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岐阜県

洞ひさご塚古墳とはどんな古墳か|誰の墓か・場所

洞ひさご塚古墳  / ホラヒサゴヅカコフン

前方後円墳 7世紀

消えたと思われていた、いちばん新しい段階の前方後円墳。

洞ひさご塚古墳とはどんな古墳か

岐阜県各務原市各務東町にある古墳です。各務原市は、洞ひさご塚古墳は、各務東町に分布する洞東古墳群25基に含まれる、唯一の前方後円墳ですとしています。

この古墳は昭和期の土地改良によって消滅したと思われていました。ところが工業団地の造成にともなって記録保存のための発掘調査が行われ、各務原市によれば、周濠、墳丘下部、石室跡、外護列石が確認され、古墳の形態を知ることができました。調査は1月から3月まで行われています。

下調べによれば、築造は古墳時代終末期の7世紀後半頃と推定され、最も新しい段階の前方後円墳として全国的にも珍しい例になるとされます。前方後円墳が造られなくなる時代に、なぜここで一基だけ築かれたのかは分かっていません。

洞ひさご塚古墳の読み方と別名

読みは「ほらひさごづかこふん」です。各務原市もひらがなを交ぜて「洞ひさご塚古墳」と表記しています。

「洞」は、山あいのくぼんだ地形を指す語です。各務原市は所在地を各務東町とし、この古墳を洞東古墳群に含めています。洞の東にある古墳のまとまり、という土地の呼び方がそのまま群の名になっています。

「ひさご」は瓢箪のことです。前方後円墳のくびれた形を瓢箪に見立てた名とみられますが、そう説明する公式の資料には行き着けませんでした。ひさご塚という名は、香川県の母神ひさご塚古墳など各地にあります。

洞ひさご塚古墳(ほらひさごづかこふん)

各務原市が用いる名。「洞」は地形を指す語で、ひさごは瓢箪のこと。

洞東古墳群(ほらひがしこふんぐん)

各務東町に分布する25基のまとまり。この古墳はそのなかで唯一の前方後円墳。

ひさご(ひさご)

瓢箪のこと。前方後円墳のくびれた形を瓢箪に見立てた呼び名とみられる。

洞ひさご塚古墳は誰の墓か

この古墳に葬られた人が誰かは、わかっていません。各務原市の案内も、調査で確かめられた遺構を記すにとどまります。宮内庁の陵墓ではなく、史跡の指定も受けていません。

下調べによれば、埋葬施設は後円部の横穴式石室で、南方向に開口していたとされます。盗掘のため石室内の副葬品の多くは失われていますが、調査では鉄製品の破片と須恵器の破片が出土したといいます。

手がかりは、この古墳が置かれた文脈にあります。7世紀後半という時期に前方後円墳を築くことは、当時としてもすでに古い作法でした。全国では方墳や円墳、そして八角墳へと移っていた時期にあたります。

下調べは、各務地域における6世紀から7世紀の群集墳や、6世紀末に操業を開始する美濃須衛窯跡の分布を挙げ、これらの遺跡と古代氏族の各務氏との関係性が注目される、としています。

断定できない:わかっていない

各務原市の案内は調査で確認された遺構を記すのみで、葬られた人にはふれていない。

洞ひさご塚古墳の大きさと形

洞ひさご塚古墳の墳丘の規模を記した公式のページを、確かめられませんでした。各務原市の案内は、調査で周濠・墳丘下部・石室跡・外護列石が確認されたことを記すにとどまります。

下調べによれば、令和7年度の調査時点で墳丘長は約30メートル、後円部の直径は約24メートル、前方部の幅は約17メートルとされます。昭和6年の記録では、後円部の高さは約2.73メートルと記載されているといいます。

墳丘は2段に築かれたと推定され、外表にはチャートを使用した外護列石が認められるとされます。チャートは、硬く割れやすい堆積岩です。葺石ではなく列石で墳丘の裾を押さえる造りは、終末期の古墳に見られる特徴とされます。

洞東古墳群の基数:25基

群のなかでの位置づけ:唯一の前方後円墳

墳丘の規模:公式には確認できませんでした

洞ひさご塚古墳はいつ作られたか

築造の時期を記した公式のページは、確かめられませんでした。各務原市の案内は、調査の結果として遺構が確認されたことを述べるにとどまります。

下調べによれば、古墳時代終末期の7世紀後半頃と推定されます。最も新しい段階の前方後円墳として、全国的にも珍しい例になるとされます。

7世紀後半は、前方後円墳が造られなくなってから久しい時期です。畿内では大阪府太子町の二子塚古墳のような方墳や、多摩市の稲荷塚古墳のような八角墳が築かれていました。

そのなかで、なぜここに前方後円墳が築かれたのか。中央の作法から離れた土地の事情によるのか、あるいは古い形をあえて選んだのか。答えは出ていません。

洞ひさご塚古墳の場所と行き方(観光情報)

各務原市は、この古墳の発掘調査のほかにも、鵜沼古市場遺跡や真名越遺跡、山後2号墳の調査について同じページで知らせています。市の埋蔵文化財調査センターが調査を担っています。

同じ岐阜県では、昼飯大塚古墳野古墳群が知られます。昼飯大塚古墳は県内最大の前方後円墳です。洞ひさご塚古墳は規模では及びませんが、造られた時期の遅さで際立っています。

洞ひさご塚古墳

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洞ひさご塚古墳の住所:各務東町

交通:公式には確認できませんでした

駐車場:公式には確認できませんでした

料金:公式には確認できませんでした

内部見学:各務原市は、工業団地造成にともない記録保存のための発掘調査を行ったとしています。墳丘に立ち入れるかどうかについて、公式の記載は確認できませんでした

所在地として公式に確かめられたのは、各務原市が記す各務東町という町名までです。番地は確かめられませんでした。

注意が要ります。各務原市は、工業団地造成にともない記録保存のための発掘調査を行った、としています。記録保存とは、調査して記録を残したうえで遺跡そのものは失われることを前提とした調査を指します。訪ねる前に、いま何が残っているのかを各務原市へ確かめてください。各務原市は、現地説明会の配布資料を公開しています。

洞ひさご塚古墳の発見と調査の歩み

  1. 消えたと思われていた古墳
  2. 前方後円墳が終わったあとの前方後円墳
  3. チャートで裾を押さえる

消えたと思われていた古墳

各務原市は、この古墳について次のように書いています。

本古墳は昭和期の土地改良により消滅したと思われましたが、調査の結果、周濠、墳丘下部、石室跡、外護列石が確認され、古墳の形態を知ることができました

下調べによれば、1931年(昭和6年)に小川栄一が「古墳調書」に記録した時点では、墳丘が残っていたとされます。その後の土地改良工事で墳丘と石室が削られ、1983年の『各務原市史』には、当時すでに削平されて埋没していると記されました。

つまり50年ほどのあいだ、この古墳は「もう無い」ものとして扱われてきたことになります。

墳丘は失われても、地面に掘り込まれた周濠や墳丘の下部、石室の据えられた跡は残ります。柴又八幡神社古墳も同じように、墳丘を失いながら周溝から墳形が推定されています。

前方後円墳が終わったあとの前方後円墳

この古墳がとくに注目されるのは、造られた時期です。下調べによれば、築造は古墳時代終末期の7世紀後半頃と推定されます。

前方後円墳は、6世紀の終わりごろにはほとんど造られなくなります。7世紀に入ると、大王の墓は方墳から八角墳へと移りました。石舞台古墳は方墳、牽牛子塚古墳中尾山古墳は八角墳です。

その時期に前方後円墳を築くことは、当時としてもすでに古い作法でした。下調べは、この古墳を最も新しい段階の前方後円墳として全国的にも珍しい例、としています。

なぜ古い形を選んだのかはわかりません。土地の側の事情が、中央の流れとは別に働いていた可能性があります。

チャートで裾を押さえる

この古墳の墳丘の外表には、葺石ではなく外護列石が認められるとされます。チャートという石を使ったものです。

外護列石とは、墳丘の裾を石を並べて押さえる造りをいいます。斜面全体を石で覆う葺石とは違い、輪郭を線で示すような仕上がりになります。

チャートは、放散虫という微生物の殻が海底に積もってできた硬い堆積岩です。割れると鋭い縁が出ます。

手近な石で墳丘の裾を押さえる造りです。前期の古墳が河原石を大量に運んで斜面を覆ったのに比べると、はるかに手数が少なくなっています。造る側の力の入れどころが変わったことを示しています。

洞ひさご塚古墳から出土したもの

石室は盗掘されており、副葬品の多くは失われています。下調べによれば、調査で出土したのは鉄製品の破片と須恵器の破片にとどまります。

昭和6年の記録には、長さ約2メートルの天井石が露出していたと記載されているといいます。令和7年度の調査の際には、石室は破壊された状態で確認されました。各務原市は、現地説明会の配布資料を公開しています。

外護列石

チャートを使って墳丘の裾を押さえた列石。各務原市が調査で確認したとしている。

石室跡

後円部にあった横穴式石室の跡。南方向に開口していたとされ、破壊された状態で確認された。

鉄製品片

盗掘を免れて残った副葬品の破片。石室内の副葬品の多くは失われている。

須恵器片

調査で出土した土器の破片。近くには6世紀末に操業を始める美濃須衛窯跡がある。

洞ひさご塚古墳と関連する古墳

洞ひさご塚古墳についてよくある質問

洞ひさご塚古墳は誰の墓ですか。

わかっていません。石室は盗掘されており、副葬品の多くが失われています。宮内庁の陵墓ではなく、史跡の指定も受けていません。

洞ひさご塚古墳はどこにありますか。

各務原市は所在地を各務東町としています。番地までは公式のページで確かめられませんでした。洞東古墳群25基のなかにあります。

洞ひさご塚古墳の大きさはどれくらいですか。

公式の数字は確かめられませんでした。下調べでは墳丘長約30メートル、後円部の直径約24メートル、前方部の幅約17メートルとされます。

洞ひさご塚古墳はいつ作られましたか。

公式のページでは確かめられませんでした。下調べでは7世紀後半頃とされ、最も新しい段階の前方後円墳として全国的にも珍しい例とされます。

洞ひさご塚古墳を見に行けますか。

各務原市は、工業団地造成にともない記録保存のための発掘調査を行ったとしています。いま何が残っているかは、各務原市へ確かめてください。

洞ひさご塚古墳と併せて覚えたい言葉・用語

外護列石(がいごれっせき)

墳丘の裾を石を並べて押さえる造り。斜面全体を覆う葺石とは仕上がりが違う。

チャート(ちゃーと)

微生物の殻が海底に積もってできた硬い堆積岩。この古墳の列石に使われている。

記録保存(きろくほぞん)

調査して記録を残したうえで、遺跡そのものは失われることを前提とした発掘のこと。

終末期古墳(しゅうまつきこふん)

7世紀を中心とする最後の段階の古墳。方墳・円墳・八角墳が中心になる。

洞ひさご塚古墳の参考資料

この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。

  1. 各務原市