本文へ移動

栃木県

摩利支天塚古墳とはどんな古墳か|誰の墓か・場所

摩利支天塚古墳  / マリシテンヅカコフン

前方後円墳 5世紀6世紀

墳丘長120.5メートル。下野国の初代首長の墓と考えられている前方後円墳。

摩利支天塚古墳とはどんな古墳か

摩利支天塚古墳はひとことで言えば下野のはじまりを示す古墳です。栃木県小山市飯塚にあり、思川と姿川にはさまれた台地の上に築かれています。

小山市は墳丘長を120.5メートル、築造時期を5世紀末から6世紀初めとしています。文化庁は長軸の長さを約120メートル、後円部の直径を約70メートル、高さを10メートル、前方部の幅を約70メートル、高さを6メートルと記しています。

小山市の説明はこうです。

墳丘が100メートルを超える栃木県内最大級の前方後円墳のひとつで、古代下毛野国の中心地が思川周辺に移った時の、初代首長のお墓と考えられています

北へ100メートルほどのところに、二代目の墓とされる琵琶塚古墳が並んで築かれています。後円部の頂には摩利支天社がまつられており、古墳の名はこの社から来ています。文化庁は、参道と石段によって墳丘に若干の改変が加えられているとしながらも、旧態をよくとどめていると評価しています。

摩利支天塚古墳の読み方と別名

読みは「まりしてんづかこふん」です。文化庁のふりがなも同じです。

摩利支天は、姿を見られないという性質をもつ仏教の守り神で、武士に信仰されました。後円部の頂にはその摩利支天をまつる社殿が建てられており、本殿は小山市の指定文化財です。

古墳の名前が、後の時代にその上へ建てられた社から付いた例です。所在地の「飯塚」は小山市の大字の名で、周辺の古墳をまとめて飯塚古墳群と呼びます。

摩利支天塚古墳(まりしてんづかこふん)

文化庁の国指定文化財等データベースと小山市が用いる名。

摩利支天塚(まりしてんづか)

「古墳」を省いた言い方。後円部にまつられた摩利支天の社に由来する。

飯塚古墳群(いいづかこふんぐん)

この古墳の周辺に広がる古墳群の名。小山市の資料館が出土品を展示している。

摩利支天塚古墳は誰の墓か

摩利支天塚古墳の被葬者はわかっていません。宮内庁の治定もありません。文化庁の解説文にも、人物を比定する記載はありません。

ただし小山市は、この古墳を「古代下毛野国の中心地が思川周辺に移った時の、初代首長のお墓と考えられています」としています。名前はわからないが、立場はわかっている、という言い方です。

下毛野国は、のちの下野国にあたる地域です。その中心が思川の周辺へ移った、そのはじまりに立つ人物の墓だ、というのが小山市の見立てです。

北の琵琶塚古墳は、小山市によれば二代目の首長の墓と考えられています。二基が並ぶことで、代の移り変わりが土の形になって残りました。

公式の説明:わかっていない

解説文は墳丘の規模と保存状態を述べるだけで、被葬者を比定していない。

学術的な見方のひとつ:下毛野の初代の首長

中心地が思川周辺に移った時の初代首長の墓と考えられるとする。個人名は挙げていない。

摩利支天塚古墳の大きさと形

小山市は墳丘長を120.5メートルとしています。文化庁は長軸の長さを約120メートルとしており、小数点以下の差はありますが、ほぼ同じ数字です。

文化庁の解説文によれば、後円部の直径は約70メートル、高さは10メートル。前方部は幅が約70メートル、高さが6メートルです。後円部と前方部の幅がほとんど同じで、横から見ると前方部のほうが4メートルほど低い、という形になります。

墳丘の東側から北側にかけては、幅約25メートルの空濠が認められています。水を張らない濠です。

古墳は西南を向いています。すぐ北の琵琶塚古墳とは向きをそろえており、文化庁は両者を「同形同大で、その方向を一にする」と述べています。

墳丘長:120.5メートル(文化庁は約120メートルとする)

後円部の直径:約70メートル

後円部の高さ:10メートル

前方部の幅:約70メートル

前方部の高さ:6メートル

空濠の幅:約25メートル

摩利支天塚古墳はいつ作られたか

小山市は築造時期を5世紀末から6世紀初めとしています。古墳時代の中ごろの終わりにあたります。

このころ、近畿では大仙陵古墳(墳丘の長さ486メートル)のような巨大な前方後円墳の時代がひとまず過ぎ、各地の首長がそれぞれの土地で100メートル級の古墳を築いていました。関東では、埼玉古墳群稲荷山古墳から出た鉄剣が、ちょうど同じころの東国の姿を伝えます。

続く琵琶塚古墳は6世紀前半です。文化庁は摩利支天塚古墳を「本地域における典型的な中期古墳」と位置づけています。

摩利支天塚古墳の場所と行き方(観光情報)

二基のあいだに建つ国史跡 摩利支天塚・琵琶塚古墳資料館が見学の起点になります。平成30年4月の開館で、両古墳と周辺の飯塚古墳群の出土品を展示しています。

開館時間は9時00分から16時30分まで、休館日は月曜日(祝日の場合を除く)、祝日の翌日、年末年始等。入館料は無料で、駐車場は普通自動車40台・バス2台分あります。

摩利支天塚古墳

地図で開く

摩利支天塚古墳の住所:栃木県小山市飯塚335

交通:小山駅からはタクシー、または小山市コミュニティバス「おーバス」(羽川線とデマンドバスの乗り継ぎ)を使う

駐車場:古墳そのものの駐車場は公式に確認できませんでした(資料館は普通自動車40台・バス2台)

料金:古墳の見学料は公式に確認できませんでした(資料館の入館料は無料)

内部見学:後円部の頂に摩利支天社がまつられ、参道と石段が付けられている

小山市は所在地を小山市飯塚335とし、琵琶塚古墳と合わせて「県内最大級の2つの古墳が並び立つ」場所として案内しています。両古墳のあいだには菜の花畑と思川桜の並木があります。

行き方について、小山市は資料館の案内として、小山駅からタクシーかコミュニティバス「おーバス」の利用をすすめています。おーバスの場合は羽川線とデマンドバス(事前予約制)の乗り継ぎが必要です。

摩利支天塚古墳の発見と調査の歩み

  1. 100メートルの近さで並ぶ二基
  2. 古墳の上に社が建った
  3. 下野型古墳へ続く道

100メートルの近さで並ぶ二基

文化庁の解説文は、この古墳の位置をこう書いています。

すでに史跡に指定されている琵琶塚古墳の南方100メートルの近さにあり、両者は同形同大で、その方向を一にする点など、両者が密接な関連をもつものであることを思わせる

100メートルの近さで、同じ大きさ、同じ向き。偶然ではありません。

小山市は摩利支天塚古墳を初代、琵琶塚古墳を二代目の首長の墓と見ています。前の代にならって墓の形をそろえることで、立場を引き継いだのだと考えられます。

同じような並び方は各地にあります。埼玉県行田市の埼玉古墳群では、稲荷山古墳から将軍山古墳まで、代を追うように大型古墳が連なります。

古墳の上に社が建った

摩利支天塚古墳の後円部の頂には、摩利支天をまつる社殿が建っています。名前の由来であり、この古墳が忘れられずに残った理由でもあります。

文化庁の解説文は、社殿と参道・石段によって「若干の改変が加えられている」としながら、それでも「旧態をよくとどめており、本地域における典型的な中期古墳である」と書いています。

削られたことと、守られたことは、しばしば同じ出来事の裏表です。社が建ったことで土地は信仰の場になり、田畑にも宅地にもならずに済みました。同じ組の岡古墳(大阪府藤井寺市)のように、何にも転用されないまま宅地になって消えた古墳と比べると、違いははっきりしています。

下野型古墳へ続く道

摩利支天塚古墳と琵琶塚古墳が築かれたあと、思川と姿川にはさまれた台地の北側では、下野型古墳と呼ばれる独特の前方後円墳が造られていきます。墳丘の下に幅の広い基壇を設けるのが特徴で、この地域にしか見られません。

小山市が「古代下毛野国の中心地が思川周辺に移った時」と書くのは、この流れのはじまりを指しています。律令の時代に入っても一帯は下野国の中心で、近くには下野国府と下野国分寺が営まれました。

古墳が地域の中心を示し、その中心がそのまま役所の場所になる。土の山と国の形がつながって見える土地です。

摩利支天塚古墳から出土したもの

出土品の一覧を、公式のページで確かめることはできませんでした。わかっているのは、資料館がこの古墳の出土品を展示していることと、築造時期の判断に埴輪が使われていることです。

古墳そのものは大きく名も知られていますが、中身について公表されている情報は多くありません。

円筒埴輪

墳丘の上に列をなして並べられていた。築造時期を5世紀末とみる根拠のひとつになっている。

出土品(資料館で展示)

小山市の国史跡 摩利支天塚・琵琶塚古墳資料館が、この古墳と琵琶塚古墳の出土品を展示している。

飯塚古墳群の遺物

周辺の飯塚古墳群から出土した遺物も、同じ資料館にまとめて展示されている。

摩利支天社の本殿

出土品ではないが、後円部の頂に建つ社殿の本殿は小山市の指定文化財になっている。

摩利支天塚古墳と関連する古墳

摩利支天塚古墳についてよくある質問

摩利支天塚古墳は誰の墓ですか。

わかっていません。宮内庁の治定もありません。小山市は、古代下毛野国の中心地が思川周辺に移った時の初代首長の墓と考えられるとしていますが、個人名は挙げていません。

摩利支天塚古墳はどこにありますか。

栃木県小山市飯塚335です。思川と姿川にはさまれた台地の上にあり、北へ100メートルほどのところに琵琶塚古墳が並んでいます。

摩利支天塚古墳の大きさはどれくらいですか。

小山市は墳丘長を120.5メートルとしています。文化庁は長軸の長さを約120メートル、後円部の直径を約70メートル、高さを10メートル、前方部の幅を約70メートル、高さを6メートルとしています。

摩利支天塚古墳はいつ作られましたか。

小山市は5世紀末から6世紀初めとしています。文化庁はこの古墳を、この地域における典型的な中期古墳と位置づけています。

摩利支天塚古墳の読み方は。中に入れますか。

読みは「まりしてんづかこふん」です。後円部の頂に摩利支天社がまつられ、参道と石段が付けられています。石室の内部を見学できるという記載は、公式に確認できませんでした。

摩利支天塚古墳と併せて覚えたい言葉・用語

前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)

円形と方形をつないだ鍵穴の形の古墳。日本列島で独自に発達した形。

下毛野国(しもつけののくに)

のちの下野国にあたる地域。今の栃木県の大部分を占める。

空濠(からぼり)

水を張らない濠。摩利支天塚古墳では幅約25メートルのものが認められている。

下野型古墳(しもつけがたこふん)

幅の広い基壇をもつ、この地域だけに見られる前方後円墳の形。

摩利支天塚古墳の参考資料

この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。

  1. 文化庁
  2. 小山市
  3. 小山市