん」と呼ばれてきたと記しています。

ただし、京都市はこの古墳を4世紀代の築造としています。平安時代の文徳天皇とは、時代がまるで違います。名前は伝承であって、被葬者を示すものではありません。

天皇の杜古墳(てんのうのもりこふん)

京都市と文化庁が使う正式な表記。文化庁のふりがなも同じ。

天皇ノ杜古墳(てんのうのもりこふん)

「の」を片仮名の「ノ」で書く形。古い資料に見られる。

御陵さん(ごりょうさん)

地元での呼び名。京都市は、この呼び名で畏敬と親しみをもって守られてきたと記す。

天皇の杜古墳は誰の墓か

天皇の杜古墳の被葬者はわかっていません

名前は「天皇の杜」ですが、天皇の墓ではありません。京都市は、この古墳を古墳時代前期(4世紀代)に築造されたとし、被葬者を「当時桂川右岸を支配していた豪族」と推定しています。

一方、地元に伝わってきたのは、平安時代の文徳天皇の陵という言い伝えでした。京都市も、地元で古くから「文徳天皇の御陵」として語り継がれてきたと記しています。

4世紀の古墳と、平安時代の天皇。あいだには数百年の開きがあります。

それでも、この言い伝えがなければ古墳は残らなかったかもしれません。京都市は、畏敬と親しみをもって守られてきたために保存状態がよく、歴史的・学術的価値が高いことから国の史跡に指定された、と書いています。

学術的な見方のひとつ:桂川右岸を支配していた豪族

古墳時代前期(4世紀代)の築造とし、当時桂川右岸を支配していた豪族の墳墓と推定する。

地元の言い伝え:文徳天皇

地元で古くから「文徳天皇の御陵」と語り継がれてきた。京都市が示す築造年代とは合わない。

天皇の杜古墳の大きさと形

京都市が示す墳丘の数字は次のとおりです。全長83.0メートル、前方部の幅33.5メートル・高さ4.8メートル、後円部の幅50.5メートル・高さ7.2メートル。

総面積は10,234平方メートルで、その内訳は墳丘部2,908平方メートル、周濠部7,326平方メートルです。

おもしろいのは、濠がないことです。京都市は、昭和63年からの2年間の発掘調査で、この古墳が台地の上に墳丘を盛り上げて造られたと推定され、周囲に濠を巡らした古墳でないことも判明したと記しています。

「周濠部」という区分があるのに、実際には濠がない。整備のときに公有化した範囲を、そう呼んでいるためです。墳丘部の斜面には葺石があり、段のあいだの平らな面には埴輪列がすべてに及んでいたことも分かりました。

墳丘の全長:83.0メートル

前方部:幅33.5メートル・高さ4.8メートル

後円部:幅50.5メートル・高さ7.2メートル

総面積:10,234平方メートル(墳丘部2,908平方メートル・周濠部7,326平方メートル)

史跡「乙訓古墳群」の面積:126199.41平方メートル

天皇の杜古墳はいつ作られたか

京都市は、この古墳を古墳時代前期(4世紀代)の築造としています。

4世紀代は、前方後円墳という形が畿内から各地へ広がっていく時期にあたります。同じ京都府では、木津川のほとりの椿井大塚山古墳が三世紀後半とされ、それより少しあとということになります。

桂川の右岸に、市内で最大級の前方後円墳が築かれたということは、この一帯に相応の力をもつ人物がいたということです。

のちに、同じ乙訓の地では物集女車塚古墳が6世紀中頃に築かれます。2世紀ほどあとのことです。文化庁は、この2基を含む古墳をまとめて「乙訓古墳群」としました。

天皇の杜古墳の場所と行き方(観光情報)

墳丘を歩ける古墳は多くありません。この古墳は史跡公園として整備・開放されており、前方後円墳の形を足で確かめられる数少ない例です。

京都市は昭和63年から保存整備事業に着手しました。

天皇の杜古墳

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天皇の杜古墳の住所:京都市西京区御陵塚ノ越町

交通:阪急電鉄 桂駅下車、徒歩約20分(西方向)。京都市バスは京都駅から73系統、四条烏丸から29系統で国道三ノ宮下車、停留所南側(京都市)

駐車場:ありません(京都市は「駐車場はありません」と記載)

料金:記載はありません。史跡公園として開放されています

内部見学:史跡公園として整備・開放されています。史跡内では自転車・バイク等の乗入れが禁止されています

京都市は交通の案内を細かく載せています。阪急電鉄の桂駅から徒歩約20分(西方向)。京都市バスなら京都駅から73系統、四条烏丸から29系統で「国道三ノ宮」下車、停留所の南側です。京都交通バスも同じ停留所を通ります。

駐車場はありません。京都市はそう明記しています。

史跡内では自転車・バイク等の乗入れが禁止されています。平成6年4月(1994年)に史跡公園として開かれました。

天皇の杜古墳の発見と調査の歩み

  1. 合わない言い伝えが、古墳を守った
  2. 濠がない、と分かった調査
  3. 乙訓古墳群という束ね方

合わない言い伝えが、古墳を守った

京都市の説明で、いちばん印象に残るのは次のくだりです。

地元では古くから「文徳天皇(平安時代の天皇)の御陵」として語り継がれ,また「御陵さん」の呼び名で畏敬と親しみをもって今日まで守られてきました。

文徳天皇は平安時代の天皇です。京都市自身が、この古墳を4世紀代の築造としています。言い伝えは、年代の上では成り立ちません。

それでも、天皇の墓だと信じられていたからこそ、削られず、耕されず、家も建てられませんでした。保存状態がよいという理由で国の史跡になった古墳が、年代の合わない言い伝えに守られていた。古墳の残り方を考えるうえで、忘れがたい例です。

濠がない、と分かった調査

京都市は、昭和63年(1988年)から2年をかけて発掘調査を実施しました。整備の基礎資料を得るためです。

分かったことは2つ。ひとつは、墳丘部の斜面に葺石があり、段のあいだの平らな面には埴輪列がすべてに及んでいたこと。もうひとつが、周囲に濠を巡らした古墳ではないということでした。

京都市はこの古墳を「台地の上に墳丘を盛り上げて造られたと推定され」ると書いています。台地の高まりをそのまま使い、その上に土を盛った。大きな古墳には濠がある、とは限りません。地形を読んで、いちばん理にかなった造り方を選んでいます。

乙訓古墳群という束ね方

この古墳は、いま単独の史跡ではありません。文化庁の記録によれば、既に指定されていた天皇の杜古墳・寺戸大塚古墳・五塚原古墳の3基を統合し、元稲荷古墳・南条古墳・物集女車塚古墳恵解山古墳・今里大塚古墳・鳥居前古墳などを追加指定して、名称を「乙訓古墳群」に変更しました。

面積は126199.41平方メートル。1基ずつばらばらに守るのではなく、桂川の右岸から乙訓一帯にかけての古墳を、ひとつのまとまりとして守るという考え方です。

同じ考え方は、百舌鳥古墳群古市古墳群でも取られています。

天皇の杜古墳から出土したもの

京都市が出土品として挙げているのは、円筒埴輪と朝顔形埴輪だけです。

埋葬施設は調査されていません。墳丘の外側だけを調べ、内部には手を付けていないためです。何が納められているかは、いまも分かっていません。

史跡公園として整備するための調査でした。掘らずに残す、という判断もまた保存のかたちです。

円筒埴輪

京都市が出土品として挙げている。墳丘の段のあいだの平らな面に並べられていた。

朝顔形埴輪

同じく出土品。口が開いた形の埴輪で、円筒埴輪に混じって並ぶ。

葺石

墳丘部の斜面に敷きつめられていたことが、発掘調査で確かめられた。

埴輪列

段のあいだの平らな面のすべてに及んでいたことが分かった。並べ方まで確かめられた例。

天皇の杜古墳と関連する古墳

天皇の杜古墳についてよくある質問

天皇の杜古墳は誰の墓ですか。

わかっていません。京都市は、古墳時代前期(4世紀代)の築造とし、当時桂川右岸を支配していた豪族の墳墓と推定しています。地元では文徳天皇の御陵と語り継がれてきましたが、平安時代の天皇であり、年代が合いません。

天皇の杜古墳はどこにありますか。

京都市西京区御陵塚ノ越町です。阪急電鉄の桂駅から徒歩約20分(西方向)、京都市バスなら「国道三ノ宮」下車、停留所の南側です。

天皇の杜古墳の大きさはどれくらいですか。

京都市によれば全長83.0メートル、前方部の幅33.5メートル・高さ4.8メートル、後円部の幅50.5メートル・高さ7.2メートルです。総面積は10,234平方メートルあります。

天皇の杜古墳はいつ作られたのですか。

京都市は古墳時代前期(4世紀代)としています。国の史跡に指定されたのは大正11年3月8日です。

天皇の杜古墳は中に入れますか。

史跡公園として整備・開放されており、墳丘を歩いて見ることができます。ただし駐車場はなく、史跡内では自転車・バイク等の乗入れが禁止されています。

天皇の杜古墳と併せて覚えたい言葉・用語

前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)

四角い前方部と丸い後円部をつないだ、鍵穴のような形の古墳。

周濠(しゅうごう)

墳丘のまわりをめぐる濠。天皇の杜古墳では、調査の結果めぐっていなかったことが分かった。

朝顔形埴輪(あさがおがたはにわ)

上部が朝顔の花のように開いた埴輪。円筒埴輪に混じって並べられる。

段築(だんちく)

墳丘を段状に築くこと。段と段のあいだの平らな面に埴輪を並べることが多い。

史跡(しせき)

国が指定して守る、歴史上重要な遺跡。天皇の杜古墳は大正11年に指定された。

天皇の杜古墳の参考資料

この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。

  1. 京都市
  2. 文化庁