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奈良県

念仏寺山古墳(開化天皇陵)とはどんな古墳か|誰の墓か・場所

念仏寺山古墳  / ネンブツジヤマコフン

前方後円墳 5世紀

奈良の街なかに残る、開化天皇陵として治定された前方後円墳。

念仏寺山古墳とはどんな古墳か

奈良県奈良市油阪町にある前方後円墳です。宮内庁はこの古墳を第9代開化天皇の春日率川坂上陵として管理し、陵形を「円丘」、所在地を奈良県奈良市油阪町、最寄りをJR奈良駅から徒歩約8分としています。

奈良市の中心部、三条通りと油阪通りの間という都会のただ中にあります。宮内庁の記す陵形は「円丘」ですが、考古学の側ではこの古墳を前方後円墳としています。

天皇陵として治定されているため、本格的な調査は行われていません。近世には近くの念仏寺の寺域とされて墓地に使われ、墳丘が削られました。幕末に墓地が移されて陵の修補がなされましたが、そのときの工事で墳丘は大きく姿を変えたとみられています。西側の外堤から出た円筒埴輪の破片などから、5世紀前半の築造と考えられています。

念仏寺山古墳の読み方と別名

読みは「ねんぶつじやまこふん」です。近世に古墳域が念仏寺の寺域とされ、その墓地として使われたことにちなむ名です。古墳の名が、そこに建った寺の名から付けられたということです。

宮内庁が用いるのは春日率川坂上陵(かすがのいざかわのさかのえのみささぎ)という陵名です。長い名ですが、春日の率川という土地の坂の上、という意味の地名がそのまま陵名になっています。

そのほか、坂上山古墳、弘法山古墳、高坊山古墳といった呼び方も知られています。なお長野県松本市の弘法山古墳とは別の古墳です。

念仏寺山古墳(ねんぶつじやまこふん)

考古学の側で用いられる名。近世に古墳域が念仏寺の寺域とされたことにちなむ。

春日率川坂上陵(かすがのいざかわのさかのえのみささぎ)

宮内庁が用いる正式な陵名。行政上の扱いを示す名で、被葬者が確かめられたことを意味しない。

坂上山古墳(さかがみやまこふん)

別の呼び方。陵名の「坂上」にちなむ名で、研究の文献ではこの名が使われることがある。

弘法山古墳(こうぼうやまこふん)

同じ古墳の別称のひとつ。高坊山古墳とも書かれる。長野県松本市の弘法山古墳とは別の古墳。

念仏寺山古墳は誰の墓か

宮内庁は、この古墳を第9代開化天皇の春日率川坂上陵として管理しています。宮内庁は開化天皇の父を孝元天皇、母を皇后欝色謎としています。

ただし治定は行政上の扱いであって、学術的な確定ではありません。この古墳の場合、二重の意味で慎重に読む必要があります。

ひとつは、古墳の年代です。西側の外堤から出土した円筒埴輪の破片などから、築造は5世紀前半とみられています。もうひとつは、開化天皇という人物そのものについての問題です。第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの八代は「欠史八代」と呼ばれ、日本書紀と古事記に事績がほとんど記されていません。実在をめぐって長く議論が続いている人びとです。

実際に葬られた人が誰かは、わかっていません。天皇陵として治定されているため本格的な調査ができず、埋葬施設の姿も明らかになっていません。

宮内庁の治定(行政上の扱いで、学術的な確定ではありません):第9代開化天皇

陵名を春日率川坂上陵、陵形を円丘、所在地を奈良県奈良市油阪町とする。

断定できない:確かめられていない

宮内庁の記す陵形は「円丘」で、考古学が示す前方後円墳という墳形とは異なる。

念仏寺山古墳の大きさと形

宮内庁が公表しているのは、陵名・陵形・所在地・交通アクセスといった項目までで、墳丘の実測値は記されていません。ここでは、確かめられた項目だけを一覧に載せています。

宮内庁が記す陵形は円丘です。いっぽう考古学の側では、この古墳を前方部を南南東に向けた前方後円墳としています。いま現地に立っても、後円部と前方部の境ははっきりしません。段築は見られず、後円部から前方部にかけての墳頂も平らになっています。

姿がわかりにくくなったのは、二度の改変によります。近世に念仏寺の墓地として使われた際に墳丘が削られ、幕末の陵墓修築でさらに手が加えられました。埋葬施設は明らかでありません。

陵名:春日率川坂上陵(かすがのいざかわのさかのえのみささぎ)

陵形(宮内庁の記載):円丘

所在地:奈良県奈良市油阪町

念仏寺山古墳はいつ作られたか

築造は5世紀前半、古墳時代中期と推定されています。根拠は、西側の外堤から出土した円筒埴輪の破片などです。

墳丘の中は調べられていませんので、年代は外側から集められた資料でしぼりこまれています。同じ奈良市の市庭古墳佐紀盾列古墳群の大型古墳と、ほぼ同じころにあたります。

この古墳が立つ場所は、のちに営まれた平城京では左京三条六坊四坪にあたります。平城京が造られる前、この一帯には広い範囲に古墳が分布していましたが、造営にあたって多くが壊されました。念仏寺山古墳と宝来山古墳は、そのなかで生き残った数少ない古墳です。

念仏寺山古墳の場所と行き方(観光情報)

奈良市には、この古墳のほかに宝来山古墳、市庭古墳、ウワナベ古墳佐紀石塚山古墳佐紀高塚古墳といった大型の古墳があります。多くは平城宮跡の北側に集まっていますが、念仏寺山古墳だけは市街地の中心にあります。

どれも宮内庁が管理する陵墓で、墳丘には入れません。参拝時間は宮内庁の記載にしたがってください。

念仏寺山古墳(開化天皇 春日率川坂上陵)

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念仏寺山古墳(開化天皇 春日率川坂上陵)の住所:奈良県奈良市油阪町

交通:宮内庁は交通アクセスを「JR 奈良駅から徒歩約8分」としています

駐車場:公式には確認できませんでした

料金:公式には確認できませんでした

内部見学:宮内庁が管理する陵墓で、墳丘に立ち入ることはできません。拝所までは参拝でき、宮内庁は参拝可能な曜日を「原則、年間をとおして参拝可能」、参拝時間を「原則、8時30分~17時」としています

宮内庁が示す所在地は奈良県奈良市油阪町です。JR奈良駅から徒歩約8分という、この図鑑に載る古墳のなかでもとくに駅から近い一基です。

三条通りと油阪通りの間、ビルと商店にはさまれた一角に、こんもりとした木立が残っています。大型の前方後円墳が、奈良の街なかにそのまま残っているということです。拝所までは参拝できますので、奈良観光の合間に立ち寄ることができます。

念仏寺山古墳の発見と調査の歩み

  1. 寺の墓地になった古墳
  2. 欠史八代の天皇の陵
  3. 平城京を生きのびた古墳

寺の墓地になった古墳

この古墳は、近世には近くの念仏寺の寺域とされ、その墓地として使われていました。名前の由来もそこにあります。

墓地として使われるあいだ、墳丘は削られていきました。幕末になって墓地は移され、陵の修補が行われます。ところが、その修築工事によって墳丘はさらに大きな改変を受けたとみられています。守るための工事が、古墳の姿を変えてしまったということです。

現在、段築は見られず、後円部と前方部の境も不明瞭で、墳頂も平らになっています。1975年の鳥居の建て替えや、2008年度の鳥居の改築にともなう調査では、江戸時代の墓地に関連する蔵骨器・木棺・人骨が出土しました。古墳から出たものではなく、そのあとに墓地として使われた時代のものです。

欠史八代の天皇の陵

宮内庁は、この古墳を第9代開化天皇の陵としています。開化天皇は、いわゆる欠史八代の最後にあたる人物です。

欠史八代とは、第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの八代をいいます。日本書紀と古事記に、系譜は記されているものの事績がほとんど書かれていないため、そう呼ばれます。この八代については、実在をめぐって長く議論が続いています。

開化天皇の陵について、日本書紀は「春日率川坂本陵(坂上陵)」、古事記は「伊邪河之坂上」の所在とし、延喜式諸陵寮は「春日率川坂上陵」と記します。これらが、この古墳にあてられました。ただし文久の修陵以前は、後円部の墳頂にある円い高まりの部分だけが開化天皇陵と見なされていたといいます。

平城京を生きのびた古墳

この古墳がある場所は、のちに営まれた平城京では左京三条六坊四坪にあたります。つまり、平城京の街区のただ中です。

平城京が造られる前、この一帯には広い範囲に古墳が分布していました。ところが造営にあたって、その多くが壊され、削られました。奈良市の市庭古墳は前方部を削り取られ、神明野古墳は第2次大極殿跡の下に埋まっています。

そのなかで、念仏寺山古墳と宝来山古墳は残りました。なぜこの二基が残ったのかは、はっきりしていません。都を造る側にとって、壊してよい古墳と壊せない古墳の区別があったのかもしれません。念仏寺山古墳は、消滅した古墳とともに一つの古墳群を形づくっていたと考えられています。

念仏寺山古墳から出土したもの

この古墳から出土したもののうち、古墳時代のものと言えるのは、西側の外堤から出た円筒埴輪の破片などに限られます。

鳥居の工事のたびに出てくるのは、江戸時代の蔵骨器・木棺・人骨です。一つの塚が、五世紀の墓であり、江戸時代の墓地であり、いまは陵墓である。その重なりが出土品に表れています。

円筒埴輪

西側の外堤から出土した破片。この古墳の築造を5世紀前半とする手がかりになっている。

蔵骨器

1975年と2008年度の調査で出土。古墳のものではなく、江戸時代に墓地として使われた時代のもの。

木棺

同じく江戸時代の墓地に関連するもの。鳥居の工事にともなう立会調査で見つかった。

人骨

2008年度の鳥居改築工事にともなう立会調査で出土。こちらも江戸時代のものとされる。

念仏寺山古墳と関連する古墳

念仏寺山古墳についてよくある質問

念仏寺山古墳は誰の墓ですか。

宮内庁は第9代開化天皇の春日率川坂上陵として治定していますが、これは行政上の扱いです。築造は5世紀前半とみられ、実際に葬られた人はわかっていません。

念仏寺山古墳はどこにありますか。

宮内庁は所在地を奈良県奈良市油阪町としています。奈良市の中心部、三条通りと油阪通りの間にあり、JR奈良駅から徒歩約8分です。

念仏寺山古墳の大きさはどれくらいですか。

宮内庁は墳丘の実測値を公表していません。宮内庁の記す陵形は円丘ですが、考古学の側では前方部を南南東に向けた前方後円墳としています。

念仏寺山古墳はいつ作られましたか。

西側の外堤から出土した円筒埴輪の破片などから、5世紀前半と推定されています。平城京が造られたのは、それよりおよそ300年あとです。

念仏寺山古墳の中に入れますか。

宮内庁が管理する陵墓ですので、墳丘に立ち入ることはできません。拝所までは参拝でき、宮内庁は原則として年間をとおして、8時30分から17時までとしています。

念仏寺山古墳と併せて覚えたい言葉・用語

欠史八代(けっしはちだい)

第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの八代。記紀に系譜はあるが事績がほとんど記されていない。

文久の修陵(ぶんきゅうのしゅうりょう)

幕末に幕府が行った陵墓の整備事業。いまの治定の多くは、このときに定まった。

外堤(がいてい)

古墳の濠の外側にめぐらされた土手。ここから出た埴輪が、年代を知る手がかりになる。

蔵骨器(ぞうこつき)

火葬した骨を納める器。古墳時代のものではなく、後世に墓地として使われたことを示す。

念仏寺山古墳の参考資料

この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。

  1. 宮内庁