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三重県

高倉山古墳(伊勢市)とはどんな古墳か|誰の墓か・場所

高倉山古墳  / タカクラヤマコフン

円墳 6世紀

伊勢神宮外宮の神域の山頂にある、屈指の大きさの石室をもつ円墳。

高倉山古墳とはどんな古墳か

三重県伊勢市にある円墳です。伊勢市は、史跡・名勝・天然記念物の一覧のうち市指定の史跡として高倉山古墳を挙げています。指定は1973年(昭和48年)とされます。

伊勢神宮外宮(豊受大神宮)の神域である高倉山の山頂に築かれています。埋葬施設は南西に開く両袖式の横穴式石室で、全国的に見ても屈指の規模とされます。玄室が長く羨道が短いという形は、のちの南伊勢地方の石室に受け継がれ、高倉山型石室と呼ばれます。

鎌倉時代の文献にすでに石窟としての記載があり、江戸時代には天岩戸として広く信仰を集めました。そのため墳丘は大きく改変され、石室の中のものも多くが失われています。現在は神域内にあたるため、立ち入りは制限されています。

高倉山古墳の読み方と別名

読みは「たかくらやまこふん」です。伊勢市の一覧にも高倉山古墳と記されています。山の名がそのまま古墳の名になったものです。

この古墳には、宮内庁の治定にもとづく陵名はありません。陵墓でも陵墓参考地でもなく、伊勢市が指定した史跡です。

かわりに知られているのが、天岩戸という呼び方です。江戸時代に、石室が広く信仰の対象となったことによります。古墳の石室が、まったく別の由来をもつ名で呼ばれてきたということです。また、この古墳の石室と同じ形をもつ石室を高倉山型石室と呼びます。古墳の名が、石室の型式の名になった例です。

高倉山古墳(たかくらやまこふん)

伊勢市の史跡・名勝・天然記念物の一覧が、市指定の史跡として掲げている名。

天岩戸(あまのいわと)

江戸時代に広まった呼び方。石室が信仰の対象となり、そう呼ばれるようになったとされる。

高倉山型石室(たかくらやまがたせきしつ)

この古墳の石室と同じ形をもつ石室の呼び方。南伊勢地方を中心に分布する。

高倉山古墳は誰の墓か

この古墳に葬られた人が誰かは、わかっていません。伊勢市の一覧も、市指定の史跡として名を挙げるだけで、被葬者には触れていません。

もっともよく知られているのは、外宮を奉じた氏族である度会氏(磯部氏)と結びつける説です。度会氏はこの地方で随一の勢力をもった古代の氏族ですが、その考古学上の実態については、必ずしもはっきりしていません。

この説が生まれた背景には、立地の特異さがあります。外宮では5世紀の遺物が知られず、6世紀後半にこの古墳が唐突に現れるという様相を示すためです。

ここから、在地の勢力のなかからヤマト王権と結んだ度会氏が台頭し、この古墳を築いて南伊勢地方に勢力をもったとする説や、外宮のおこりとしてこの古墳を度会氏の始祖の墓と仰いだとする説が挙げられています。いずれも確かめられてはいません。

断定できない:わかっていない

市指定の史跡として高倉山古墳の名を挙げるのみで、被葬者についての記載はない。

陵墓ではなく、伊勢市が指定した史跡として扱われている:宮内庁の治定は無い

史跡・名勝・天然記念物の一覧のうち、市指定の史跡の欄に掲げられている。

高倉山古墳の大きさと形

この古墳の墳丘と石室の実測値については、公式のページで確かめられた記載がありませんでした。ここでは推測で数字を書かず、確かめられた項目だけを一覧に載せています。

わかっているのは、大まかな性格です。墳形は円形と見られ、埋葬施設は南西に開く両袖式の横穴式石室です。石室は伊勢地方では最大規模で、全国的に見ても石室の全長と玄室の床面積が上位に入るとされます。

石室には自然石が用いられ、根石の上に五段から六段に積まれています。玄室と羨道は一体的に築かれ、側壁は天井石の付近で大きくせり出します。石室の中に石棺があったのか木棺があったのかは、明らかになっていません。

指定の区分:伊勢市指定の史跡

墳丘の直径・石室の全長:公式には確認できませんでした

高倉山型石室が分布する地域の例:三重県多気郡明和町池村

高倉山古墳はいつ作られたか

築造は6世紀後半、古墳時代後期と推定されています。6世紀中葉とする見方もあります。

年代の手がかりになったのは、1975年(昭和50年)の調査で見つかった副葬品です。須恵器や土師器、装身具、馬具などの様相が6世紀後半から7世紀初頭までの時期にあたることから、一度だけでなく、あとから追葬が行われた可能性が認められています。

6世紀後半は、奈良県で牧野古墳のような大型の石室をもつ古墳が築かれた時期です。力のある首長が、墳丘の大きさではなく石室の大きさで格を示すようになりました。この古墳が円墳でありながら屈指の石室をもつのは、その流れの中にあります。

高倉山古墳の場所と行き方(観光情報)

この古墳は、伊勢神宮外宮の神域という特別な場所にあります。ほかの史跡のように自由に見学できる場所ではありません。

行き方、駐車場、料金、所在地の番地についても、公式のページで確かめられた記載がありませんでした。同じ三重県には能褒野王塚古墳のように宮内庁が管理する陵墓もあり、古墳ごとに扱いが違います。

高倉山古墳(伊勢市)

地図で開く

高倉山古墳(伊勢市)の住所:公式には確認できませんでした

交通:公式には確認できませんでした

駐車場:公式には確認できませんでした

料金:公式には確認できませんでした

内部見学:伊勢神宮外宮(豊受大神宮)の神域である高倉山の山頂にあり、立ち入りは制限されているとされます。ただし立ち入りの可否や公開の有無について、伊勢市の公式のページでは記載を確認できませんでした

伊勢市の史跡・名勝・天然記念物の一覧には、市指定の史跡として高倉山古墳の名が挙げられていますが、その欄では所在地の文字列を読み取ることができませんでした。そのため、この図鑑では住所の欄を空けてあります。

古墳は標高116メートルの高倉山の山頂にあります。明治期の後半には諸施設が撤去され、高倉山への入山も禁じられました。訪ねる前に、伊勢市の案内でご確認ください。

高倉山古墳の発見と調査の歩み

  1. 鎌倉時代から記録されてきた石室
  2. 天岩戸として拝まれた場所
  3. 数字を書かない、という判断

鎌倉時代から記録されてきた石室

この古墳が世に知られたのは、近代の考古学によってではありません。鎌倉時代の文献にすでに記載があります。

『倭姫命世記』『天地麗気記』『高庫蔵等秘抄』に、高倉山に石窟が存在する旨が書かれています。室町時代の『神祇秘抄』には石室の規模の記載があり、当時すでに信仰の対象となって石室の中に小さな祠が置かれていたといいます。

古墳として認識されたのは、1888年(明治21年)に坪井正五郎が実見してからです。それまでの六百年以上、この石室は古墳ではない別のものとして語られ続けてきました。

天岩戸として拝まれた場所

江戸時代、この石室は天岩戸として広く信仰の対象になりました。墳丘の北側には神楽殿が建ち、付近には茶店まで置かれていたといいます。

人が集まるということは、墳丘が踏まれ、削られるということでもあります。伊勢市が市指定の史跡としたのは1973年ですが、それまでに墳丘は流出や削平によって大きく姿を変えていました。

石室の中からは、江戸時代の二次利用にともなう鉄釉徳利・灯明皿・銭貨も出土しています。古墳の副葬品ではなく、そこを訪ねた人びとが残していったものです。明治期の後半に諸施設は撤去され、高倉山への入山も禁じられました。

数字を書かない、という判断

この記事では、墳丘の直径も石室の全長も、具体的な数字を書いていません。公式のページで確かめられなかったからです。

伊勢市の史跡・名勝・天然記念物の一覧には、市指定の史跡として高倉山古墳の名が挙げられています。しかし、そこに規模の数字はありません。

数字を確かめられないときに、それらしい数字を書いてしまうことが、いちばん危ないと、この図鑑では考えています。石室が全国屈指の規模であることは各種の資料が伝えていますが、何メートルなのかを公式に確かめられない以上、ここでは書きません。

高倉山古墳から出土したもの

石室内の副葬品の多くは、盗掘によって失われています。それでも1975年(昭和50年)の調査では、金環・管玉・勾玉・臼玉といった装身具、大刀・刀子・鉄鏃といった武器、そして馬具と須恵器・土師器が見つかりました。

これらの遺物の様相が6世紀後半から7世紀初頭にわたることから、追葬の可能性が認められています。横穴式石室は何度も開けられるため、一人だけが葬られたとは限りません。

金環

1975年の調査で出土した耳飾り。2点が見つかり、別に伝えられる出土品が1点ある。

馬具

鉸具、鞖、組合式辻金具、雲珠、円頭鋲など。石室内から見つかっている。

須恵器

坏蓋、坏身、平瓶、提瓶、直口壺、脚付壺、広口壺、甕、装飾器台など。時期をしぼる手がかりになった。

鉄釉徳利・灯明皿・銭貨

江戸時代に石室が信仰の対象となった時代のもの。古墳の副葬品ではない。

高倉山古墳と関連する古墳

高倉山古墳についてよくある質問

高倉山古墳(伊勢市)は誰の墓ですか。

わかっていません。外宮を奉じた度会氏と結びつける説がよく知られていますが、確かめられてはいません。伊勢市の一覧も被葬者には触れていません。

高倉山古墳(伊勢市)はどこにありますか。

伊勢神宮外宮(豊受大神宮)の神域である高倉山の山頂にあります。ただし所在地の番地については、伊勢市の公式のページでは確認できませんでした。

高倉山古墳(伊勢市)の大きさはどれくらいですか。

墳丘の直径も石室の全長も、公式のページでは確認できませんでした。石室は伊勢地方で最大規模、全国的に見ても屈指の規模とされます。

高倉山古墳(伊勢市)はいつ作られましたか。

6世紀後半、古墳時代後期と推定されています。出土した遺物の様相から、7世紀初頭までの追葬も認められています。

高倉山古墳(伊勢市)の中に入れますか。

伊勢神宮外宮の神域にあり、立ち入りは制限されているとされます。ただし立ち入りの可否について、伊勢市の公式のページでは記載を確認できませんでした。

高倉山古墳と併せて覚えたい言葉・用語

両袖式(りょうそでしき)

横穴式石室で、玄室の入口が左右どちらにも張り出す形。畿内に多い造り。

玄室の床面積(げんしつのゆかめんせき)

棺を納める部屋の広さ。石室の大きさを比べるときに、全長とならんで使われる指標。

追葬(ついそう)

すでに造られた古墳に、あとから別の人を葬ること。横穴式石室だからこそできる。

市指定史跡(ししていしせき)

市町村が指定した史跡。国の史跡や宮内庁の陵墓とは別の枠組みで守られている。

高倉山古墳の参考資料

この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。

  1. 伊勢市
  2. 奈良文化財研究所