石棚と石梁をもつ独特の石室が並ぶ、和歌山の特別史跡の古墳群。
岩橋千塚古墳群とはどんな古墳か
和歌山県和歌山市岩橋にある、国の特別史跡に指定された大規模な古墳群です。文化庁は、指定面積を1450110.17平方メートル、指定年月日を1931年7月31日、追加年月日を2025年9月18日としています。指定の基準は「貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡」です。
基数の伝え方は資料によって幅があります。文化庁の解説文は「概数五百以上」とし、大きいものは封土の直径約三十メートル・高さ約八メートルと記しています。いっぽう和歌山県教育委員会の報告では、古墳時代前期から終末期にかけて岩橋山塊の上に築かれた978基からなる古墳群とされています。
石室に緑泥片岩の板石を用い、奥壁に沿って石棚を設け、側壁の間に石梁を架けるという造りが特徴で、岩橋型横穴式石室と呼ばれます。
岩橋千塚古墳群の読み方と別名
読みは「いわせせんづかこふんぐん」です。「岩橋」を「いわはし」と読んでしまいやすいところですが、ここでは「いわせ」です。文化庁の解説文にも、わざわざ読みが添えられています。
「千塚」は、たくさんの塚が集まっているという意味の呼び方です。実際の基数は、文化庁が「概数五百以上」、和歌山県教育委員会が978基としています。数え方や調査の進み方によって、基数は書き換わってきました。
国立国会図書館の典拠データは、読みを「イワセ センズカ コフングン」としています。濁点の位置が資料のあいだで揺れている例です。
岩橋千塚古墳群(いわせせんづかこふんぐん)
文化庁の国指定文化財等データベースが用いるふりがなは「いわせせんづかこふんぐん」。
岩橋千塚古墳群(いわせせんずかこふんぐん)
国立国会図書館の典拠データは「イワセ センズカ コフングン」とし、濁点の位置が異なる読みを載せている。
岩橋(いわせ)
地名。「いわはし」ではなく「いわせ」と読む。文化庁の解説文にも「[[岩橋]いわせ]千塚古墳群」と読みが添えられている。
岩橋千塚古墳群は誰の墓か
この古墳群に葬られた人びとが誰かは、わかっていません。名前の残る特定の人物と結びつけられる根拠は、公式の資料では確かめられませんでした。
わかっているのは、集団としての性格です。和歌山県教育委員会の報告は、異なる階層の古墳が長期間にわたり同一の墓域に築かれたことから、多様な墳形と多様な埋葬施設が存在する、としています。
また同じ報告は、出土品から強い地域色と高い独自性が見られるほか、畿内・九州・朝鮮半島との積極的な交流も確認できる、としています。6世紀以降には、副葬品や埴輪の種類に古墳群の中の階層構成があらわれてくるとも書かれています。
一人の被葬者を当てるのではなく、長い時間をかけて一つの墓域を使い続けた集団の姿が読み取れる。それがこの古墳群の価値です。
断定できない:わかっていない
異なる階層の古墳が長期間にわたり同一墓域に築かれた、と記す。特定の人物名は挙げていない。
陵墓ではなく、国の特別史跡として扱われている:宮内庁の治定は無い
種別を特別史跡とし、指定基準を「貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡」とする。
岩橋千塚古墳群の大きさと形
文化庁は、特別史跡としての指定面積を1450110.17平方メートルとしています。一つの古墳ではなく、山塊の上に広がる古墳群まるごとが指定されているためです。
個々の古墳の大きさについて、文化庁の解説文は次のように記しています。大きいものは封土の直径約三十メートル、高さ約八メートルに及び、小さいものは直径約四メートル、高さ約二メートルにすぎない、と。同じ墓域の中で、直径にして七倍以上の差がある古墳が並んでいるということです。
史跡の面積:1450110.17平方メートル
個々の古墳の規模:大きいもので直径約三十メートル・高さ約八メートル、小さいもので直径約四メートル
古墳の基数(和歌山県教育委員会の報告):978基
岩橋千塚古墳群はいつ作られたか
和歌山県教育委員会の報告は、この古墳群を古墳時代前期から終末期にかけて岩橋山塊の上に築かれたものとしています。一つの時期にまとめて造られたのではなく、何百年ものあいだ造られ続けた墓域です。
同じ報告は、古墳の築造が古墳群の西部から始まり、その後、最大規模の墳が地区を越えて大きく移動し、これと連動するように中型・小型の古墳の築造が各地区でさかんになった、としています。どこに一番大きい古墳を置くかが、時代とともに動いていったということです。
6世紀以降は、すべての横穴式石室で岩橋型の造りが採られ、古墳群としてのまとまりを示すようになります。長野県の大室古墳群と同じく、群の移り変わりを読める場所です。
岩橋千塚古墳群の場所と行き方(観光情報)
この古墳群は、一つの塚を訪ねる場所ではなく、山をひとつ歩く場所です。
駐車場、料金、行き方については、公式のページで確かめられた記載がありませんでした。推測で書くわけにいきませんので、ここでは空欄のままにしてあります。訪ねる前に、和歌山県の公式の案内で確かめてください。
岩橋千塚古墳群
岩橋千塚古墳群の住所:和歌山市岩橋
交通:公式には確認できませんでした
駐車場:公式には確認できませんでした
料金:公式には確認できませんでした
内部見学:宮内庁の陵墓ではなく国の特別史跡ですので、陵墓のような立ち入り禁止の扱いは受けていません。ただし、どの古墳のどこまで入れるか、石室の中を見られるかについては、公式のページで確認できませんでした
文化庁のデータベースは、所在都道府県を和歌山県、所在地(市区町村)を和歌山市岩橋としています。番地までは記載がありません。
古墳群は岩橋山塊という山の上に広がり、前山地区・大日山地区・花山地区・大谷山地区・寺内地区・井辺地区に分かれます。行き方や見学できる範囲は公式のページで確かめられませんでしたので、出かける前に和歌山県立紀伊風土記の丘へお問い合わせください。
岩橋千塚古墳群の発見と調査の歩み
石棚と石梁 ── 岩橋型横穴式石室
この古墳群を有名にしているのは、石室の造りです。文化庁の解説文は、雄大なものは玄室・前室・小室および羨道からなり、玄室の両側壁の間に二個以上の石梁を架け、奥壁に沿って石棚を設けるものがある、と記しています。
石材には緑泥片岩が使われます。板のようにはがれる石なので、薄く割って床から少しずつ内側へせり出しながら積み上げ、天井を大きな板石で覆うという積み方ができます。
石室の構造が多種多様であることが、この古墳群を特別史跡たらしめた理由です。文化庁の解説文も「石室の構造が多種多様であり、わが国の古墳群中においても類例少く、学術上の価値が特に深い」と結んでいます。同じような石棚をもつ石室は、紀ノ川流域や有田川流域にも分布します。
五百以上か、978基か
この古墳群の基数には、二つの数字があります。文化庁の解説文は「概数五百以上」と書き、和歌山県教育委員会の報告は978基としています。
どちらが誤りというわけではありません。文化庁の古い解説文は、史跡指定と追加指定のときに書かれたものです。その後、分布状況を細かく調べる事業が続けられ、数えられる古墳の数が増えました。
古墳群の基数は、調べれば調べるほど増えていきます。同じことは、宮崎県の西都原古墳群や福岡県の八女古墳群でも起きています。この図鑑では、どちらか一方を選ばず、出典を添えて両方を載せています。
一つの墓域を、何百年も使い続ける
和歌山県教育委員会の報告は、この古墳群の意義を次のように整理しています。異なる階層の古墳が長期間にわたって同じ墓域に築かれたため、前方後円墳・円墳・方墳という多様な墳形と、竪穴式石室・粘土槨・木棺直葬・箱式石棺・横穴式石室という多様な埋葬施設が同居している、と。
つまりこの古墳群は、身分の高い人の墓だけを集めた場所ではありません。首長の墓も、その下の人びとの墓も、同じ山に並んでいます。
長い築造期間の中に、古墳づくりの盛衰と階層構造の変化がそのまま残されているというのが、報告の結論です。首長の墓ばかりが並ぶ埼玉古墳群とは、性格が違います。
岩橋千塚古墳群から出土したもの
副葬品は、文化庁の解説文に「玉類・鏡・金環・銅鏃・甲冑・馬具・直刀・須惠器等が出土している」と記されています。武具と馬具がそろっている点が、手がかりになります。
和歌山県教育委員会の報告は、出土品に強い地域色と高い独自性が見られると同時に、外との交流も確認できるとしています。土地の色と外とのつながりが、同じ出土品の中に同居しているということです。
埴輪
和歌山県教育委員会の報告が主な遺物として挙げるもののひとつ。6世紀以降は種類に階層の差があらわれる。
須恵器
高温で焼いた灰色のかたい土器。同じ報告が主な遺物として挙げている。
玉類・鏡・金環
文化庁の解説文が副葬品として挙げるもの。玉類、鏡、金環が並ぶ。
甲冑・馬具・直刀・銅鏃
同じく文化庁の解説文が挙げる副葬品。武具と馬具がそろって出ている。
岩橋千塚古墳群と関連する古墳
岩橋千塚古墳群についてよくある質問
岩橋千塚古墳群は誰の墓ですか。
わかっていません。和歌山県教育委員会の報告は、異なる階層の古墳が長期間にわたり同じ墓域に築かれた、としており、特定の人物名は挙げていません。宮内庁の陵墓でもありません。
岩橋千塚古墳群はどこにありますか。
文化庁のデータベースは、所在都道府県を和歌山県、所在地を和歌山市岩橋としています。紀ノ川の南岸にある岩橋山塊の上に広がっています。
岩橋千塚古墳群の大きさはどれくらいですか。
文化庁は特別史跡としての指定面積を1450110.17平方メートルとしています。個々の古墳は、大きいもので直径約三十メートル・高さ約八メートル、小さいもので直径約四メートルです。
岩橋千塚古墳群はいつ作られましたか。
和歌山県教育委員会の報告は、古墳時代前期から終末期にかけて築かれたとしています。6世紀以降はすべての横穴式石室で岩橋型の造りが採られるようになります。
岩橋千塚古墳群の読み方を教えてください。
「いわせせんづかこふんぐん」と読みます。「岩橋」を「いわはし」ではなく「いわせ」と読む点に注意が必要です。国立国会図書館の典拠データは「イワセ センズカ コフングン」としています。
岩橋千塚古墳群と併せて覚えたい言葉・用語
特別史跡(とくべつしせき)
国が指定した史跡のうち、とくに価値が高いとされたもの。史跡よりさらに一段上の扱いになる。
石棚(いしだな)
石室の奥壁に沿って、棚のように差し渡した板石。岩橋型横穴式石室の大きな特徴。
石梁(いしばり)
石室の両側壁の間に、梁のように架け渡した石。天井を支えるはたらきをする。
緑泥片岩(りょくでいへんがん)
緑がかった色の岩石。板のように薄くはがれるため、石室の材料に使いやすい。
岩橋千塚古墳群の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。