奈良市北部の丘に巨大古墳が並ぶ、大王の墓を含む古墳群。
佐紀盾列古墳群とはどんな古墳か
奈良盆地の北をかぎる佐紀丘陵の上に広がる古墳群です。文化庁は、この丘陵に「著名な佐紀盾列古墳群が所在する」と書いています。
堺市がまとめた全国の大きさ順の一覧には、この群の古墳がいくつも並びます。五社神古墳が約275メートル、ウワナベ古墳が約255メートル、市庭古墳が約250メートル、ヒシアゲ古墳が約219メートル、佐紀石塚山古墳が約218メートル、陵山古墳が約207メートル、コナベ古墳が約204メートルです。
200メートルを超える古墳がこれだけ集まる場所は、全国でも限られています。奈良盆地の東南部にあった大和・柳本の古墳群が衰えたあと、4世紀の後半から5世紀の前半にかけて、王の墓がこの丘に移ったと考えられています。群の北側にある塩塚古墳は国の史跡です。
佐紀盾列古墳群の読み方と別名
読みは「さきたてなみこふんぐん」です。ただし読みは一つに定まっていません。
文化庁の解説文は、この群の名に「さきたたなみ」とふりがなを振っています。「たてなみ」と「たたなみ」、どちらの読みも使われています。
「盾列」という言葉は、周濠の形が盾のようで、それらが北に後円部、南に前方部を向けて平行に、東西一直線に並んでいる様子を表したものと考えられています。平城京へ都が移ったあとに定着した新しい言葉だとする見方があります。名の由来である「狭城楯列陵」は、五社神古墳と佐紀石塚山古墳の陵名でした。
佐紀盾列古墳群(さきたてなみこふんぐん)
もっとも広く使われる呼び方。「盾列」は「楯列」とも書かれ、周濠の形と並び方に由来するとされる。
佐紀盾列(さきたたなみ)
文化庁の解説文が振っているふりがな。「さきたてなみ」と「さきたたなみ」の両方が使われている。
佐紀古墳群(さきこふんぐん)
奈良県立橿原考古学研究所が用いる呼び方。古代から使われてきた地名だけで呼ぶ形。
佐紀盾列古墳群は誰の墓か
この群には、宮内庁が陵墓として管理する古墳がいくつも含まれます。しかし、そのどれについても、被葬者が発掘で確かめられたわけではありません。
五社神古墳は神功皇后の陵、佐紀石塚山古墳は成務天皇の陵、佐紀陵山古墳は日葉酢媛命の陵、市庭古墳は平城天皇の陵、ヒシアゲ古墳は磐之媛の陵として治定されています。いずれも行政上の扱いであって、学術的に確かめられたものではありません。
研究の側からは、4世紀の後半から5世紀の前半にかけての大王の墓を多く含むとみられています。治定は入れ替わってきました。五社神古墳は、元禄のころには称徳天皇陵とされていました。
断定できない:個々の被葬者は確かめられていない
文化庁の解説文は、群の中の位置関係と塩塚古墳の規模を記すのみで、被葬者にはふれていない。
宮内庁の治定:五社神古墳は神功皇后の陵として治定
堺市の一覧に「五社神古墳(神功陵)」と併記されている。治定にもとづく呼び方。
宮内庁の治定:陵山古墳は日葉酢媛の陵として治定
同じ一覧に「陵山古墳(日葉酢媛陵)」とある。これが佐紀陵山古墳のこと。
佐紀盾列古墳群の大きさと形
堺市の全国の大きさ順の一覧を見ると、この群の古墳の位置がよくわかります。五社神古墳は全国第12位、ウワナベ古墳は第13位、市庭古墳は第14位で、上位20位のうち4基がこの丘に集まっています。
文化庁は、群の北にある塩塚古墳について、墳丘は全長108メートル、後円部径65メートル、高さ8.5メートル、前方部幅52メートル、高さ3.2メートルで、3段築成、埴輪をめぐらし葺石をもつと書いています。
佐紀盾列古墳群の中にあって5世紀前半に含ませうる重要な古墳である
文化庁の解説文はこう結んでいます。塩塚古墳は、この群の中では小さいほうです。
五社神古墳:約275メートル(全国第12位)
ウワナベ古墳:約255メートル(全国第13位)
市庭古墳:約250メートル(全国第14位)
ヒシアゲ古墳・佐紀石塚山古墳・陵山古墳・コナベ古墳:約219/約218/約207/約204メートル
塩塚古墳:全長108メートル、後円部径65メートル、前方部幅52メートル
佐紀盾列古墳群はいつ作られたか
佐紀盾列古墳群の場所と行き方(観光情報)
文化庁は、塩塚古墳の位置を「歌姫の台地の西寄り」とし、西に神功皇后陵・成務天皇陵・日葉酢姫陵、東にウワナベ・コナベ古墳が望見されると書いています。一つの場所から、いくつもの巨大古墳が見えます。南には平城宮跡が広がります。
佐紀盾列古墳群(塩塚古墳)
佐紀盾列古墳群(塩塚古墳)の住所:奈良市歌姫町・佐紀町
交通:公式には確認できませんでした
駐車場:公式には確認できませんでした
料金:公式には確認できませんでした
内部見学:群の中で宮内庁が陵墓として管理している古墳は、墳丘に立ち入ることができません。拝所までの参拝になります。塩塚古墳は国の史跡です。立ち入りの可否について、公式ページでの記載は確認できませんでした。
住所として確かめられたのは、文化庁が塩塚古墳について記す奈良市歌姫町・佐紀町だけです。群全体の住所を示した公式ページは確認できませんでした。
堺市の一覧によれば、五社神古墳は奈良市山陵町、市庭古墳とヒシアゲ古墳は奈良市佐紀町、ウワナベ古墳は奈良市法華寺町にあります。群は東西に長く、端から端まで歩くとかなりの距離があります。
佐紀盾列古墳群の発見と調査の歩み
平城京は、古墳の上に造られた
この群でいちばん驚かされるのは、古墳が壊されていることです。
市庭古墳は、堺市の一覧で約250メートルとされる巨大な前方後円墳ですが、前方部が削り取られています。佐紀池ノ尻古墳にいたっては、完全に削平されて住宅地になり、いまは地上に何も残っていません。
原因は、平城京の造営です。8世紀に都を造るにあたって、じゃまになった古墳が壊されました。造ってから三百年ほどしか経っていない、大王級の墓です。それでも都の区画のほうが優先されました。古墳が手をつけられないものになるのは、ずっと後の時代のことです。
陵墓に、初めて研究者が入った日
「盾を並べたよう」という名の意味
「盾列」という言葉は、この古墳群の並び方を言い表したものと考えられています。
古墳のまわりの周濠は、盾のような形をしています。それが、北に後円部、南に前方部という向きをそろえて、互いに平行に、東西一直線に並んでいる。上から見れば、盾を横に並べたように見えたのでしょう。
この言葉は、平城京へ都が移ったあとに定着した新しいものだとする見方があります。名を付けたのは、古墳を造った人たちではなく、あとから来てこの並びを見た人たちです。奈良県立橿原考古学研究所は、古代からの地名だけを使って「佐紀古墳群」と呼んでいます。
佐紀盾列古墳群から出土したもの
出土品がよくわかっているのは、陵墓に治定されていない古墳にかぎられます。塩塚古墳は国の史跡で、調査ができました。
いっぽう、群の中心にある巨大古墳の中身は、ほとんどわかっていません。例外は佐紀陵山古墳で、大正の盗掘事件のあとの復旧工事にあわせて記録が作られました。
円筒埴輪
塩塚古墳をはじめ、群の古墳にめぐらされていた。文化庁が塩塚古墳について記す。
葺石
墳丘の斜面を覆う石。文化庁は塩塚古墳が葺石をもつとしている。
粘土槨と木棺
塩塚古墳の後円部中央にある。文化庁は長さ6.3メートル、幅0.65メートルとする。
鉄製品
塩塚古墳の粘土槨から多く発見されている。
佐紀盾列古墳群と関連する古墳
佐紀盾列古墳群についてよくある質問
佐紀盾列古墳群は誰の墓ですか。
個々の被葬者は確かめられていません。五社神古墳が神功皇后、佐紀石塚山古墳が成務天皇、陵山古墳が日葉酢媛の陵として治定されていますが、いずれも行政上の扱いです。
佐紀盾列古墳群はどこにありますか。
奈良市の北西部、佐紀丘陵の上に広がっています。文化庁は群の中の塩塚古墳の所在地を奈良市歌姫町・佐紀町としています。群全体の住所は公式には確認できませんでした。
佐紀盾列古墳群でいちばん大きい古墳はどれですか。
堺市の全国の一覧では、五社神古墳が約275メートルで群の最大です。全国では第12位にあたります。次いでウワナベ古墳が約255メートル、市庭古墳が約250メートルです。
佐紀盾列古墳群はいつ作られましたか。
4世紀の後半から5世紀の前半にかけて営まれたとされます。文化庁は、群の中の塩塚古墳を5世紀前半に含ませうる重要な古墳としています。
佐紀盾列古墳群の読み方を教えてください。
「さきたてなみこふんぐん」と読むのが一般的ですが、文化庁の解説文は「さきたたなみ」とふりがなを振っています。読みは一つに定まっていません。
佐紀盾列古墳群と併せて覚えたい言葉・用語
古墳群(こふんぐん)
同じ地域にまとまって造られた古墳の集まり。一基ずつではなく、群として歴史が読み取れる。
周濠(しゅうごう)
墳丘のまわりをめぐる濠。佐紀盾列の名は、この周濠の形と並び方に由来するとされる。
粘土槨(ねんどかく)
木棺を粘土で包んで埋める埋葬施設。石室を造らない、前期から中期に多い方式。
削平(さくへい)
墳丘を削って平らにすること。平城京の造営で削られた古墳がある。
佐紀盾列古墳群の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。