墳丘長124.8メートル。摩利支天塚古墳に続く二代目の首長の墓とされる。
琵琶塚古墳とはどんな古墳か
琵琶塚古墳はひとことで言えば摩利支天塚古墳の続きにあたる古墳です。栃木県小山市飯塚にあり、南へ100メートルほどのところに摩利支天塚古墳が並びます。
小山市は墳丘長を124.8メートル、築造時期を6世紀前半としています。南の摩利支天塚古墳(120.5メートル)をわずかに上回る大きさです。
小山市はこの古墳を次のように説明しています。
摩利支天塚古墳に続く、2代目の首長のお墓と考えられている前方後円墳です
そして、造られた当時は1,000本もの円筒埴輪が墳丘の上に並べられていたとしています。土の山の輪郭が、焼き物の筒でぐるりと縁取られていたことになります。
国の史跡に指定されたのは1926年で、摩利支天塚古墳より半世紀早い指定です。1981年に範囲が追加されました。
琵琶塚古墳の読み方と別名
読みは「びわづかこふん」です。文化庁のふりがなも同じです。
同じ「琵琶塚」の名をもつ古墳は各地にあります。検索するときは「琵琶塚古墳 小山市」のように地名を添えると、目当ての古墳にたどりつけます。
名の由来は、公式のページで確かめられませんでした。所在地の「飯塚」は小山市の大字の名で、摩利支天塚古墳と同じ番地の一帯にあり、二基は同じ史跡地として案内されています。
琵琶塚古墳(びわづかこふん)
文化庁の国指定文化財等データベースと小山市が用いる名。
琵琶塚(びわづか)
「古墳」を省いた言い方。塚の形を楽器の琵琶に見立てたものとされる。
飯塚古墳群(いいづかこふんぐん)
この古墳をふくむ周辺の古墳群の名。摩利支天塚古墳も同じ群に属する。
琵琶塚古墳は誰の墓か
琵琶塚古墳の被葬者はわかっていません。宮内庁の治定もありません。文化庁のデータベースの解説文にも、人物を比定する記載はありません。
小山市は、この古墳を「摩利支天塚古墳に続く、2代目の首長のお墓と考えられている前方後円墳です」としています。個人の名前ではなく、代の順番として位置づけている点が特徴です。
下毛野の地では、5世紀末から6世紀初めに摩利支天塚古墳が、6世紀前半に琵琶塚古墳が築かれました。あいだはおよそ一代分です。
名前が残らなかった理由は単純です。この地域には、被葬者を記した文字資料がありません。稲荷山古墳(埼玉県行田市)の鉄剣のように名を刻んだ品が出れば話は別ですが、琵琶塚古墳ではそうした発見は公表されていません。
公式の説明:わかっていない
解説文は墳丘の形と規模を述べるだけで、被葬者を比定していない。
学術的な見方のひとつ:下毛野の二代目の首長
摩利支天塚古墳に続く二代目の首長の墓と考えられるとする。個人名は挙げていない。
琵琶塚古墳の大きさと形
小山市は墳丘長を124.8メートルとしています。摩利支天塚古墳の120.5メートルをわずかに上回り、小山市は両者をまとめて「県内最大級」と呼んでいます。
文化庁のデータベースの解説文は、明治から昭和のはじめの文体のまま残っており、長さを尺で記しています。
封土ノ高サ前方部ニテ三十一尺後圓部ニテ三十九尺徑四百十四尺ニ及フ
尺は昔の長さの単位で、1尺はおよそ30センチメートルにあたります。前方部より後円部のほうが高く積まれていたことが、この一文からわかります。
古墳は南方を向いており、周囲には濠と土手がめぐっていました。文化庁はこの古墳を「此ノ地方ニ於ケル大古墳ニシテ最善ク保存セラレタルモノノ一ナリ」と評しています。
墳丘長:124.8メートル
前方部の高さ:三十一尺
後円部の高さ:三十九尺
径:四百十四尺
摩利支天塚古墳の墳丘長:120.5メートル(くらべるための数字)
琵琶塚古墳はいつ作られたか
琵琶塚古墳の場所と行き方(観光情報)
二基のあいだに建つ国史跡 摩利支天塚・琵琶塚古墳資料館が見学の起点です。平成30年4月に開館し、両古墳と飯塚古墳群の出土品を展示しています。
開館時間は9時00分から16時30分まで。休館日は月曜日(祝日の場合を除く)、祝日の翌日、年末年始等です。入館料は無料、駐車場は普通自動車40台・バス2台分あります。車では佐野藤岡インターチェンジから約25キロメートルです。
琵琶塚古墳
琵琶塚古墳の住所:栃木県小山市飯塚335
交通:小山駅からはタクシー、または小山市コミュニティバス「おーバス」(羽川線とデマンドバスの乗り継ぎ)を使う
駐車場:古墳そのものの駐車場は公式に確認できませんでした(資料館は普通自動車40台・バス2台)
料金:古墳の見学料は公式に確認できませんでした(資料館の入館料は無料)
内部見学:石室の内部を見学できるという記載は、公式に確認できませんでした
小山市は摩利支天塚古墳と合わせた所在地を小山市飯塚335としています。二基は同じ史跡地として案内されており、歩いて行き来できます。
両古墳のあいだには菜の花畑と思川桜の並木があり、小山市は「春には菜の花に彩られた古墳をご覧いただけます」と案内しています。
小山駅からはタクシーか、コミュニティバス「おーバス」(羽川線とデマンドバスの乗り継ぎ)を使います。
琵琶塚古墳の発見と調査の歩み
1,000本の埴輪が縁取っていた
小山市は、この古墳について印象に残る一文を書いています。造られた当時は1,000本もの円筒埴輪が墳丘の上に並べられていた、というのです。
円筒埴輪は筒の形をした焼き物で、墳丘の段の縁に並べて、聖なる場所とそうでない場所を区切ったと考えられています。土の山の輪郭が、焼き物の線でぐるりと描かれていたことになります。
これだけそろえるには、粘土を採り、窯で焼き、運んで据える工程が要ります。それを支える人と物の動きが、1,000本という数字から見えてきます。
古墳の大きさは、運んだ土の量で決まります。埴輪の数は、それを支えた仕組みの大きさを示します。摩利支天塚古墳との差はわずか4メートルほどですが、埴輪の話を聞くと、二基の見え方は変わってきます。
半世紀早かった史跡指定
琵琶塚古墳が国の史跡に指定されたのは1926年(大正15年)です。南に並ぶ摩利支天塚古墳の指定は1978年でしたから、半世紀以上の開きがあります。その段階でこの古墳が選ばれたのは、当時から地域を代表する大古墳として知られていたからです。
1981年には指定の範囲が追加されました。摩利支天塚古墳も2002年に範囲が追加されており、二基とも、はじめの指定のあとで守るべき範囲が広げられています。
古墳の指定は、墳丘だけを対象にすればよいものではありません。濠や周堤、埴輪の並ぶ場所まで含めてはじめて全体が保たれます。範囲の追加は、その理解が進んだ結果です。
古い文体のまま残る解説文
琵琶塚古墳から出土したもの
石室の中から何が出たかは、公式のページで確かめられませんでした。発掘調査は墳丘と周堀の範囲を確かめるものが中心で、埋葬施設の全容は公表されていません。
はっきりしているのは、埴輪が大量に使われていたことです。築造時期を6世紀前半とみる根拠も、出土した埴輪の形にあります。
円筒埴輪
造られた当時は1,000本が墳丘の上に並べられていたと小山市は説明している。
円筒埴輪列
2013年度からの発掘調査で、墳丘の1段目と2段目に並んだ列が確認された。
出土品(資料館で展示)
小山市の国史跡 摩利支天塚・琵琶塚古墳資料館が、この古墳の出土品を保管・展示している。
飯塚古墳群の遺物
周辺の飯塚古墳群から出た遺物も同じ資料館に集められている。
琵琶塚古墳と関連する古墳
琵琶塚古墳についてよくある質問
琵琶塚古墳は誰の墓ですか。
わかっていません。宮内庁の治定もありません。小山市は、摩利支天塚古墳に続く二代目の首長の墓と考えられるとしていますが、個人名は挙げていません。
琵琶塚古墳はどこにありますか。
栃木県小山市飯塚335です。南へ100メートルほどのところに摩利支天塚古墳が並んでおり、二基は同じ史跡地として案内されています。
琵琶塚古墳の大きさはどれくらいですか。
小山市は墳丘長を124.8メートルとしています。摩利支天塚古墳の120.5メートルをわずかに上回り、小山市は両者を県内最大級と呼んでいます。
琵琶塚古墳はいつ作られましたか。
小山市は6世紀前半としています。5世紀末から6世紀初めの摩利支天塚古墳に続く時期で、あいだはおよそ一代分と考えられています。
琵琶塚古墳の読み方は。中に入れますか。
読みは「びわづかこふん」です。石室の内部を見学できるという記載は、公式に確認できませんでした。すぐそばの資料館で出土品を見ることができます。
琵琶塚古墳と併せて覚えたい言葉・用語
前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)
円形と方形をつないだ鍵穴の形の古墳。日本列島で独自に発達した形。
周堀(しゅうぼり)
墳丘のまわりをめぐる濠。琵琶塚古墳では東側と南側が二重になっていた。
尺(しゃく)
昔の長さの単位。1尺はおよそ30センチメートル。古い解説文に今も残る。
飯塚古墳群(いいづかこふんぐん)
小山市飯塚一帯に広がる古墳群。摩利支天塚古墳と琵琶塚古墳を含む。
琵琶塚古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。