崖にうがたれた52基の横穴。ほとんどの壁に後世の仏像が彫られている。
長岡百穴古墳とはどんな古墳か
栃木県宇都宮市にある横穴墓群です。栃木県は「長岡百穴古墳群...7世紀前期頃に造成された横穴墓群。計52基の横穴がある。県指定史跡。」と記しています。
軽石凝灰岩の南向きの斜面に、四角い穴が並んでうがたれています。栃木県は「百穴は横穴と称する墳墓の一種で、十数個のものは那須郡など各地にみられますが、集団的に50個以上あるものは本県では唯一であり、全国的にも珍しいものです」としています。
ほとんどの穴の壁には、室町から江戸のころに彫られたとみられる仏像が残っています。長く外気にさらされてきたぶん、傷みも進んでいます。周囲はコナラやクヌギに囲まれた緑地で、栃木県の長岡緑地環境保全地域に含まれています。埼玉県の吉見百穴と並ぶ、関東の代表的な横穴墓群です。
長岡百穴古墳の読み方と別名
読みは「ながおかひゃくあなこふん」です。「ひゃっけつ」と読まれることもあります。埼玉県の吉見百穴が「よしみひゃくあな」とも「よしみひゃっけつ」とも読まれるのと同じで、どちらかに決まっていません。
名に「古墳」と付きますが、盛り土を築いた古墳ではありません。崖に横穴を掘り込んだ墓、つまり横穴墓が集まったものです。栃木県も「百穴は横穴と称する墳墓の一種」と説明しています。
「百穴」の百は、実際の数ではなく、たくさんあるという意味です。栃木県が記す実数は52基です。
長岡百穴古墳(ながおかひゃくあなこふん)
通用している名。栃木県のページは「長岡百穴古墳群」の形で記している。
長岡百穴(ながおかひゃっけつ)
「百穴」を音で読む形。埼玉県の吉見百穴も「ひゃっけつ」と読まれる。
長岡横穴墓群(ながおかよこあなぼぐん)
実態に即した呼び方。盛り土をもつ古墳ではなく、崖に掘り込んだ墓が並ぶ。
長岡百穴古墳は誰の墓か
この横穴墓群に葬られた人が誰かは、わかっていません。
栃木県の説明は、7世紀前期頃に造成された横穴墓群であること、計52基の横穴があること、県指定史跡であることの三点にとどまります。被葬者について書かれた記載はありません。
手がかりが乏しいのには理由があります。近代にはすでに横穴が露出して原型をとどめておらず、埋葬されていた品にもとづいて考えることができない状態だからです。
それでも、形からわかることはあります。一つひとつの穴は小さく、大きな古墳のように一人の首長を葬るものではありません。同じ斜面に五十を超える穴が並ぶという造り方は、家族ごとに葬る墓に近い性格をもつと考えられています。
宮内庁の陵墓としての治定は受けておらず、栃木県指定の史跡として扱われています。
断定できない:わかっていない
県のページは造成時期と基数、指定の別を記すのみで、被葬者にはふれていない。
宮内庁の治定は無い。栃木県指定の史跡として扱われている:治定はされていない
県のページは「県指定史跡」と明記している。陵墓としての扱いは受けていない。
長岡百穴古墳の大きさと形
栃木県が示す数字は、計52基という横穴の数です。そして、この地域が「集団的に50個以上あるものは本県では唯一であり、全国的にも珍しいもの」だとしています。
もう一つ、栃木県は長岡緑地環境保全地域としての面積を3.85ヘクタール(内訳として民有地3.85ヘクタール)とし、その指定年月日を昭和52年7月19日としています。ただしこれは緑地としての指定であって、史跡としての指定とは別のものです。
一つひとつの穴の大きさについて、栃木県のページには記載がありません。下調べでは、縦横がおよそ一メートル、奥行きがおよそ二メートル程度とされ、東の群と西の群に分かれているといわれます。
横穴の数:計52基
造成の時期:7世紀前期頃
文化財の種別:県指定史跡
緑地環境保全地域の面積:3.85ヘクタール(民有地3.85ha)
緑地としての指定年月日:昭和52年7月19日
長岡百穴古墳はいつ作られたか
長岡百穴古墳の場所と行き方(観光情報)
栃木県は、この地域を長岡緑地環境保全地域として指定しています。面積は3.85ヘクタール、指定年月日は昭和52年7月19日です。古墳としての指定と、緑地としての指定が重なっている場所です。
宇都宮市の北部にあたり、周辺には瓦塚古墳群や戸祭大塚古墳など、古代の遺跡が残っているといわれます。
長岡百穴古墳
長岡百穴古墳の住所:栃木県(栃木県のページは市町村名を本文に記していません。写真提供として宇都宮市の名が挙げられています)
交通:公式に確認できませんでした
駐車場:公式に確認できませんでした
料金:公式に確認できませんでした
内部見学:崖に開いた横穴が外から見える状態で残っています。ただし穴の中に立ち入れるかどうかを記した公式の案内は確認できませんでした
栃木県のページは、この古墳を長岡緑地環境保全地域の紹介の中で扱っており、番地までの住所、行き方、駐車場、料金を記した公式ページは確認できませんでした。写真提供として宇都宮市の名が挙げられています。
栃木県は「周囲はコナラ・クヌギ等に囲まれた緑地として親しまれています」としています。文化財としてだけでなく、緑地としても守られている場所です。訪ねる前には、宇都宮市の案内で最新の状況を確かめてください。
長岡百穴古墳の発見と調査の歩み
穴の壁に彫られた仏
この横穴墓群の見どころは、墓そのものよりも、その壁にあります。
ほぼすべての穴の壁に、仏の像が彫られています。地蔵菩薩や馬頭観音の像で、室町から江戸のころに彫られたものとみられています。七世紀に掘られた墓の壁が、千年ののちに仏を彫る面として使われたことになります。
それだけ長いあいだ、この穴が外から見える状態にあったということでもあります。埋もれていれば彫れません。栃木県も、この地域が古くから親しまれてきたことを記しています。
そのぶん、傷みは進みました。外気にさらされ、雨に打たれ、欠けた部分も多いといわれます。守られてきたことと、傷んできたことが同じ理由から来ています。
百穴という名の付き方
「百穴」は、実際に百あるという意味ではありません。たくさんあるという意味です。栃木県が記す実数は52基です。
同じ名の付き方をした場所は各地にあります。もっとも知られるのが埼玉県の吉見百穴で、こちらは二百を超える横穴が残ります。栃木県は「十数個のものは那須郡など各地にみられますが、集団的に50個以上あるものは本県では唯一」としています。栃木県内では、これだけまとまった横穴墓群はここだけということです。
数がまとまることには意味があります。一つひとつは小さくても、同じ斜面に五十を超える穴が並ぶには、それだけの人と時間が要ります。特定の一人ではなく、一つの集団の墓として営まれたことを示します。
鬼の伝説に出てくる穴
この横穴墓群は、宇都宮に伝わる百目鬼の話にも出てきます。
百目鬼は、目が百あるという鬼です。その話の中に百穴が登場するということは、話が語られはじめたころには、すでにこの穴の存在が知られていたということになります。
古墳や横穴が鬼の話と結びつく例は各地にあります。奈良県明日香村の鬼の俎・鬼の雪隠も、この一帯に住んだ鬼が石で人を調理したという言い伝えから名がつきました。
用途がわからなくなった大きな石や穴を前にして、人はそこに説明を与えます。そう語り継ぐことで、正体のわからないものが土地の風景の一部になります。
長岡百穴古墳から出土したもの
この横穴墓群からの出土品は、知られていません。近代にはすでに横穴が露出して原型をとどめておらず、埋葬品にもとづく考証ができない状態だからです。
残されているのは、掘り方そのものです。床面に側溝をもつ穴が散見されることから、比較的成熟した技術で掘られたと考えられ、そこから古墳時代の末ごろという年代が導かれてきました。品が無くても、掘り跡は読めます。
横穴
軽石凝灰岩の斜面に掘られた墓。栃木県は計52基があるとしている。
床面の側溝
一部の穴に見られるとされる。比較的成熟した技術で掘られたことを示す。
地蔵菩薩像・馬頭観音像
ほぼすべての穴の壁に彫られている。室町から江戸のころのものとみられる。
副葬品
横穴が早くから露出していたため、埋葬品にもとづく考証はできない状態にある。
長岡百穴古墳と関連する古墳
長岡百穴古墳についてよくある質問
長岡百穴古墳は誰の墓ですか。
わかっていません。栃木県の説明は造成時期と基数、指定の別を記すのみです。穴の大きさや数から、家族ごとに葬る性格の墓と考えられています。
長岡百穴古墳はどこにありますか。
栃木県宇都宮市にあります。ただし栃木県のページは市町村名を本文に記しておらず、番地までの住所や行き方は公式に確認できませんでした。
長岡百穴古墳の穴はいくつありますか。
栃木県は計52基としています。集団的に50個以上あるものは本県では唯一であり、全国的にも珍しいもの、とも記しています。
長岡百穴古墳はいつ作られましたか。
栃木県は7世紀前期頃に造成された横穴墓群としています。古墳時代の終わりごろ、終末期にあたります。
長岡百穴古墳の壁の仏像は何ですか。
地蔵菩薩像や馬頭観音像とみられ、室町から江戸のころに彫られたと考えられています。穴が長く外気にさらされていたことを示す痕跡でもあります。
長岡百穴古墳と併せて覚えたい言葉・用語
横穴墓(よこあなぼ)
崖の斜面に横から掘り込んだ墓。盛り土を築かず、古墳時代の後半に広がった。
軽石凝灰岩(かるいしぎょうかいがん)
火山灰が固まってできた柔らかい石。掘りやすく、横穴墓の造られる崖に多い。
県指定史跡(けんしていしせき)
都道府県が歴史上重要と認めて指定した土地。国指定より範囲の狭い枠組み。
終末期古墳(しゅうまつきこふん)
7世紀ごろに造られた最後の段階の古墳。前方後円墳が姿を消していく時期にあたる。
長岡百穴古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。