古市古墳群で最初に築かれた、水鳥形埴輪で知られる前方後円墳。
津堂城山古墳とはどんな古墳か
大阪府藤井寺市にある前方後円墳です。藤井寺市は「羽曳野丘陵の最北端に位置し、古市古墳群の中では初期に築造された大型前方後円墳で、墳丘長は208メートルを測ります」と書いています。堺市の全国の一覧でも約208メートルで第31位、世界文化遺産の構成資産とされています。
前方部を南西に向け、墳丘は三段築成で、くびれ部の両側に方壇状の造出しを備えます。周囲には二重の濠と堤をめぐらせていることが、発掘調査によって確認されています。
1912年に後円部の頂から竪穴式石槨と長持形石棺が見つかり、鏡や巴形銅器、勾玉、短甲などが出土しました。1983年の調査では、内濠の中の方墳状の施設から3基の水鳥形埴輪が見つかっています。室町時代には「小山城」が築かれ、墳丘は削られました。
津堂城山古墳の読み方と別名
読みは「つどうしろやまこふん」です。「つどう」は所在地の津堂という地名から来ています。
「城山」の名は、室町時代にこの古墳を利用して小山城が築かれたことによります。古墳の名前の半分は、後の時代の出来事から付いたものです。
文化庁のデータベースでは、指定の名は「城山古墳」です。水鳥の埴輪の欄にも「大阪府城山古墳出土」と記されています。同じ古墳に、二つの呼び方があります。岡ミサンザイ古墳も中世に城として使われましたが、そちらは名前に城が残りませんでした。
津堂城山古墳(つどうしろやまこふん)
藤井寺市が用いる呼び方。所在地の津堂と、城が築かれた山という意味を合わせた名。
城山古墳(しろやまこふん)
国の史跡としての名。文化庁の重要文化財の欄も「大阪府城山古墳出土」と記す。
藤井寺陵墓参考地(ふじいでらりょうぼさんこうち)
宮内庁が管理する区分としての名。被葬候補者は第19代允恭天皇とされている。
津堂城山古墳は誰の墓か
この古墳に葬られた人が誰かは、わかっていません。
1912年、神社に建てる石碑の材料にするため後円部から石板を掘り出したところ、竪穴式石槨と巨大な長持形石棺が現れ、多くの副葬品が出土しました。これをきっかけに、宮内庁は「藤井寺陵墓参考地」に治定します。被葬候補者は第19代允恭天皇とされています。
ただし、允恭天皇の陵として治定されているのは、同じ藤井寺市の市野山古墳のほうです。陵墓参考地の候補者と、治定された陵とが別々にある形です。
研究の側では、仲哀天皇を挙げる説、ヤマトタケルの墓の一つとみる説、応神天皇の妃の父とされる品陀真若王を挙げる説などがあります。決め手はありません。
断定できない:わかっていない
藤井寺市の説明は墳丘と出土品にとどまり、被葬者にはふれていない。
宮内庁は別の古墳を允恭天皇陵に治定:第19代允恭天皇
堺市の一覧には允恭天皇陵古墳(市野山古墳)が藤井寺市国府にあると載る。この古墳ではない。
陵墓とは別の枠組み:国の史跡としての扱い
史跡「古市古墳群」に含まれ、所在地の欄にも藤井寺市津堂の名がある。
津堂城山古墳の大きさと形
藤井寺市は、墳丘長を208メートルとしています。表の欄には210メートルと書かれており、二つの数字が並びます。堺市の全国の一覧では約208メートルで第31位です。
外側の濠まで含めると、古墳の全長は400メートルを超えるとされます。墳丘だけの数字と、全体の数字では、これほど違います。
1980年と1983年の発掘調査で、造り出しや二重の濠と堤の存在が確認されました。1983年に東側の内濠で見つかった方墳状の施設は、一辺17メートル、高さ1.5メートルを測り、斜面の上部に3基の水鳥形埴輪が並んでいました。
墳丘長(本文):208メートル
墳丘長(表の欄):210メートル
全国での順位:第31位(約208メートル)
津堂城山古墳はいつ作られたか
津堂城山古墳の場所と行き方(観光情報)
同じ藤井寺市には、岡ミサンザイ古墳、古室山古墳、市野山古墳があります。この古墳は群の北のはずれに立ちます。出土した水鳥形埴輪は藤井寺市が保管しており、鰭付円筒埴輪などは大阪府立近つ飛鳥博物館で展示されています。
津堂城山古墳(城山古墳)
津堂城山古墳(城山古墳)の住所:大阪府藤井寺市津堂
交通:公式には確認できませんでした
駐車場:公式には確認できませんでした
料金:公式には確認できませんでした
内部見学:後円部の墳頂は宮内庁が陵墓参考地として管理しており、金網で囲まれて立ち入ることができません。それ以外は国の史跡です。墳丘への立ち入りの可否について、公式ページでの記載は確認できませんでした。
文化庁は、史跡「古市古墳群」の所在地に藤井寺市津堂を挙げています。堺市の一覧も大阪府藤井寺市津堂としています。
この古墳は、古市古墳群の中でも変わった立場にあります。後円部の頂だけが宮内庁の管理下にあり、そのまわりは国の史跡です。一つの古墳が、二つの制度に分かれています。同じ形は五条野丸山古墳でも見られます。周濠の一部は花しょうぶ園として整えられています。
津堂城山古墳の発見と調査の歩み
石碑の材料を探して、石棺に当たった
1912年、地元の神社に建てる石碑の材料にするため、人々が後円部の墳丘から石板を掘り出しました。そこから竪穴式石槨と巨大な長持形石棺が現れます。
藤井寺市は、石棺の蓋石に亀甲文が刻まれていたこと、石棺の内外から鏡や巴形銅器などの銅製品、硬玉製勾玉や石製腕飾類、素環頭刀身や三角板革綴式短甲などの鉄製品が出土したことを記しています。
この偶然の発見によって、明治の治定作業では選ばれなかったこの古墳が、あらためて陵墓参考地とされました。掘り出した石板は、後円部の北側にある神社の石碑になりました。竪穴式石槨の天井の一部だとされています。
濠の中に立っていた三羽の水鳥
1983年、東側の内濠で発掘調査が行われ、一辺17メートル、高さ1.5メートルの方墳状の施設が見つかりました。濠の中に、島のように築かれた壇です。
その斜面の上部に、3基の水鳥形埴輪が並んでいました。文化庁は、この埴輪について次のように説明しています。
三箇とも円筒台の上に水鳥の姿を表している。丸味を帯びた卵形の体部と細長く直立した頸部をもち、頭部には目、鼻と断面三角形の嘴が表現されている
翼と尾羽は板状で、足の指まで作られています。文化庁は、この水鳥がガンカモ科をモデルにしているといわれる、としています。2006年に国の重要文化財に指定され、藤井寺市が所有しています。
古墳の年代を、どうやって決めるのか
藤井寺市は、古墳の実年代をどう考えるかについて説明しています。手がかりは二つです。
一つは、埼玉県の稲荷山古墳から出た鉄剣です。471年とされる辛亥年の銘があり、同じ古墳の須恵器の型式に年代を与えられます。もう一つは年輪年代法です。奈良県平城宮の下層の溝から出た木製品が、412年に伐採した木で作られていたとわかりました。
この二点を定点として、須恵器と円筒埴輪の型式に年代を割り振ると、巨大古墳が造られたおおよその年代が浮かび上がります。藤井寺市はそう書いています。この古墳の4世紀後半という年代も、その積み重ねの上にあります。
津堂城山古墳から出土したもの
この古墳は、陵墓参考地でありながら出土品がよくわかっているという、めずらしい立場にあります。
1912年の偶然の発見と、その後の自治体による発掘調査があったためです。五社神古墳や西殿塚古墳のように丸ごと閉じられていれば、こうはいきませんでした。円筒埴輪のほか、家・蓋・衝立・盾などの形象埴輪も出土しています。
水鳥形埴輪 3基
内濠の方墳状の施設から出土。国の重要文化財で、藤井寺市が所有・保管する。
長持形石棺
後円部の竪穴式石槨から発見。蓋石に亀甲文が刻まれていた。
鏡・巴形銅器
石棺の内外から出土した銅製品。
三角板革綴式短甲
鉄の板をとじ合わせた鎧。石棺のあたりから出土。
津堂城山古墳と関連する古墳
津堂城山古墳についてよくある質問
津堂城山古墳は誰の墓ですか。
わかっていません。宮内庁は允恭天皇を被葬候補者とする陵墓参考地としていますが、允恭天皇の陵として治定されているのは同じ藤井寺市の市野山古墳のほうです。
津堂城山古墳はどこにありますか。
文化庁は史跡「古市古墳群」の所在地に藤井寺市津堂を挙げています。羽曳野丘陵の最北端、大和川に近い場所にあります。行き方は公式には確認できませんでした。
津堂城山古墳の大きさはどれくらいですか。
藤井寺市は本文で208メートル、表の欄で210メートルとしています。堺市の全国の一覧では約208メートルで第31位です。外側の濠まで含めると400メートルを超えるとされます。
津堂城山古墳はいつ作られましたか。
藤井寺市は、埴輪や石棺および副葬品の特徴から4世紀後半としています。古市古墳群の中ではいちばん古く、誉田御廟山古墳よりも先に築かれました。
津堂城山古墳の中に入れますか。
後円部の墳頂は宮内庁が陵墓参考地として管理しており、金網で囲まれていて立ち入れません。それ以外は国の史跡ですが、立ち入りの可否は公式には確認できませんでした。
津堂城山古墳と併せて覚えたい言葉・用語
長持形石棺(ながもちがたせっかん)
長方形の箱の形をした石の棺。中期の大王級の古墳に用いられた。
竪穴式石槨(たてあなしきせっかく)
上から棺を納めて石で覆う埋葬施設。前期から中期の古墳に多い。
水鳥形埴輪(みずどりがたはにわ)
水鳥をかたどった形象埴輪。この古墳のものは国の重要文化財。
年輪年代法(ねんりんねんだいほう)
木の年輪の幅を照らし合わせ、伐採した年を割り出す方法。
津堂城山古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。