東日本で最大級とされる前期の前方後円墳。周溝を一周して歩ける。
甲斐銚子塚古墳とはどんな古墳か
甲斐銚子塚古墳はひとことで言えば東日本で最大級の前期古墳です。山梨県甲府市下曽根町にあり、国の史跡としての名は「銚子塚古墳附丸山塚古墳」といいます。円墳の丸山塚古墳と合わせて、1930年(昭和5年)に指定されました。
山梨県は、指定の理由を次のように記しています。
東日本で最大級の前期前方後円墳。出土品に畿内との強い関係性があります。
昭和3年、後円部から長方形の竪穴式石槨が見つかり、漢式鏡・勾玉・管玉・刀剣・鉄斧頭・車輪石・石釧・石杵・貝輪などが出土しました。鏡や石製品が畿内の古墳と共通することが、この古墳を有名にしました。
現在は曽根丘陵公園の一部として整備され、第2次整備により周溝を一周することができます。
甲斐銚子塚古墳の読み方と別名
国の史跡としての読みは、文化庁の登録では「ちょうしずかこふんつけたりまるやまづかこふん」です。山梨県は「ちょうしづかこふん・つけたり・まるやまづかこふん」と区切って示しています。
「附(つけたり)」は、主となる文化財に付属して一緒に指定するものを指す語です。ここでは丸山塚古墳が銚子塚古墳に付されて指定されています。
銚子塚という通称は、柄の長い酒器に見立てた名づけとされます。柳井茶臼山古墳の「茶臼」と同じく、道具に見立てて古墳を呼ぶ習わしの一例です。
銚子塚古墳附丸山塚古墳(ちょうしずかこふんつけたりまるやまづかこふん)
国の史跡としての指定名称。文化庁のふりがなもこの形。
甲斐銚子塚古墳(かいちょうしづかこふん)
山梨県内に別の銚子塚があるため、旧国名の甲斐を冠して呼び分ける形。
銚子塚古墳(ちょうしづかこふん)
山梨県埋蔵文化財センターが表題に用いる形。
甲斐銚子塚古墳は誰の墓か
甲斐銚子塚古墳の被葬者はわかっていません。山梨県も文化庁も、人物を特定する記載はしていません。宮内庁の治定もありません。
山梨県が示すのは、指定の理由に記された一文だけです。「東日本で最大級の前期前方後円墳。出土品に畿内との強い関係性があります」。
文化庁の解説は、昭和3年の発掘で長方形の竪穴式石槨が見つかり、内部から漢式鏡・勾玉・管玉・刀剣・鉄斧頭・車輪石・石釧・石杵・貝輪などが出土したと記します。車輪石や石釧といった腕飾りの石製品は、畿内の前期古墳に共通して副葬される品です。
甲府盆地の南東の縁に、東日本で最大級の墳丘を築ける人物がいた。そこまでが、公式に確かめられることです。
公式の説明:わかっていない
人物を比定する記載はない。出土品に畿内との強い関係性がある、とするにとどまる。
公式の説明:わかっていない
解説は墳丘の規模と副葬品を記すのみで、被葬者に触れていない。
甲斐銚子塚古墳の大きさと形
文化庁の解説は、昔ながらの尺貫法で書かれています。主軸の長さ約九十二間、後円部の直径約四十七間・高さ五十四尺、前方部の幅約三十五間・高さ二十五尺。丸山塚古墳は銚子塚の東北約四十五間に位置し、封土の直径約三十七間・高さ三十尺とされます。
メートルに直した墳丘の数字は、渡された公式のページでは確かめられませんでした。昭和5年の指定当時の文言がそのまま残されているためです。
わかっているのは形です。文化庁は「丘陵ノ麓ニ築カレタル前方後円型ノ古墳ニシテ略東ニ面シ」と記し、周囲に環濠の跡があるとしています。山梨県は第1次整備事業で墳丘を覆う葺石や埴輪が確認されたとしています。
主軸の長さ:約九十二間
後円部の直径・高さ:直径約四十七間・高さ五十四尺
前方部の幅・高さ:幅約三十五間・高さ二十五尺
丸山塚古墳:封土の直径約三十七間・高さ三十尺(銚子塚の東北約四十五間)
国の史跡の指定:昭和5年2月28日
甲斐銚子塚古墳はいつ作られたか
甲斐銚子塚古墳の場所と行き方(観光情報)
山梨県は、第2次整備により周溝を一周することができるようになりましたとしています。整備工事で施工された突出部や立柱は、調査で出土した遺構を復元表示したものです。
土の下にあったものを、地上に描き起こして見せる整備です。一帯は昭和50年度に建設が決まった「風土記の丘・曽根丘陵公園」として整えられています。
銚子塚古墳附丸山塚古墳
銚子塚古墳附丸山塚古墳の住所:山梨県甲府市下曽根町(2006年3月以前は東八代郡中道町下曽根字山本)
交通:公式に確認できませんでした
駐車場:公式に確認できませんでした
料金:公式に確認できませんでした
内部見学:第2次整備により、周溝を一周することができる
山梨県は所在地を甲府市下曽根町とし、管理団体を山梨県(所管課は文化振興・文化財課)としています。銚子塚古墳の指定範囲には国有地が含まれています。
行き方・駐車場・料金については、渡された公式のページに記載を確かめられませんでした。
問い合わせ先は山梨県観光文化・スポーツ部埋蔵文化財センター(甲府市下曽根町923、電話 055-266-3016)です。センターは古墳と同じ下曽根町にあります。
甲斐銚子塚古墳の発見と調査の歩み
間と尺で書かれた古墳
甲斐銚子塚古墳の公式な寸法は、いまもメートルではありません。
文化庁の詳細解説はこう始まります。
丘陵ノ麓ニ築カレタル前方後円型ノ古墳ニシテ略東ニ面シ主軸ノ長サ約九十二間後円部直径約四十七間高サ五十四尺前方部ノ幅約三十五間高サ二十五尺アリ
昭和5年の指定当時の文言が、そのまま残されています。間は長さの単位、尺はその六分の一にあたる単位です。
この古墳は、メートル法が普及する前に指定されました。古墳の記録は、その古墳が世に出た時代の言葉で書かれています。同じ解説には「封土上ハ開墾シテ葡萄及桑樹ヲ栽培セルモ尚埴輪円筒ノ破片ヲ発見ス」ともあり、当時の墳丘がぶどう畑と桑畑になっていたことがわかります。
古墳の上で、ぶどうを作っていた
文化庁の解説にある一文は、指定当時の甲府盆地の暮らしを映しています。墳丘の上は開墾され、葡萄と桑が栽培されていました。
それでも、埴輪の円筒の破片が見つかりました。周囲には環濠の跡もありました。畑になってもなお、古墳は古墳とわかる形を保っていたということです。
昭和3年、伊勢講の建物を建てようとしたときに竪穴式石槨と副葬品が現れます。近代にはこの丘が伊勢講の信仰の場になっており、山頂には石祠や石灯籠が置かれていました。
古墳が畑になり、信仰の場になり、また古墳に戻る。黒塚古墳(奈良県天理市)が中世に山城、近世に藩邸の庭になったのと同じ道すじです。
突出部と立柱を、地上に描き起こす
山梨県は、この古墳の整備を二度にわけて行いました。
第1次整備事業は昭和58年から62年度。銚子塚古墳・丸山塚古墳の石室や墳丘、周溝が発掘され、墳丘を覆う葺石や埴輪が確認されました。
第2次整備事業は平成13・16・18・19年度。北西部の公有地化が完了したのち、後円部西側などが発掘されました。山梨県は「整備工事で施工された突出部や立柱は、調査により出土した遺構を復元表示したものです」と記しています。
土の中で見つかった痕跡を、地上に立て直す。掘って埋め戻したら何も見えない、という問題への答えのひとつです。この整備により、周溝を一周することができるようになりました。
甲斐銚子塚古墳から出土したもの
副葬品は昭和3年、伊勢講の建物を建てようとした際に竪穴式石槨が現れて見つかりました。文化庁は石杵や貝輪も挙げています。
貝の腕輪と、それをまねた石の腕飾りが同じ石槨から出ています。丸山塚古墳からも漢式鏡と石製品が出土したと記されています。
漢式鏡
昭和3年の発掘で竪穴式石槨から出土。文化庁が最初に挙げる副葬品。
車輪石・石釧
貝の腕輪をまねた石の腕飾り。畿内の前期古墳に共通して副葬される。
勾玉・管玉
石槨の内部から出土した玉類。
刀剣・鉄斧頭
鉄の武器と工具。文化庁の解説に挙げられている。
埴輪
指定当時から円筒の破片が知られ、第1次整備の調査で葺石とともに確認された。
甲斐銚子塚古墳と関連する古墳
甲斐銚子塚古墳についてよくある質問
甲斐銚子塚古墳は誰の墓ですか。
わかっていません。山梨県も文化庁も人物を特定していません。山梨県は指定の理由に「東日本で最大級の前期前方後円墳。出土品に畿内との強い関係性があります」と記すにとどめています。
甲斐銚子塚古墳の大きさはどれくらいですか。
文化庁は主軸の長さ約九十二間、後円部の直径約四十七間・高さ五十四尺、前方部の幅約三十五間・高さ二十五尺としています。メートルに直した数字は公式のページでは確かめられませんでした。
甲斐銚子塚古墳はどこにありますか。
山梨県甲府市下曽根町です。2006年3月以前の住所は東八代郡中道町下曽根字山本でした。管理団体は山梨県です。
甲斐銚子塚古墳はいつ作られましたか。
山梨県は前期の前方後円墳とし、東日本で最大級としています。具体的な世紀を挙げた記載は、公式のページでは確かめられませんでした。
甲斐銚子塚古墳は歩いて回れますか。
山梨県は、第2次整備により周溝を一周することができるようになった、としています。整備で復元された突出部や立柱は、調査で出土した遺構を地上に表示したものです。
甲斐銚子塚古墳と併せて覚えたい言葉・用語
附(つけたり)
主となる文化財に付属して一緒に指定されるもの。ここでは丸山塚古墳を指す。
竪穴式石槨(たてあなしきせっかく)
上から棺を納めて天井石でふさぐ埋葬施設。追葬はできない。
車輪石(しゃりんせき)
貝の腕輪をまねた石の腕飾り。車輪に似た形からこの名がある。
葺石(ふきいし)
墳丘の斜面に敷きつめた石。当時の古墳は石で覆われていた。
甲斐銚子塚古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。