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茨城県

三昧塚古墳とはどんな古墳か|誰の墓か・場所

三昧塚古墳  / サンマイヅカコフン

前方後円墳 5世紀

馬の飾りの付いた金銅冠が出た、霞ヶ浦沿岸の前方後円墳。

三昧塚古墳とはどんな古墳か

茨城県行方市にある前方後円墳です。1955年(昭和30年)の土取り工事で大きく削られ、そのときの緊急調査で埋葬施設と副葬品が明らかになりました。発掘調査報告書は、遺跡の所在地を茨城県行方郡玉造町沖洲467-1ほかと記しています。玉造町は、報告書が書かれた当時の町名です。

後円部の墳頂の下には組合式の箱式石棺が据えられ、その中から人骨とともに多数の副葬品が出土しました。文化庁は、金銅冠は馬形飾と樹木状飾の付く唯一の遺例であり、本体には心葉形の歩揺と花文、唐草文、動物文などの透彫が伴うとしています。

出土品は2018年(平成30年)10月31日に国の重要文化財に指定されました。文化庁は時代を古墳中期から後期、年代を5から6世紀としています。現在は墳丘を復元して、三昧塚古墳農村公園として公開されているとされます。

三昧塚古墳の読み方と別名

読みは「さんまいづかこふん」です。文化庁が出土品の指定名称に付けたふりがな「いばらきけんさんまいづかこふんしゅつどひん」から確かめられます。

三昧は、墓地を指す古い言い方です。この古墳では、室町時代に墳丘を掘って中世の墓地が営まれていたと推測されており、名はそのことに由来する可能性があります。

所在地の表記にも注意がいります。報告書は茨城県行方郡玉造町沖洲と記しますが、これは合併前の町名です。現在の行方市にあたります。

三昧塚古墳(さんまいづかこふん)

文化庁のふりがなは「いばらきけんさんまいづかこふんしゅつどひん」で、読みが確かめられる。

沖洲古墳群(おきすこふんぐん)

この古墳が属するまとまり。勅使塚古墳・権現山古墳・大日塚古墳などが含まれる。

金銅馬形飾付透彫冠(こんどううまがたかざりつきすかしぼりかん)

重要文化財としての指定名称。この古墳を代表する出土品。

三昧塚古墳は誰の墓か

この古墳に葬られた人が誰かは、わかっていません。宮内庁の陵墓ではなく、行方市の指定史跡です。

それでも、この人物がどういう立場にいたかについては手がかりがあります。文化庁は、金銅冠について馬形飾と樹木状飾の付く唯一の遺例とし、金銅製の垂飾や大形の銅鏡、金銅製の馬具も学術上重要としています。

金銅とは、銅に金をかぶせたものです。そうした冠をかぶる立場の人が、5世紀の霞ヶ浦沿岸にいたことになります。

下調べによれば、被葬者は霞ヶ浦という地理的環境を利用して治めた有力な首長と想定されるとされます。埼玉県の稲荷山古墳のように名を刻んだ品が出ているわけではないため、名前まではわかりません。

断定できない:わかっていない

解説文は出土品の内容と価値を記すのみで、葬られた人にはふれていない。

学術的な見方のひとつ:霞ヶ浦沿岸の有力な首長

報告書の主な遺物として金銅冠・人物埴輪・円筒埴輪が挙げられ、被葬者が項目に立てられている。

三昧塚古墳の大きさと形

三昧塚古墳の墳丘の規模を記した公式のページを、確かめられませんでした。文化庁のデータベースは出土品についてのもので、墳丘の数字は載っていません。

発掘調査報告書の記録から確かめられるのは、遺跡の所在地と、主な遺構が前方後円の墳丘と周堀であること、主な遺物が円筒埴輪・形象埴輪の破片と土師器の破片であることまでです。

下調べによれば、墳丘長82.1メートル、後円部の直径46.5メートル・高さ8メートル、前方部の幅は推定37.2メートル・高さ6メートルとされます。かつて85メートルという数字が知られていましたが、1999年度までの墳裾の発掘調査を踏まえて修正されたといいます。測り直されて数字が変わった古墳です。

遺跡所在地:茨城県行方郡玉造町沖洲467-1ほか

出土品の年代:5~6世紀(古墳中~後期)

出土品の保管施設:茨城県立歴史館/明治大学博物館

墳丘の規模:公式には確認できませんでした

三昧塚古墳はいつ作られたか

文化庁は、三昧塚古墳出土品の時代を古墳中~後期、年代を5~6世紀としています。古墳そのものの築造年代を記した公式のページは確かめられませんでした。

下調べによれば、築造は古墳時代中期の5世紀中葉から後半頃と推定されています。

この古墳には、時代が二つ重なっています。5世紀に築かれた墳丘の上に、室町時代になってから墓地が営まれました。1955年の調査では、後円部の墳頂下1.5メートル付近から五輪塔と火葬骨が散乱した状態で見つかり、この付近に後世の掘り返しの跡があったことが判明しています。

同じことは京都府の神明山古墳でも起きており、後円部の墳頂に平安時代後期の経塚が営まれていました。

三昧塚古墳の場所と行き方(観光情報)

出土品を見るなら、文化庁が記す保管施設が確かです。茨城県立歴史館(水戸市)と明治大学博物館(東京都千代田区)の二か所に分かれて保管されています。所有者は茨城県です。

同じ茨城県では、舟塚山古墳虎塚古墳が知られます。虎塚古墳は壁画のある古墳、舟塚山古墳は県内最大の前方後円墳です。三昧塚古墳は、出土品によって全国に知られた古墳といえます。

三昧塚古墳

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三昧塚古墳の住所:茨城県行方郡玉造町沖洲467-1ほか(発掘調査報告書に記された当時の表記)

交通:公式には確認できませんでした

駐車場:公式には確認できませんでした

料金:公式には確認できませんでした

内部見学:下調べでは、墳丘を復元したうえで三昧塚古墳農村公園として公開されているとされます。ただし立ち入りの範囲について、公式の記載は確認できませんでした

住所として確かめられたのは、発掘調査報告書に記された茨城県行方郡玉造町沖洲467-1ほかです。玉造町は、報告書が書かれた当時の町名にあたります。

いまの表記による住所と、行き方・駐車場・料金は、公式のページで確かめられませんでした。下調べによれば、霞ヶ浦北部の鎌田川流域の沖積低地上に築かれた古墳とされます。周辺の勅使塚古墳・権現山古墳・大日塚古墳が台地の上にあるのに対し、この古墳だけが低地にあるといいます。

三昧塚古墳の発見と調査の歩み

  1. 馬と樹木の飾りが立つ冠
  2. 土取り工事の前に掘られた
  3. 室町時代の墓が、同じ墳丘に重なる

馬と樹木の飾りが立つ冠

この古墳を全国に知らせたのは、石棺の中から出た一つの冠です。文化庁は、それを次のように評価しています。

金銅冠は馬形飾と樹木状飾の付く唯一の遺例であり、本体には心葉形の歩揺と花文、唐草文、動物文などの透彫が伴う

唯一の遺例という言葉が使われています。ほかに同じものがない、ということです。

心葉形の歩揺とは、ハート形をした小さな金の板で、揺れて光る飾りです。馬と樹木を立て、揺れる金の板を下げた冠が、5世紀の霞ヶ浦の岸に届いていたことになります。

重要文化財としての指定名称は「金銅馬形飾付透彫冠」です。文化庁は、金銅製の垂飾や大形の銅鏡、金銅製の馬具も学術上重要としています。

土取り工事の前に掘られた

この古墳が調べられたきっかけは、工事でした。

下調べによれば、1955年(昭和30年)の築堤工事にともなう土取りのため、緊急の発掘調査が行われました。そのとき主体部と副葬品が明らかにされたといいます。壊す直前の調査です。

古墳は大きく削られました。それでも、後円部の墳頂の下2.7メートルにあった組合式箱式石棺は掘り出され、金銅冠をはじめとする副葬品が記録されました。

工事がなければ調査もなく、冠が知られることもなかった。同じことは、桜塚古墳群の南天平塚古墳でも櫛山古墳でも起きています。1990年(平成2年)には町の指定史跡となり、その後、墳丘を復元する整備が行われました。

室町時代の墓が、同じ墳丘に重なる

1955年の発掘では、思いがけないものも見つかっています。後円部の墳頂下1.5メートル付近から、五輪塔と、その中に納められた火葬骨が散乱した状態で発見されました。

この付近には後世の土の混ぜ返しの跡があり、古墳の名からも、室町時代におそらく14世紀頃、墳丘を掘って中世の墓地が築かれていたと推測されています。

下調べによれば、同じような遺構は近隣の古墳でも見られるといいます。この地方の僧侶が布教の一環として、古墳に根付いた伝承を活用して一種の聖地化を行い、その上や周辺に埋葬施設を造営したのではないか、という提言が中世史の側から出されています。

ただし、発掘当時は中世の仏教遺跡への認識が確立しておらず、この古墳の中世の遺物は行方不明になったと伝えられます。

三昧塚古墳から出土したもの

文化庁は、茨城県三昧塚古墳出土品を一括して重要文化財に指定しています。内訳は金銅馬形飾付透彫冠1点、金属製品一括、砥石1点、玉7点、竪櫛残欠1点、石棺1組、附として鉄製品残欠一括・ガラス小玉残欠一括・埴輪残欠31点です。

所有者は茨城県で、保管施設は茨城県立歴史館と明治大学博物館の二か所に分かれています。指定は2018年10月31日、2024年8月27日に員数の訂正と追加指定が行われました。

金銅馬形飾付透彫冠

馬形飾と樹木状飾の付く唯一の遺例とされる冠。心葉形の歩揺と透彫の文様を伴う。

金銅製垂飾付耳飾

石棺の中から1対が出土。文化庁が学術上重要とする品のひとつ。

変形四神四獣鏡

石棺から出土した大形の銅鏡。ほかに乳文鏡も納められていた。

形象埴輪

人物埴輪のほか、鹿形・牛形・犬形の埴輪が墳丘外表で確認されている。

三昧塚古墳と関連する古墳

三昧塚古墳についてよくある質問

三昧塚古墳は誰の墓ですか。

わかっていません。文化庁の解説文は出土品の価値を記すのみです。下調べでは、霞ヶ浦を利用して治めた有力な首長と想定されています。

三昧塚古墳はどこにありますか。

発掘調査報告書は遺跡所在地を茨城県行方郡玉造町沖洲467-1ほかと記しています。玉造町は報告書が書かれた当時の町名で、現在の行方市にあたります。

三昧塚古墳の大きさはどれくらいですか。

公式の数字は確かめられませんでした。下調べでは墳丘長82.1メートル、後円部の直径46.5メートル・高さ8メートルとされます。

三昧塚古墳はいつ作られましたか。

文化庁は出土品の年代を5~6世紀としています。下調べでは、築造は古墳時代中期の5世紀中葉から後半頃と推定されています。

三昧塚古墳の出土品はどこで見られますか。

文化庁は保管施設を茨城県立歴史館と明治大学博物館としています。所有者は茨城県です。

三昧塚古墳と併せて覚えたい言葉・用語

金銅(こんどう)

銅の表面に金をかぶせたもの。冠や馬具などの飾りに用いられる。

歩揺(ほよう)

冠などに下げられた小さな金属の板。動くたびに揺れて光る。

箱式石棺(はこしきせっかん)

板石を組み合わせて箱形にした棺。三昧塚古墳のものは変質粘板岩9枚からなる。

透彫(すかしぼり)

地の板を切り抜いて文様をあらわす技法。金銅冠の装飾に用いられる。

三昧塚古墳の参考資料

この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。

  1. 文化庁
  2. 発掘調査報告書