平城宮の造営で前方部を削られ、後円部だけが残った巨大前方後円墳。
市庭古墳とはどんな古墳か
奈良県奈良市佐紀町にある古墳です。堺市の古墳大きさランキング(日本全国版)は「市庭古墳(平城陵)」の名で全長約250メートル、全国第14位に挙げ、所在地を奈良県奈良市佐紀町としています。
宮内庁はこの古墳を第51代平城天皇の楊梅陵として管理しています。ただし宮内庁が記す陵形は「前方後円」ではなく円丘です。地上に残っているのが後円部の一部だけだからです。前方部は平城宮の造営のときに削り取られてしまいました。
長いあいだ、直径100メートルを超える最大級の円墳だと考えられてきました。のちの調査で、本来は前方部を南に向けた前方後円墳であることがわかりました。平城宮跡の大極殿跡のすぐ北にあり、ウワナベ古墳やコナベ古墳と同じ佐紀盾列古墳群に属します。
市庭古墳の読み方と別名
読みは「いちにわこふん」です。市庭という地名にちなむ、考古学の側の呼び方です。
いっぽう宮内庁は、この古墳を楊梅陵(やまもものみささぎ)と呼びます。第51代平城天皇の陵として管理しているためです。堺市の古墳大きさランキングは「市庭古墳(平城陵)」と書き、二つの立場の名を並べています。
平城天皇は9世紀の人物ですが、この古墳は5世紀前半に築かれたと考えられています。名の並びの背後に、400年近い時間の差が隠れているということです。
市庭古墳(いちにわこふん)
考古学の側で用いられる名。地名にちなむ呼び方で、被葬者を決めずに古墳そのものを指す。
平城陵(へいぜいりょう)
堺市の古墳大きさランキングが括弧に入れて併記している名。宮内庁の治定にもとづく。
楊梅陵(やまもものみささぎ)
宮内庁が用いる正式な陵名。行政上の扱いを示す名で、被葬者が確かめられたことを意味しない。
市庭古墳は誰の墓か
宮内庁は、この古墳を第51代平城天皇の楊梅陵として管理しています。宮内庁が示す所在地は奈良県奈良市佐紀町、陵形は円丘です。
しかし治定は行政上の扱いであって、学術的な確定ではありません。この古墳の場合、その食い違いはとくにはっきりしています。円筒埴輪や動物埴輪が出土しており、築造は古墳時代中期前半、5世紀前半と見られています。いっぽう平城天皇は平安時代の人物です。
平城京が造られる前からそこにあった古墳が、平城京の時代の天皇のために造られたはずはありません。この点から、治定に否定的な見方が多く示されています。
もし現在の治定が正しいとすれば、平城天皇には新しい陵が造られず、すでにあった古墳に追葬されたことになります。実際に葬られた人が誰かは、わかっていません。
宮内庁の治定(行政上の扱いで、学術的な確定ではありません):第51代平城天皇
陵名を楊梅陵、陵形を円丘、所在地を奈良県奈良市佐紀町とする。
断定できない:確かめられていない
堺市の一覧は「市庭古墳(平城陵)」と併記し、考古学上の名が別にあることを示している。
市庭古墳の大きさと形
堺市の古墳大きさランキング(日本全国版)は、この古墳を全長約250メートル、全国第14位としています。同じ順位には奈良県桜井市のメスリ山古墳が並びます。
ただし、いま地上に見えているのは後円部の一部だけです。宮内庁が記す陵形が「円丘」なのはそのためで、前方部は平城宮の造営で削られ、地上から消えています。かつては直径100メートルを超える最大級の円墳と思われていました。
のちの調査で、本来は前方部を南に向けた前方後円墳であることが判明しました。葺石、くびれ部両側の造出、二重濠の一部も確認されています。同じように平城宮の造営で壊された古墳としては、第2次大極殿跡の下にある神明野古墳が知られます。
墳丘の長さ:約250メートル
古墳大きさランキング(日本全国版)の順位:第14位
陵名:楊梅陵(やまもものみささぎ)
所在地・陵形(宮内庁):奈良県奈良市佐紀町/円丘
市庭古墳はいつ作られたか
市庭古墳の場所と行き方(観光情報)
佐紀盾列古墳群は、平城宮跡の北側に広がる古墳群です。市庭古墳はその東群の西端にあたり、東にはウワナベ古墳やコナベ古墳、西には佐紀石塚山古墳や佐紀高塚古墳が並びます。
どれも宮内庁が管理する陵墓か陵墓参考地で、墳丘には入れません。平城宮跡から北へ歩けば、いくつもの巨大な森を続けて見ることができます。参拝時間は宮内庁の記載にしたがってください。
市庭古墳(平城天皇 楊梅陵)
市庭古墳(平城天皇 楊梅陵)の住所:奈良県奈良市佐紀町
交通:宮内庁は交通アクセスを「(バス停)平城宮跡・遺構展示館から徒歩約5分」としています
駐車場:公式には確認できませんでした
料金:公式には確認できませんでした
内部見学:宮内庁が管理する陵墓で、墳丘に立ち入ることはできません。拝所までは参拝でき、宮内庁は参拝可能な曜日を「原則、年間をとおして参拝可能」、参拝時間を「原則、8時30分~17時」としています
宮内庁が示す所在地は奈良県奈良市佐紀町です。堺市の古墳大きさランキングも同じく奈良市佐紀町としており、この古墳については二つの資料の住所が一致しています。
最寄りは平城宮跡・遺構展示館のバス停です。平城宮跡の広い原っぱの北の端に、こんもりとした森が見えます。それがこの古墳の後円部です。平城宮跡を歩くついでに、必ず目に入る位置にあります。
市庭古墳の発見と調査の歩み
前方部は、どこへ消えたのか
この古墳の前方部は、いま地上にありません。平城宮を造るときに削り取られたためです。
長いあいだ、この古墳は最大級の円墳だと思われていました。宮内庁の記す陵形がいまも「円丘」なのは、その見方が残っているためです。ところがのちの発掘調査で、削られた前方部の跡が地中に見つかり、本来は前方部を南に向けた前方後円墳だったことがわかりました。
地上から消えた部分が、地面の下には残っていたということです。葺石、くびれ部両側の造出、二重濠の一部も、このとき確認されました。同じように平城宮の造営で壊された古墳としては、第2次大極殿跡の下にある神明野古墳があります。
9世紀の天皇と、5世紀の古墳
宮内庁は、この古墳を平城天皇の楊梅陵としています。平城天皇は桓武天皇の子で、平安時代のはじめの人物です。
いっぽう古墳の築造は、出土した埴輪から5世紀前半と見られています。およそ400年の開きがあります。
平城京が造られる前からここに古墳があった以上、この古墳が平城天皇のために新しく造られたものでないことは明らかです。そのため、治定に否定的な見方が多く出されています。現在の治定が正しいとすれば、平城天皇には新しい陵が造られず、すでにあった古墳に葬られたことになります。そのように考える研究者もいますが、確かめられてはいません。
同じ佐紀盾列古墳群の佐紀高塚古墳でも、4世紀の古墳が8世紀の称徳天皇の陵に治定されるという、よく似たことが起きています。
平安時代の人は、どの古墳を誰の墓と考えていたか
いまの治定は、明治以降に定まったものです。しかし古墳を誰の墓と考えるかは、時代によって動いてきました。
研究者の今尾文昭は、延喜式に垂仁天皇陵として記される菅原伏見東陵をこの市庭古墳に、安康天皇陵として記される菅原伏見西陵を宝来山古墳にあてる見方を示し、平安時代当時の認識が江戸時代以降の治定とは異なっていた可能性を指摘しています。
つまり、同じ古墳が、時代によって別の人物の墓とされてきたということです。治定を動かない事実として読まないほうがよいのは、こうした経緯があるためです。
市庭古墳から出土したもの
この古墳から出ているのは、円筒埴輪と動物埴輪です。埋葬施設の中から何が出たかは、わかっていません。後円部の中心は宮内庁が管理する陵墓の区域にあたるため、掘ることができないからです。
削られた前方部のほうは陵墓の区域から外れており、そこで葺石や造出、二重濠の一部が確認されました。壊された部分のほうが、かえって多くのことを教えてくれた古墳です。
円筒埴輪
筒の形をした埴輪。この古墳の築造年代を5世紀前半とする手がかりになっている。
動物埴輪
動物をかたどった形象埴輪。円筒埴輪とともに出土している。
葺石
墳丘の斜面を覆う石。削られた前方部の調査で確認された。
造出
くびれ部の両側に張り出した平らな壇。祭りを行った場所と考えられている。
市庭古墳と関連する古墳
市庭古墳についてよくある質問
市庭古墳は誰の墓ですか。
宮内庁は第51代平城天皇の楊梅陵として治定していますが、古墳の築造は5世紀前半と見られ、平安時代の平城天皇とは400年近い開きがあります。実際に葬られた人はわかっていません。
市庭古墳はどこにありますか。
宮内庁は所在地を奈良県奈良市佐紀町としています。平城宮跡の大極殿跡のすぐ北にあり、最寄りは平城宮跡・遺構展示館のバス停から徒歩約5分です。
市庭古墳の大きさはどれくらいですか。
堺市の古墳大きさランキング(日本全国版)は全長約250メートル、全国第14位としています。ただし地上に残るのは後円部の一部だけで、宮内庁の記す陵形は円丘です。
市庭古墳はいつ作られましたか。
出土した円筒埴輪や動物埴輪から、古墳時代中期前半、5世紀前半と見られています。平城京が造られたのは8世紀のはじめですから、それよりおよそ300年前になります。
市庭古墳の中に入れますか。
宮内庁が管理する陵墓ですので、墳丘に立ち入ることはできません。拝所までは参拝でき、宮内庁は原則として年間をとおして、8時30分から17時までとしています。
市庭古墳と併せて覚えたい言葉・用語
円丘(えんきゅう)
宮内庁が陵墓の形をあらわすときに使う語のひとつ。丸い塚の形をいう。考古学でいう円墳と必ず一致するとは限らない。
造出(つくりだし)
前方後円墳のくびれ部の横に張り出した、平らな壇のような部分。祭りを行った場所と考えられている。
二重濠(にじゅうごう)
墳丘のまわりに二重にめぐらされた濠。大王級の古墳に見られることが多い。
追葬(ついそう)
すでに造られている古墳に、あとから別の人を葬ること。横穴式石室をもつ古墳でよく行われた。
市庭古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。