墳丘長225メートル。応神天皇陵古墳の陪冢として宮内庁が管理する。
墓山古墳とはどんな古墳か
墓山古墳はひとことで言えば陪冢とされる巨大古墳です。大阪府羽曳野市白鳥にあり、古市古墳群の構成資産として世界文化遺産に含まれます。
文化庁は次のように記しています。
墓山古墳は、墳長225mの大型の前方後円墳であり、墳丘部は、応神天皇陵古墳の陪冢として宮内庁によって管理されている
225メートルは、堺市の全国の大きさ順の表で第22位にあたります。ふつうなら地域を代表する古墳の規模です。
ところがこの古墳は、425メートルの応神天皇陵古墳の「陪冢」として扱われています。陪冢とは、大きな古墳に付き従うように造られた小さな古墳のことです。
被葬者はわかっていません。宮内庁の治定もありません。
墓山古墳の読み方と別名
読みは「はかやまこふん」です。「墓の山」という、そのままの名です。
古墳の名には、地名に由来するもの(誉田御廟山古墳)、形に由来するもの(石舞台古墳、チブサン古墳)、伝承に由来するもの(今城塚古墳)があります。「墓山」は、そこが墓であることを土地の人が知っていた、という素朴な名です。
同じ古市古墳群には向墓山古墳(むこうはかやまこふん、方墳68メートル)もあります。墓山古墳の向かいにあることによる名です。
墓山古墳(はかやまこふん)
文化庁・世界遺産の公式サイトが用いる名。
墓山古墳は誰の墓か
墓山古墳の被葬者はわかっていません。宮内庁の治定もありません。
ただし、この古墳の墳丘部は応神天皇陵古墳の陪冢として宮内庁が管理しています。文化庁の解説がそう記しています。
陪冢とは、大きな古墳に付き従うように造られた小さな古墳のことです。ふつうは数十メートル級を指します。225メートルの前方後円墳が陪冢とされるのは、異例です。
この扱いが意味するのは、次のことです。この古墳は、応神天皇陵古墳に葬られた人物に仕えた誰かの墓であると、幕末から明治にかけての治定作業のなかで判断された、ということです。
しかし、その判断が正しいかどうかは確かめられていません。応神天皇陵古墳の被葬者自体が確定していないのですから、その従者が誰かはなおさらわかりません。
出土品についても、公式の記載を確かめられませんでした。
学術的な状況:わかっていない
被葬者個人は明らかになっていない。
宮内庁の管理区分:応神天皇陵古墳の陪冢
墳丘部は応神天皇陵古墳の陪冢として宮内庁が管理している。
墓山古墳の大きさと形
文化庁は「墳長225mの大型の前方後円墳」としています。堺市の全国の大きさ順の表でも「22 墓山古墳 世界文化遺産 構成資産 225 大阪府羽曳野市白鳥」と記載されています。
世界遺産の公式サイトの古市エリアの一覧でも、墳丘の長さは225メートル、墳丘の形は前方後円墳、備考は国史跡です。
古市古墳群のなかでは、応神天皇陵古墳425メートル、仲姫命陵古墳290メートル、仲哀天皇陵古墳245メートル、允恭天皇陵古墳230メートルに次ぐ5番目の規模になります。
後円部の径・高さ・前方部の幅については、公式の記載を確かめられませんでした。
墳丘長:225メートル
全国での順位:第22位(225メートル)
墳丘の形:前方後円墳
向墓山古墳(近くの方墳):方墳・68メートル
墓山古墳はいつ作られたか
この古墳そのものの築造年を、西暦で示した公式の記載は確かめられませんでした。
文化庁は、史跡「古市古墳群」全体の時代を4世紀後半から6世紀中葉としています。墓山古墳はこの範囲のうち、5世紀にあたると考えられています。
応神天皇陵古墳の陪冢として位置づけられていることから、その古墳と近い時期に造られたと見るのが自然です。
古市古墳群は北から南へと築かれていったと考えられており、津堂城山古墳(210メートル)が最初期にあたります。墓山古墳は群の南寄り、羽曳野市白鳥にあります。
墓山古墳の場所と行き方(観光情報)
古市古墳群の南寄りにあります。近くには向墓山古墳(方墳68メートル)、野中古墳(方墳37メートル)、西馬塚古墳(方墳45メートル)、浄元寺山古墳(方墳67メートル)が並びます。
大きな前方後円墳のまわりを、方墳が取り囲むという配置です。
墓山古墳
墓山古墳の住所:大阪府羽曳野市白鳥
交通:公式に確認できませんでした
駐車場:公式に確認できませんでした
料金:外から見るのは無料
内部見学:墳丘部は宮内庁が陪冢として管理しているため、立ち入りについて公式の記載を確かめられませんでした
所在地は堺市の全国の大きさ順の表に記された羽曳野市白鳥です。文化庁の史跡「古市古墳群」の所在地一覧にも羽曳野市白鳥が含まれます。
行き方・駐車場・立ち入りの可否については、公式の記載を確かめられませんでした。訪ねる前に羽曳野市へご確認ください。
墓山古墳の発見と調査の歩み
225メートルが「陪冢」と呼ばれる
文化庁の一文が、この古墳のすべてを言い表しています。
墓山古墳は、墳長225mの大型の前方後円墳であり、墳丘部は、応神天皇陵古墳の陪冢として宮内庁によって管理されている
225メートルは、全国の大きさ順で第22位です。奈良県で最大級の巣山古墳(220メートル)や、群馬県最大の太田天神山古墳(210メートル)より大きい規模です。
それが「陪冢」と呼ばれます。425メートルの応神天皇陵古墳の前では、従者という位置づけになります。
陪冢という語は、宮内庁が管理のために用いる区分です。学術的に「この人はあの人の家来だった」と証明されたわけではありません。
呼び方が、古墳の見え方を決めてしまう例です。
方墳に取り囲まれている
墓山古墳の周りには、方墳が並んでいます。
世界遺産の公式サイトの古市エリアの一覧を見ると、墓山古墳(前方後円墳225メートル)の前後に、野中古墳(方墳37メートル)、向墓山古墳(方墳68メートル)、西馬塚古墳(方墳45メートル)、浄元寺山古墳(方墳67メートル)が続きます。
古市古墳群は方墳が多いことが特徴です。百舌鳥古墳群では26メートル級だった方墳が、ここでは50メートルから68メートルに達します。
大きな前方後円墳と、それを囲む方墳。この組み合わせが、古市古墳群の景色を作っています。
墓山古墳自身が応神天皇陵古墳の陪冢とされ、その墓山古墳をさらに方墳が囲む。入れ子のような序列になっています。
世界遺産に、国史跡として
墓山古墳は、2019年に世界文化遺産「百舌鳥・古市古墳群」の構成資産となりました。
扱いは少し複雑です。世界遺産の公式サイトの一覧では、備考が「国史跡」となっています。いっぽう文化庁は、墳丘部が宮内庁の陪冢として管理されていると記します。
つまり、国史跡でありながら、墳丘は宮内庁の管理下にあるという状態です。
同じことは古市古墳群の応神天皇陵古墳にも起きています。あちらは墳丘が陵墓、外濠外堤の一部が国史跡です。
どこまでが誰の管理か。古墳を訪ねるとき、この境目が見学できる範囲を決めます。
墓山古墳から出土したもの
この古墳の出土品について、公式の記載を確かめられませんでした。
墳丘部が応神天皇陵古墳の陪冢として宮内庁の管理下にあるためです。
確かめられませんでした
墳丘部が宮内庁の管理下にあり、具体的な出土品について公式の記載を確かめられませんでした。
墓山古墳と関連する古墳
墓山古墳についてよくある質問
墓山古墳は誰の墓ですか。
わかっていません。宮内庁の治定もありません。墳丘部が応神天皇陵古墳の陪冢として管理されていますが、それは幕末から明治にかけての治定作業による区分であり、被葬者個人は明らかになっていません。
墓山古墳の大きさはどれくらいですか。
文化庁は墳丘長225メートルとしています。堺市の全国の大きさ順の表では第22位です。
陪冢とは何ですか。
大きな古墳に付き従うように造られた小さな古墳のことです。ふつうは数十メートル級を指しますが、墓山古墳は225メートルありながら応神天皇陵古墳の陪冢とされています。
墓山古墳はどこにありますか。
大阪府羽曳野市白鳥です。古市古墳群の南寄りにあり、世界文化遺産の構成資産です。
墓山古墳は世界遺産ですか。
そうです。2019年に登録された世界文化遺産「百舌鳥・古市古墳群」の構成資産のひとつです。
墓山古墳と併せて覚えたい言葉・用語
陪冢(ばいちょう)
大きな古墳に付き従うように造られた小さな古墳。宮内庁が管理の区分として用いる。
国史跡(くにしせき)
文化財保護法にもとづき国が指定した史跡。
方墳(ほうふん)
四角い形の古墳。古市古墳群には大型の方墳が多い。
構成資産(こうせいしさん)
ひとつの世界遺産を構成する個々の物件のこと。
墓山古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。