大阪最南端の海辺に築かれた、宇度墓として治定された前方後円墳。
淡輪ニサンザイ古墳とはどんな古墳か
大阪府泉南郡岬町淡輪にある前方後円墳です。宮内庁はこの古墳を、第11代垂仁天皇の皇子である五十瓊敷入彦命の宇度墓として管理しています。
宮内庁書陵部は、平成26年度に「五十瓊敷入彦命 宇度墓整備工事予定区域の事前調査」を行い、その結果を『書陵部紀要』第67号〔陵墓篇〕に載せています。同じ号には、葺石材についての報告も収められています。
大阪湾に面した台地の上にあり、西陵古墳・西小山古墳などとともに淡輪古墳群をつくります。墳丘は三段で、両方のくびれ部に方形の造出があります。円筒埴輪には淡輪系埴輪と呼ばれる独特の技法が見られ、紀伊の勢力とのつながりが指摘されています。
淡輪ニサンザイ古墳の読み方と別名
読みは「たんのわニサンザイこふん」です。ニサンザイの部分だけ片仮名で書かれるのがふつうで、これは意味のわからなくなった音がそのまま残っているためです。
ニサンザイは「ミササギ」がなまった呼び方とされます。堺市の百舌鳥古墳群にあるニサンザイ古墳も、同じ由来をもちます。古墳を指す一般名詞だったものが、特定の一基の名として残った例です。
宮内庁が用いるのは宇度墓(うどのはか)です。天皇の陵ではなく皇子の墓ですので、「陵」ではなく「墓」と呼ばれます。この治定名から、宇度墓古墳という呼び方も広く使われています。
淡輪ニサンザイ古墳(たんのわニサンザイこふん)
考古学の側で用いられる名。「ニサンザイ」は「ミササギ」がなまった呼び方とされる。
宇度墓古墳(うどはかこふん)
宮内庁の治定名にもとづく呼び方。「うどばかこふん」とも読まれる。
宇度墓(うどのはか)
宮内庁が用いる正式な墓名。天皇の陵ではないため「陵」ではなく「墓」と呼ばれる。
淡輪ニサンザイ古墳は誰の墓か
宮内庁は、この古墳を第11代垂仁天皇の皇子である五十瓊敷入彦命の宇度墓として管理しています。
ただし治定は行政上の扱いであって、学術的な確定ではありません。五十瓊敷入彦命の墓は、延喜式諸陵寮に和泉国日根郡の「宇度墓」として見えますが、中世には荒廃して所在が失われました。明治にいったん玉田山に定められ、その後この古墳へ改められています。この古墳に治定された明確な根拠は示されていません。
考古学の側からは、別の見方が出されています。岬町の大型前方後円墳2基は当地の経済力だけで築かれたとは考えにくく、紀伊の勢力の関与が想定されます。とくに日本書紀に「田身輪邑」に葬られたと見える5世紀後半の将軍、紀小弓に比定する説があります。
いずれも確かめられてはいません。埋葬施設は明らかになっていません。
宮内庁の治定(行政上の扱いで、学術的な確定ではありません):五十瓊敷入彦命
平成26年度の調査報告を「五十瓊敷入彦命 宇度墓整備工事予定区域の事前調査」の題で掲載している。
断定できない:確かめられていない
同じ号に葺石材についての報告が載るが、被葬者を確かめる記述は見あたらない。
淡輪ニサンザイ古墳の大きさと形
この古墳の墳丘の実測値については、公式のページで確かめられた記載がありませんでした。ここでは推測で数字を書かず、確かめられた項目だけを一覧に載せています。
わかっているのは、造りの特徴です。墳丘は三段に築かれ、南側と北側の両方のくびれ部に方形の造出があります。周囲には周濠が二重にめぐらされていましたが、現在は一重目だけが残っています。
三段の墳丘には、一段目・二段目に比べて三段目が著しく高いという特徴があります。一段目の途中までは地山を削り出して造り、その上は盛り土です。濠の波によって墳丘の裾が削られているため、本来の規模はさらに大きかったと考えられています。
宮内庁が用いる墓の名:宇度墓
被葬者とされる人物:五十瓊敷入彦命
葺石材についての報告:同第67号 94ページから100ページ
淡輪ニサンザイ古墳はいつ作られたか
築造は5世紀中葉から後半、古墳時代中期と推定されています。
5世紀に築かれた淡輪古墳群のなかでは、西陵古墳に次ぐ時期にあたります。そしてこの古墳の築造をもって、この地での大型古墳の築造は終わります。
同じころ、百舌鳥古墳群では大仙陵古墳やニサンザイ古墳が築かれていました。岬町の古墳がそこで途絶えるという事実は、この地の勢力の盛りが5世紀のうちに終わったことを示しています。
淡輪ニサンザイ古墳の場所と行き方(観光情報)
同じ淡輪古墳群には、国の史跡である西陵古墳と、西小山古墳があります。堺市の古墳大きさランキングは、西陵古墳を全長約210メートル、所在地を大阪府泉南郡岬町淡輪としています。
淡輪ニサンザイ古墳は宮内庁の管理下にあり墳丘に入れませんが、西陵古墳は国の史跡です。同じ古墳群のなかで扱いが分かれています。
淡輪ニサンザイ古墳(五十瓊敷入彦命 宇度墓)
淡輪ニサンザイ古墳(五十瓊敷入彦命 宇度墓)の住所:公式には確認できませんでした
交通:公式には確認できませんでした
駐車場:公式には確認できませんでした
料金:公式には確認できませんでした
内部見学:宮内庁が管理する墓ですので、墳丘に立ち入ることはできません。参拝可能な曜日や参拝時間についての記載は、公式のページでは確認できませんでした
この古墳については、住所を記した公式のページを確かめることができませんでした。宮内庁書陵部の刊行物のページには調査の題名は載っていますが、所在地の記載はありません。そのため住所の欄は空けてあります。
古墳は大阪湾に面した台地の上にあります。周囲には陪塚が6基現存し、いずれも宮内庁の管理下にあります。
淡輪ニサンザイ古墳の発見と調査の歩み
二つのニサンザイ
「ニサンザイ」という名の古墳は、大阪府に二つあります。堺市北区の百舌鳥古墳群にあるニサンザイ古墳と、この淡輪ニサンザイ古墳です。
どちらも由来は同じで、「ミササギ」がなまった呼び方とされます。ミササギとは陵のことですから、もともとは古墳を指す一般名詞でした。意味がわからなくなった音だけが残り、特定の一基の名になったということです。
同じことは、堺市の上石津ミサンザイ古墳や、藤井寺市の岡ミサンザイ古墳でも起きています。地域によって音の崩れ方が違います。淡輪のほうは、地名を頭に付けて区別します。
淡輪系埴輪と、紀伊とのつながり
この古墳の墳丘外表からは、須恵質の円筒埴輪の列と、家形・盾形・蓋形・鳥形といった形象埴輪が出土しています。
その一部には、淡輪地域に独特の技法が見られます。これを淡輪系埴輪と呼びます。
注目されるのは、同じ技法が和歌山平野の木ノ本古墳群にも見られる点です。府県の境をまたいで、同じ工人の系統が働いていたことになります。ここから、この古墳の築造に紀伊の勢力が関わっていたとする見方が生まれました。同じ和歌山県の岩橋千塚古墳群でも独自の石室と広い交流の跡が確かめられており、紀伊の勢力の性格をうかがわせます。
淡輪ニサンザイ古墳から出土したもの
この古墳の埋葬施設は明らかになっていません。宮内庁が管理する墓であるため、墳丘の中を掘ることができないためです。
知られているのは、墳丘の外表にあったものです。宮内庁書陵部は、平成26年度の整備工事にともなう事前調査で、墳丘の規模の推定と埴輪の出土を報告しています。葺石については、同じ号に石材を扱った別の報告が載っています。両造出には、埋葬施設または副葬品を納める施設があった可能性が推定されています。
円筒埴輪
須恵質の円筒埴輪の列が墳丘外表で確認されている。一部に淡輪系と呼ばれる独特の技法をもつ。
形象埴輪
家形・盾形・蓋形・鳥形など。墳丘の上に並べられていた。
葺石
墳丘の斜面を覆う石。宮内庁書陵部の『書陵部紀要』第67号に、その石材についての報告が載る。
造出
南北両方のくびれ部にある方形の張り出し。南造出は壇状の施設として機能した可能性が指摘される。
淡輪ニサンザイ古墳と関連する古墳
淡輪ニサンザイ古墳についてよくある質問
淡輪ニサンザイ古墳は誰の墓ですか。
宮内庁は五十瓊敷入彦命の宇度墓として治定していますが、この古墳に治定された明確な根拠は示されていません。5世紀後半の将軍である紀小弓とみる説もありますが、確かめられてはいません。
淡輪ニサンザイ古墳はどこにありますか。
大阪府泉南郡岬町淡輪にありますが、住所を記した公式のページを確かめることができませんでした。大阪湾に面した台地の上にあります。
淡輪ニサンザイ古墳の大きさはどれくらいですか。
墳丘の実測値は公式のページでは確認できませんでした。墳丘は三段で、両方のくびれ部に方形の造出があり、周囲には二重の濠がめぐらされていました。
淡輪ニサンザイ古墳はいつ作られましたか。
5世紀中葉から後半、古墳時代中期と推定されています。この古墳の築造をもって、この地での大型古墳の築造は終わります。
ニサンザイとはどういう意味ですか。
「ミササギ」がなまった呼び方とされます。ミササギは陵のことで、もともとは古墳を指す一般名詞でした。堺市のニサンザイ古墳も同じ由来です。
淡輪ニサンザイ古墳と併せて覚えたい言葉・用語
陪塚(ばいちょう)
大きな古墳のそばに築かれた小さな古墳。この古墳では6基が現存し宮内庁の管理下にある。
造出(つくりだし)
くびれ部の横に張り出した壇のような部分。祭りを行った場所と考えられている。
須恵質(すえしつ)
須恵器と同じように高温で焼かれ、かたく灰色になった質。埴輪にもこの質のものがある。
書陵部紀要(しょりょうぶきよう)
宮内庁書陵部が出す刊行物。陵墓の調査結果は、多くがここで公表される。
淡輪ニサンザイ古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。