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大阪府

峯ヶ塚古墳とはどんな古墳か|誰の墓か・場所

峯ヶ塚古墳  / ミネガヅカコフン

前方後円墳 5世紀

古市古墳群で、内部が発掘された数少ない前方後円墳。

峯ヶ塚古墳とはどんな古墳か

峯ヶ塚古墳はひとことで言えば古市古墳群のなかで中が調べられた、珍しい前方後円墳です。大阪府羽曳野市軽里2丁目にあり、世界文化遺産「百舌鳥・古市古墳群」の構成資産の一つになっています。

羽曳野市は次のように書いています。

古市古墳群の中では内部施設が発掘調査されている数少ない前方後円墳です

平成3年の発掘調査で、後円部の墳頂付近から石室が新たに確認されました。盗掘を受けていたにもかかわらず、残っていた副葬品の総数は3,500点以上に及びます。

峯ヶ塚古墳の読み方と別名

読みは「みねがづかこふん」です。「峯」と「峰」は同じ字の書き分けで、古墳の名には峯、公園の名には峰が使われます。

江戸時代には、この古墳が日本武尊の白鳥陵に当てられていた時期があります。いまその名は、同じ羽曳野市の別の古墳が受け継いでいます。古市古墳群では、江戸から明治にかけて呼び名が入れ替わった古墳が少なくありません。

峯ヶ塚古墳(みねがづかこふん)

羽曳野市と文化庁が用いる名。文化庁の登録では「ふりがな みねがづかこふん」と示されている。

峰塚公園(みねづかこうえん)

この古墳を含む一帯の公園の名。古墳の名とは字が違う。

峯ヶ塚古墳は誰の墓か

峯ヶ塚古墳の被葬者はわかっていません。宮内庁の治定もなく、国の史跡として羽曳野市が扱っています。

総数は3,500点以上。しかも、これは盗掘を受けたあとに残っていた分です。

金銅の冠をかぶり、銀の飾りを下げていた人物が葬られていたことになります。

5世紀末という時期に96メートルの前方後円墳を築き、二重の濠をめぐらせるだけの力を持った人物、ということになります。ただし、その名を示す資料は出ていません。

公式の説明:わかっていない

副葬品と埴輪の特徴から時期を述べるにとどまり、人物を比定する記載はない。

断定できない:古市古墳群を築いた勢力の一人

古墳時代中期を代表する古墳群として、政治構造や社会状況を考えるうえで重要とする。

峯ヶ塚古墳の大きさと形

羽曳野市は、この古墳の規模をこうまとめています。

墳丘は96メートルで二段に築かれており、外部施設としては南側以外は二重濠を有し、墓域は東西168メートル、南北148メートルを測ります

墳丘そのものは96メートルですが、二重の濠と堤を含めた墓域は東西168メートルに達します。つまり、土を盛った部分の1.7倍ほどの土地が、この一基のために確保されていました。

同じ古市古墳群のなかでは、墓山古墳が墳長225メートル、古室山古墳が150メートルです。96メートルの峯ヶ塚古墳は、それらより一回り小さくなります。

墳丘の長さ:96メートル

墓域の東西:168メートル

墓域の南北:148メートル

墳丘の段:二段築成

発掘調査の回数:12回

出土した副葬品の総数:3,500点以上

峯ヶ塚古墳はいつ作られたか

羽曳野市は「この古墳は、副葬品や出土した埴輪の特徴から5世紀末頃に築かれたと考えられます」としています。

文化庁は、史跡「古市古墳群」全体の時代を4世紀後半から6世紀中葉としています。峯ヶ塚古墳は、そのなかでは終わりに近い時期にあたります。

古市古墳群では、4世紀末から5世紀初頭に古室山古墳が築かれ、そのあとに墓山古墳誉田御廟山古墳が続きました。峯ヶ塚古墳は、巨大古墳の時代が終わりかけたころの一基です。

峯ヶ塚古墳の場所と行き方(観光情報)

峯ヶ塚古墳のまわりには、二重の濠のあとが地形として残っています。墓域は東西168メートル、南北148メートルですから、外側を一周すると600メートル近く歩くことになります。

同じ羽曳野市には、誉田御廟山古墳(応神天皇陵古墳)や墓山古墳があり、藤井寺市には古室山古墳があります。古市古墳群は市境をまたいで広がっているため、歩く順番はあらかじめ決めておいてください。

峯ヶ塚古墳

地図で開く

峯ヶ塚古墳の住所:羽曳野市軽里2丁目

交通:公式に確認できませんでした

駐車場:公式に確認できませんでした

料金:公式に確認できませんでした

内部見学:公式に確認できませんでした

羽曳野市は所在地を「羽曳野市軽里2丁目」としています。ページの更新日は2024年1月19日です。

最寄りの駅、バス停、駐車場、見学できる時間、料金については、公式の記載を確かめられませんでした。推測で埋めることはしません。

この古墳は世界文化遺産「百舌鳥・古市古墳群」の構成資産です。文化庁の登録では、いたすけ古墳御廟山古墳墓山古墳古室山古墳などとともに一覧に並んでいます。

峯ヶ塚古墳の発見と調査の歩み

  1. 盗まれたあとに、3,500点が残っていた
  2. 古墳が縮み始めた時代に、二重の濠を掘った
  3. 12回の調査で組み立てられた姿

盗まれたあとに、3,500点が残っていた

峯ヶ塚古墳の後円部にある石室は、平成3年の発掘調査で新たに確認されました。すでに盗掘を受けていました。それでも、残っていた品の数は3,500点を超えます。

羽曳野市が挙げているのは、銀や鹿角製の装飾品を付けた大刀、武器、武具、馬具、そして金銅製の冠帽、帯金具、魚佩、銀製の垂飾りや花形飾り、ガラス玉、石製玉類です。

盗掘を受けたあとで3,500点。もとの副葬品がどれほどの量だったかは、想像するほかありません。

古市古墳群では、内部施設が調べられた前方後円墳そのものが少数です。この古墳から出た品は、5世紀末の副葬品の基準として使われています。

古墳が縮み始めた時代に、二重の濠を掘った

古墳時代の後期に入ると、古墳は全体に小さくなっていきます。前方後円墳を築くこと自体がやがて止まります。

その流れのなかで、峯ヶ塚古墳は二重の濠を掘りました。羽曳野市は「外部施設としては南側以外は二重濠を有し、墓域は東西168メートル、南北148メートルを測ります」としています。

墳丘は96メートルです。それに対して墓域は東西168メートル。墳丘より、外の仕掛けのほうが目立つ古墳です。

二重濠は掘る土の量が二倍になり、内堤を築く手間も加わります。5世紀末に、それだけの人手を動かせる人物がこの地にいたことになります。同じ古市古墳群の墓山古墳は墳長225メートルですが、峯ヶ塚古墳はその半分に満たない大きさで、外の構えだけを大きくとりました。

12回の調査で組み立てられた姿

羽曳野市は「古墳の復元整備に伴う12回の発掘調査で多くの成果を上げました」としています。

宮内庁が管理する陵墓は、墳丘の内部を調べられません。古市古墳群でも、誉田御廟山古墳をはじめ多くが陵墓です。そのなかで、峯ヶ塚古墳は掘ることが許された数少ない前方後円墳でした。

墳丘の段、二重濠の位置、墓域の広がり、後円部の石室。これらはすべて、12回の調査を積み重ねて得られたものです。世界文化遺産の構成資産としての価値も、その上に立っています。

峯ヶ塚古墳から出土したもの

副葬品の総数は3,500点以上です。武器・武具・馬具といった軍事の品と、冠帽・帯金具・魚佩といった飾りの品が、同じ石室から一緒に出ています。年代を決めたのは、大きさではなく品物のほうでした。

装飾付きの大刀

銀や鹿角製などの装飾品を付けた大刀。石室内での出土状況が写真で示されている。

金銅製の冠帽・帯金具

銅に金をかぶせた冠と、帯を留める金具。身につける飾りとして納められていた。

魚佩

魚の形をした飾り。金銅製の装飾品の一つとして挙げられている。

銀製の垂飾り・花形飾り

銀で作られた下げ飾りと花の形の飾り。三叉の垂れ飾りが知られている。

峯ヶ塚古墳と関連する古墳

峯ヶ塚古墳についてよくある質問

峯ヶ塚古墳は誰の墓ですか。

わかっていません。宮内庁の治定もありません。金銅製の冠帽や帯金具、魚佩などが出ていることから位の高い人物と考えられますが、羽曳野市は人物を比定していません。

峯ヶ塚古墳の大きさはどれくらいですか。

羽曳野市は墳丘を96メートル、二段築成としています。南側以外は二重濠を備え、墓域は東西168メートル、南北148メートルを測ります。

峯ヶ塚古墳はどこにありますか。

大阪府羽曳野市軽里2丁目です。世界文化遺産「百舌鳥・古市古墳群」の構成資産の一つで、国の史跡「古市古墳群」に含まれます。

峯ヶ塚古墳はいつ作られましたか。

羽曳野市は、副葬品や出土した埴輪の特徴から5世紀末頃としています。古市古墳群全体の時代は、文化庁が4世紀後半から6世紀中葉としています。

峯ヶ塚古墳から何が出ましたか。

装飾を付けた大刀、武器、武具、馬具、金銅製の冠帽や帯金具、魚佩、銀製の垂飾りや花形飾り、ガラス玉、石製玉類などです。総数は3,500点以上に及びます。

峯ヶ塚古墳と併せて覚えたい言葉・用語

二重濠(にじゅうごう)

墳丘の周りに濠を二重にめぐらせたつくり。内堤を挟んで内濠と外濠が並ぶ。

金銅(こんどう)

銅の表面に金をかぶせたもの。冠帽や帯金具などの飾りに使われた。

魚佩(ぎょはい)

魚の形をした下げ飾り。腰に下げたとみられる装飾品。

墓域(ぼいき)

墳丘だけでなく、濠や堤まで含めた古墳全体の広がり。

峯ヶ塚古墳の参考資料

この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。

  1. 羽曳野市
  2. 文化庁