葺石の多さが名の由来。成務天皇陵として治定された佐紀の大型墳。
佐紀石塚山古墳とはどんな古墳か
佐紀石塚山古墳の読み方と別名
読みは「さきいしづかやまこふん」です。石塚山という名は、墳丘に葺石が多く使われていることに由来するとされます。
宮内庁が用いるのは狹城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりのみささぎ)です。佐紀の盾列の、池の後ろ、という土地の様子をそのまま並べた名です。この「盾列」が、古墳群の名の由来にもなっています。
近くには狭城盾列池上陵(五社神古墳)があります。池の後ろと池の上、という一組の名です。堺市の一覧は「佐紀石塚山古墳(成務陵)」と、二つの名を並べて書いています。
佐紀石塚山古墳(さきいしづかやまこふん)
考古学の側で用いられる名。葺石が多く使われていることにちなむとされる。
狹城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりのみささぎ)
宮内庁が用いる正式な陵名。「盾列」は佐紀盾列古墳群の名の由来でもある。
成務陵(せいむりょう)
堺市の古墳大きさランキングが括弧に入れて併記している名。宮内庁の治定にもとづく。
佐紀石塚山古墳は誰の墓か
宮内庁は、この古墳を第13代成務天皇の狹城盾列池後陵として管理しています。宮内庁は成務天皇の父を景行天皇、母を皇后八坂入媛としています。
ただし治定は行政上の扱いであって、学術的な確定ではありません。しかもこの古墳の治定は、歴史の途中で一度動いています。続日本後紀によれば、この古墳は神功皇后の狭城盾列後陵と取り違えられていた時期がありました。承和10年(843年)に、改めて北を神功皇后陵、南を成務天皇陵と決め直した記録が残っています。
江戸時代の記録によれば、後円部には竪穴式石室と長持形石棺があったと推定されます。鏡・玉・剣などが盗掘されたらしいのですが、詳しいことはわかっていません。実際に葬られた人が誰かは、決まっていません。
宮内庁の治定(行政上の扱いで、学術的な確定ではありません):第13代成務天皇
陵名を狹城盾列池後陵、陵形を前方後円、所在地を奈良県奈良市山陵町とする。
断定できない:確かめられていない
堺市の一覧は「佐紀石塚山古墳(成務陵)」と併記し、考古学上の名が別にあることを示している。
佐紀石塚山古墳の大きさと形
堺市の古墳大きさランキング(日本全国版)は、この古墳を全長約218メートル、全国第26位としています。同じ一覧では、上に川合大塚山古墳の215メートル、下に築山古墳の210メートルが並びます。
墳丘は三段に築かれています。前方部の前面をのぞいて、周濠の幅は全体に狭くなっています。とくに東側では極端に狭く、佐紀陵山古墳の後円部の濠が、この古墳のくびれ部に食い込んだ状態です。佐紀陵山古墳が先に築かれていたためと考えられますが、どのような理由でこれほど接近させたのかはわかっていません。
周濠の外には、北から東北にかけて三基の陪塚があり、順に「い号」「ろ号」「ほ号」と名付けられています。
墳丘の長さ:約218メートル
古墳大きさランキング(日本全国版)の順位:第26位
陵名:狹城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりのみささぎ)
所在地・陵形(宮内庁):奈良県奈良市山陵町/前方後円
佐紀石塚山古墳はいつ作られたか
築造は古墳時代前期の末ごろと考えられています。根拠は、佐紀陵山古墳など周囲の古墳との位置関係と、墳丘の形です。
天皇陵として治定されているため、墳丘の発掘はできません。年代は、隣り合う古墳との前後関係から推し量られています。周濠が食い込んでいることから、佐紀陵山古墳が先、この古墳があとだとわかります。古墳どうしの重なり方が、時計の役割を果たしているということです。
二つの古墳の時期の差は、数十年ほどとみられています。それほど近い時期に、しかもこれほど接近して築かれたことから、両方の被葬者に親族のような特別な関係があったのではないか、という見方もあります。
佐紀石塚山古墳の場所と行き方(観光情報)
この一帯には陵墓が密集しています。東に佐紀陵山古墳、南に佐紀高塚古墳、北西に五社神古墳。どれも近鉄平城駅から歩ける範囲です。
墳丘には入れませんが、濠の外の道から木立に覆われた姿を見わたせます。参拝時間は宮内庁の記載にしたがってください。
佐紀石塚山古墳(成務天皇 狹城盾列池後陵)
佐紀石塚山古墳(成務天皇 狹城盾列池後陵)の住所:奈良県奈良市山陵町
交通:宮内庁は交通アクセスを「近鉄 平城駅から徒歩約7分」としています
駐車場:公式には確認できませんでした
料金:公式には確認できませんでした
内部見学:宮内庁が管理する陵墓で、墳丘に立ち入ることはできません。拝所までは参拝でき、宮内庁は参拝可能な曜日を「原則、年間をとおして参拝可能」、参拝時間を「原則、8時30分~17時」としています
宮内庁が示す所在地は奈良県奈良市山陵町です。堺市の古墳大きさランキングも同じく奈良県奈良市山陵町としており、この古墳については二つの資料の住所が一致しています。
最寄りは近鉄京都線の平城駅で、徒歩約7分とされています。すぐ南の佐紀高塚古墳は同じ駅から徒歩約8分ですので、二基を続けて参拝できます。東に接する佐紀陵山古墳もすぐそばです。
佐紀石塚山古墳の発見と調査の歩み
843年に、治定が入れ替わった
この古墳の治定は、平安時代に一度動いています。
続日本後紀によれば、この古墳は神功皇后の狭城盾列後陵と取り違えられていた時期がありました。承和10年(843年)、奇異があることを理由に、改めて北を神功皇后陵、南を成務天皇陵と決め直したという記録が残っています。
御陵に関する記録としては、めずらしいものです。平安時代の人びとも、どの塚が誰の墓かをはっきり把握していたわけではなかった、ということがここからわかります。いまの治定は明治以降のものですが、その前にも治定が動いた歴史があった、という点は覚えておく価値があります。同じ佐紀盾列古墳群の佐紀高塚古墳や、奈良市の市庭古墳でも、治定をめぐる議論が続いています。
二度の盗掘事件
この古墳は、記録に残る盗掘を二度受けています。
一度目は平安時代です。扶桑略記は、康平6年(1063年)に興福寺の僧である静範らが成務天皇陵の副葬品を盗掘し、事件が露見して連座した16人が流刑になった、と記しています。
二度目は幕末です。天保15年(1844年)と嘉永元年(1848年)にも盗掘を受け、石棺から多数の勾玉が持ち出されて、奈良奉行所が取り調べたという記録があります。同じ時期に五社神古墳や宝来山古墳も盗掘を受け、付近の住人ら12名が捕らえられました。公武合体を進めるために陵墓の整備を急いでいた幕府は、見せしめとして犯人を厳しく処断しました。
濠が食い込むほど、近くに築く
この古墳の周濠は、前方部の前面をのぞいて全体に幅が狭くなっています。とくに東側では極端に狭く、隣の佐紀陵山古墳の後円部の濠が、この古墳のくびれ部に食い込んだ状態になっています。
先に築かれていたのは佐紀陵山古墳のほうです。あとから築くこの古墳が、隣の濠にぶつかるところまで寄っていったことになります。
なぜ、これほど接近させたのか。理由はわかっていません。二つの古墳の時期の差は数十年ほどとみられており、被葬者どうしに親族関係のような特別なつながりがあったのではないか、という見方があります。同じような接近の例は、宮崎県の男狭穂塚古墳と女狭穂塚古墳にも見られます。あちらは地中レーダー探査で、重なりはなかったことが確かめられました。
佐紀石塚山古墳から出土したもの
この古墳の副葬品は、ほとんどわかっていません。宮内庁が管理する陵墓であるため、墳丘の中を掘ることができないためです。
手がかりは、江戸時代の記録と、盗掘事件の取り調べの記録です。後円部に竪穴式石室と長持形石棺があること、鏡・玉・剣などが持ち出されたことが、そこから推定されています。盗掘の記録が、いまでは数少ない情報源になっているというのは、皮肉なことです。
葺石
墳丘の斜面を覆う石。多く使われていることが石塚山という名の由来とされる。
竪穴式石室
江戸時代の記録から、後円部に存在すると推定されるもの。実際には確かめられていない。
長持形石棺
同じく江戸時代の記録から、石室の中にあると推定されるもの。
勾玉
幕末の盗掘で石棺から持ち出されたと、奈良奉行所の記録に見えるもの。
佐紀石塚山古墳と関連する古墳
佐紀石塚山古墳についてよくある質問
佐紀石塚山古墳は誰の墓ですか。
宮内庁は第13代成務天皇の狹城盾列池後陵として治定していますが、これは行政上の扱いです。平安時代には神功皇后陵と取り違えられていた時期もあり、実際の被葬者はわかっていません。
佐紀石塚山古墳はどこにありますか。
宮内庁は所在地を奈良県奈良市山陵町としています。堺市の古墳大きさランキングも同じ住所を示しており、最寄りは近鉄平城駅から徒歩約7分です。
佐紀石塚山古墳の大きさはどれくらいですか。
堺市の古墳大きさランキング(日本全国版)は全長約218メートル、全国第26位としています。宮内庁は陵形を前方後円としています。
佐紀石塚山古墳はいつ作られましたか。
古墳時代前期の末ごろと考えられています。隣の佐紀陵山古墳の濠が食い込んでいることから、佐紀陵山古墳より後だとわかります。
佐紀石塚山古墳の中に入れますか。
宮内庁が管理する陵墓ですので、墳丘に立ち入ることはできません。拝所までは参拝でき、宮内庁は原則として年間をとおして、8時30分から17時までとしています。
佐紀石塚山古墳と併せて覚えたい言葉・用語
葺石(ふきいし)
墳丘の斜面を覆うために敷き並べた石。崩れを防ぐとともに、古墳を目立たせるはたらきをした。
長持形石棺(ながもちがたせっかん)
板石を組み合わせて作った、長持のような形の棺。大王級の古墳に用いられた。
陪塚(ばいちょう)
大きな古墳のそばに寄り添うように築かれた小さな古墳。この古墳では三基が知られる。
扶桑略記(ふそうりゃっき)
平安時代の歴史書。1063年の盗掘事件を伝え、陵墓の状況を知る手がかりになっている。
佐紀石塚山古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。