一辺33メートルの方墳。今は消えているが、陪塚の常識を覆した古墳。
岡古墳とはどんな古墳か
岡古墳はひとことで言えばもう無い古墳です。大阪府藤井寺市にあり、古市古墳群を構成した1基でしたが、開発のために墳丘は失われました。
藤井寺市は過去形でこう書いています。
岡古墳という一辺33メートルの方墳がありました
現地に行っても、見るものは残っていません。それでもこの古墳が語られるのは、調べてわかったことが大きかったからです。
すぐ西の岡ミサンザイ古墳は墳丘の長さ242メートルの大形の前方後円墳で、5世紀末から6世紀の初めに造られたと考えられています。対して岡古墳は4世紀末から5世紀初め。1世紀も前でした。
藤井寺市は、この結果から岡古墳と割塚古墳を「陪塚として造られたものではない」と結論づけています。大きな古墳のそばの小さな古墳を、一律に従者の墓とみなすことはできない。それを示した古墳です。
岡古墳の読み方と別名
読みは「おかこふん」です。
まぎらわしいのは、近くに名前の似た古墳がいくつもあることです。岡ミサンザイ古墳は墳丘の長さ242メートルの前方後円墳、割塚古墳は一辺30メートルの方墳で、こちらは今も残っています。
岡古墳と割塚古墳は、かつてまとめて「割塚」と呼ばれ、岡古墳が北の割塚、割塚古墳が南の割塚とされていました。
このほか周辺には、鉢塚古墳(墳丘の長さ60メートルの前方後円墳)や落塚古墳(径20メートルの円墳)があります。
岡古墳(おかこふん)
藤井寺市が用いる名。所在地の地名から来ている。
北の割塚(きたのわりづか)
かつて南西の割塚古墳とともに「割塚」と総称され、こちらは北の割塚と呼ばれた。
割塚古墳(わりづかこふん)
岡古墳とは別の古墳。一辺30メートルの方墳で、こちらは現存する。
岡古墳は誰の墓か
岡古墳の被葬者はわかっていません。宮内庁の治定もありません。墳丘そのものが失われているため、今後わかる見込みも高くありません。
それでも、この古墳についてはわからないことがはっきりしたという言い方ができます。藤井寺市はこう書いています。
これに対して、割塚古墳と岡古墳は周辺に同時期の前方後円墳が存在せず、陪塚として造られたものではないのです
陪塚とは、大きな古墳のそばに造られた小さな古墳で、その主に仕えた人の墓や副葬品を納めた施設と考えられてきました。岡古墳も長らく岡ミサンザイ古墳の陪塚と想定されていましたが、それより1世紀も前の古墳だと判明したのです。
主より前に造られた墓が、主の従者の墓であるはずがありません。ただし藤井寺市は、方墳という墳形から、前方後円墳を頂点とした身分の枠組みに組み込まれていたことは想定できる、とも述べています。
公式の説明:わかっていない
被葬者を比定する記載はない。陪塚として造られたものではない、とする。
岡古墳の大きさと形
藤井寺市は、岡古墳を一辺33メートルの方墳としています。方墳とは、上から見て四角い形の古墳のことです。
周辺の古墳と並べると、大きさの関係がよくわかります。西の岡ミサンザイ古墳は墳丘の長さ242メートルの大形の前方後円墳。その北側約100メートルには鉢塚古墳(墳丘の長さ60メートルの前方後円墳)、東側約50メートルには割塚古墳(一辺30メートルの方墳)があります。
岡古墳の33メートルは、割塚古墳の30メートルとほぼ同じ大きさです。この二基が同じ時期に造られた、よく似た方墳だったことがわかります。
古市古墳群には、墓山古墳のような200メートル級の前方後円墳から、こうした30メートル級の方墳までが含まれます。
一辺:33メートル
割塚古墳の一辺:30メートル(くらべるための数字)
岡ミサンザイ古墳の墳丘の長さ:242メートル
岡古墳はいつ作られたか
岡古墳の場所と行き方(観光情報)
岡古墳そのものは訪ねられませんが、古市古墳群の中を歩けば、この古墳が置かれていた関係は見えてきます。
岡ミサンザイ古墳のまわりには、鉢塚古墳と割塚古墳が残っています。割塚古墳は岡古墳とほぼ同じ大きさ・同じ時期の方墳ですから、失われた岡古墳の姿を想像する手がかりになります。
藤井寺市は、現在の鉢塚古墳と割塚古墳を「住宅地の中にひっそりとたたずんでいます」と書いています。
岡古墳(跡地)
岡古墳(跡地)の住所:大阪府藤井寺市
交通:公式に確認できませんでした
駐車場:公式に確認できませんでした
料金:公式に確認できませんでした
内部見学:墳丘は失われており、現地に見るものは残っていない
藤井寺市は、岡古墳を「開発などのために消滅してしまいました」と過去形で記しています。墳丘が無い以上、行き方も駐車場も料金もありません。
手がかりになるのは周辺の古墳です。岡ミサンザイ古墳は藤井寺市の南西部、藤井寺4丁目の住宅地の中にあり、その北側約100メートルに鉢塚古墳、東側約50メートルに割塚古墳が残っています。どちらも国の史跡です。
岡古墳の発見と調査の歩み
陪塚ではなかった
大きな古墳のまわりに小さな古墳が並んでいれば、それは主に仕えた人の墓だろう。長いあいだ、そう考えられてきました。陪塚という言葉がそれを表しています。
藤井寺市は、この考え方に釘を刺します。
岡ミサンザイ古墳と同時期に造られた鉢塚古墳と落塚古墳は、同古墳の陪塚として理解できます
これに対して、割塚古墳と岡古墳は周辺に同時期の前方後円墳が存在せず、陪塚として造られたものではないのです
同じ場所にある。しかし時期が違う。岡古墳は4世紀末から5世紀初め、岡ミサンザイ古墳は5世紀末から6世紀の初めです。
位置だけを見て関係を決めてはいけない。古市古墳群の墓山古墳のまわりにも小さな古墳が並びますが、それぞれ時期を確かめない限り、関係は語れません。
墳丘が無い古墳を、なぜ載せるのか
この図鑑に載る古墳のほとんどは、今も土の山として残っています。岡古墳は違います。墳丘は失われています。
藤井寺市は、この古墳を「開発などのために消滅してしまいました」と記しています。失われる前に調べて記録に残すことを、記録保存といいます。
土の山は無くなりましたが、そこから得られた知見は残りました。むしろ、掘ったからこそ築造時期がわかり、陪塚ではないという結論が出せたのです。
手つかずのまま残る古墳と、掘られて消えた古墳。どちらが多くを語るかは、一概には言えません。大仙陵古墳は日本最大でありながら、発掘されていないため中身がわかりません。岡古墳は小さく、消えましたが、造られた時期がはっきりしています。
方墳という選択
岡古墳は方墳でした。上から見て四角い古墳です。すぐ東の割塚古墳も方墳で、一辺30メートル。二基はよく似ています。
古市古墳群の中心にあるのは前方後円墳です。誉田御廟山古墳も墓山古墳も岡ミサンザイ古墳も、すべて鍵穴の形をしています。その中で、なぜ四角を選んだのか。
藤井寺市はこう説明しています。
方墳という墳形からも分かるように、前方後円墳を頂点とした、墳丘の形によって表現された身分の枠組みに組み込まれていたということは想定できます
形が身分を表していた。前方後円墳がいちばん上にあり、方墳や円墳はその下に置かれる。そういう順序があったとみられています。
同じ組の大安場古墳(福島県郡山市)は前方後方墳です。同じ四角でも、置かれた文脈はまるで違います。
岡古墳から出土したもの
上に挙げた出土品は、発掘調査の記録として伝わるものです。藤井寺市の公式ページでは、一つずつ確かめられませんでした。
藤井寺市が公表しているのは、岡古墳の規模・墳形・築造時期と、陪塚ではないという判断です。墳丘が失われている以上、これ以上の発掘によって情報が増えることはありません。
銅鏡
棺の中に納められていたと伝えられる。藤井寺市の指定文化財になったとされる。
船形埴輪
大型の品と伝えられる。藤井寺市の施設のモチーフに採られたともいわれる。
円筒埴輪
墳丘に並べられていたと伝えられる。中段のテラスと墳頂の平坦面で確認されたという。
形象埴輪
家形・盾形・靫形・蓋形など。人や物の形をかたどった埴輪と伝えられる。
岡古墳と関連する古墳
岡古墳についてよくある質問
岡古墳は誰の墓ですか。
わかっていません。宮内庁の治定もありません。墳丘が失われているため、今後わかる見込みも高くありません。
岡古墳はどこにありますか。
大阪府藤井寺市にありました。開発のために消滅しており、現地に見るものは残っていません。岡ミサンザイ古墳の東側の段丘の縁にあたります。
岡古墳の大きさはどれくらいでしたか。
藤井寺市は一辺33メートルの方墳としています。東側約50メートルにある割塚古墳(一辺30メートル)とほぼ同じ大きさです。
岡古墳はいつ作られましたか。
藤井寺市は4世紀末から5世紀初めとしています。そばの岡ミサンザイ古墳(5世紀末から6世紀の初め)より1世紀も前です。
岡古墳は陪塚ですか。
違います。藤井寺市は、割塚古墳と岡古墳は周辺に同時期の前方後円墳が存在せず、陪塚として造られたものではないとしています。
岡古墳と併せて覚えたい言葉・用語
方墳(ほうふん)
上から見て四角い形の古墳。前方後円墳より下に位置づけられたとみられる。
陪塚(ばいちょう)
大きな古墳のそばの小さな古墳。従者の墓や副葬品を納めた施設とされてきた。
記録保存(きろくほぞん)
遺跡が失われる前に調査し、記録として残すこと。開発にともなって行われる。
古市古墳群(ふるいちこふんぐん)
大阪府南部に広がる古墳群。百舌鳥古墳群とともに世界文化遺産になっている。
岡古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。