全長144メートル。南関東でいちばん大きい前方後円墳。
内裏塚古墳とはどんな古墳か
内裏塚古墳は、千葉県富津市二間塚にある前方後円墳です。文化庁は、墳丘は全長144メートルで、後円部径80メートル、後円部高13メートル、前方部幅77メートル、前方部高11.5メートルを測るとしています。2段築成で、東側には作り出し状の張り出しがあります。
周囲には一重の濠がめぐります。市教育委員会による確認調査の結果、周濠を含めると全長は185メートルに達することが判明しています。
文化庁はこの古墳を南関東最大の前方後円墳とし、古墳時代中期においてこの地域に有力な政治勢力が台頭してきたことを示すとしています。
古墳が立つのは、東京湾に注ぐ小糸川がつくる河口の低地です。目の前の富津岬は、東京湾のなかで対岸の三浦半島にもっとも近づく場所にあたります。2002年(平成14年)9月20日に国の史跡に指定され、2025年(令和7年)9月18日に追加指定されています。
内裏塚古墳の読み方と別名
読みは「だいりづかこふん」です。「内裏」は本来、天皇の住まいを指す言葉です。
なぜ房総の古墳にこの名がついたのかは、はっきりしません。地元では「オダイリヤマ」とも呼ばれてきたと伝えられ、土地の人が、この大きな塚をただならぬものと見ていたことがうかがえます。
国の史跡としての名称は「内裏塚古墳群」で、上野塚古墳・九条塚古墳・三条塚古墳などを含みます。九条・三条といった名も、都を思わせる呼び方です。
なお、この古墳群に含まれる稲荷山古墳は、埼玉県行田市の稲荷山古墳とは別のものです。同じ名の古墳が各地にあるため、都道府県まで添えて呼び分けます。
内裏塚古墳(だいりづかこふん)
文化庁のふりがなは「だいりづかこふん」。単独の古墳としての名。
内裏塚古墳群(だいりづかこふんぐん)
国の史跡としての指定名称。上野塚・九条塚・三条塚などを含む。
オダイリヤマ(おだいりやま)
地元での呼び名と伝えられる。「内裏」の名が土地に根づいていることを示す。
内裏塚古墳は誰の墓か
内裏塚古墳の被葬者はわかっていません。宮内庁の治定もありません。
文化庁は、この古墳を南関東最大の前方後円墳であり、古墳時代中期においてこの地域に有力な政治勢力が台頭してきたことを示すとしたうえで、出土品の内容からすると大和政権と密接な関わりがあったことを示唆するとしています。
地元では、この一帯が須恵(末)の国造の地であったことから、被葬者を須恵国造とする説が語られてきました。ただしこれは文献の伝えであって、古墳と結びつけられたわけではありません。もう一つ、地元の伝承では『万葉集』の高橋虫麻呂の歌にうたわれた「珠名娘子」の墓であるともされてきました。
名前の候補はいくつもありますが、確かめられたものはありません。
公式の説明:わかっていない
被葬者個人を比定する記載はない。出土品から大和政権と密接な関わりがあったことを示唆するとする。
学術的な見方のひとつ:この地域の有力な政治勢力
古墳時代中期にこの地域で有力な政治勢力が台頭したことを示すとされる。名は特定されていない。
内裏塚古墳の大きさと形
文化庁によれば、墳丘は全長144メートル、後円部径80メートル、後円部高13メートル、前方部幅77メートル、前方部高11.5メートルを測ります。2段築成で、東側には作り出し状の張り出しがあります。
注目すべきは濠を含めた大きさです。周囲には一重の濠がめぐり、市教育委員会による確認調査の結果、周濠を含めると全長は185メートルに達することが判明しました。
墳丘の上には円筒埴輪がめぐり、周濠からはきぬがさ形埴輪が出土していることから、形象埴輪も存在したと考えられています。
この144メートルという数字は、南関東では最大です。内裏塚古墳群は前方後円墳11基を含む合計41基からなり、内裏塚古墳はその中で最大であり、もっとも古い時期のものです。
墳丘の全長:144メートル
後円部:径80メートル・高さ13メートル
前方部:幅77メートル・高さ11.5メートル
周濠を含めた全長:185メートル
内裏塚古墳群の規模:前方後円墳11基を含む合計41基
鳴鏑の全長:7.5センチメートル
内裏塚古墳はいつ作られたか
内裏塚古墳の場所と行き方(観光情報)
内裏塚古墳群は、小糸川の下流域に広がっています。同じ古墳群には、上野塚古墳・九条塚古墳・古塚古墳・稲荷山古墳・三条塚古墳・割見塚古墳・亀塚古墳が含まれます。
東京湾をはさんだ対岸には、三浦半島の長柄桜山古墳群があります。二つの半島が向かい合う海の道の両岸に、大きな古墳が築かれていることになります。
内裏塚古墳(史跡 内裏塚古墳群)
文化庁は、所在地を千葉県富津市二間塚としています。より細かい地番や、最寄り駅からの行き方を記した公式のページは確認できませんでした。
古墳は東京湾に注ぐ小糸川の河口低地にあり、東京湾に向かって突き出た富津岬が対岸の三浦半島に迫る位置です。文化庁は、東京湾のなかでもっとも距離が接近しており、『記紀』のヤマトタケルの東方遠征の経路にもあたり、古くから交通の要衝として重要な位置を占めていたと考えられるとしています。
訪ねる前に、富津市の最新の案内を確かめることをおすすめします。
内裏塚古墳の発見と調査の歩み
東京湾がいちばん狭くなる場所
内裏塚古墳が立つ場所には、地形の必然があります。
文化庁は、この古墳が房総半島のほぼ中央部、東京湾に流入する小糸川が作る河口低地に存在するとしたうえで、東京湾に向かって突き出た富津岬が対岸の三浦半島に迫っていると記します。東京湾のなかで、対岸ともっとも距離が接近している場所です。
海を渡るなら、ここがいちばん短い。だからこの一帯は、古くから交通の要衝として重要な位置を占めていたと考えられています。『古事記』『日本書紀』のヤマトタケルの東方遠征の経路も、ここを通るとされます。
対岸の三浦半島には、4世紀の長柄桜山古墳群があります。どちらの岸にも大きな古墳が築かれました。海が人を隔てるのではなく、結んでいた時代の姿です。
二つの石室と、朝鮮半島から来た金具
内部の調査が行われたのは明治39年(1906年)のことです。二基の竪穴式石室が見つかりました。
文化庁によれば、東側の石室からは2体の人骨とともに、直刀5点、鉄剣2点、鉄小刀1点、鉄鎌1点および鉄鏃などが出土しました。西側の石室からは、鏡1点、直刀5点、鳴鏑9点、胡籙金具1点および鉄鏃などが出土しています。
胡籙とは、矢を入れて背に負う道具のことです。文化庁は、この胡籙金具は朝鮮半島からの舶載品であるとしています。房総の川べりの墓に、海を越えて来た品が納められていました。
舶載品は、大和政権を経由してこの地に届いたと考えられ、被葬者と畿内との関係を示す手がかりになっています。
全国に例のない、大きな鳴鏑
西側の石室から出た品のなかに、変わったものがありました。鳴鏑(なりかぶら)です。
鳴鏑は、矢の先につける中空の器具で、放つと空気が入って音が鳴ります。戦のはじまりを告げる合図に使われました。
文化庁によれば、内裏塚古墳から出た鳴鏑は全長7.5センチメートルを測り、このような大型品は全国的にも類例のない珍しいものであるとされています。9点が納められていました。音の出る矢を9本、墓に入れる。武の象徴であると同時に、儀式の道具でもあったのでしょう。
墳丘の上には円筒埴輪がめぐり、周濠からはきぬがさ形埴輪が出ています。きぬがさは、貴人にさしかける傘のことです。武器と傘。この墓に葬られた人物の立場が、そこからうかがえます。
内裏塚古墳から出土したもの
鉄鎌や鉄鏃も、朝鮮半島の影響を受けた新しい形態であるとされています。
海を越えた品が一点だけ紛れ込んだのではなく、武具や農具の作り方そのものが新しい系統になっている、ということです。文化庁は、これらの出土品の内容から、この古墳の被葬者が大和政権と密接な関わりをもっていたことを示唆するとしています。
胡籙金具
西側の石室から1点。矢を入れて背負う道具の金具で、朝鮮半島からの舶載品とされる。
鳴鏑
西側の石室から9点。全長7.5センチメートルで、この大きさの品は全国的にも類例がないとされる。
直刀
東側の石室から5点、西側の石室から5点。
鏡
西側の石室から1点。
人骨
東側の石室から2体分。明治39年の調査で見つかった。
円筒埴輪・きぬがさ形埴輪
墳丘の上に円筒埴輪がめぐり、周濠からきぬがさ形埴輪が出土。形象埴輪もあったと考えられる。
内裏塚古墳と関連する古墳
内裏塚古墳についてよくある質問
内裏塚古墳は誰の墓ですか。
わかっていません。宮内庁の治定もありません。文化庁は、古墳時代中期にこの地域で有力な政治勢力が台頭したことを示すとし、出土品から大和政権と密接な関わりがあったことを示唆するとしています。地元では須恵国造の墓とする説が語られてきました。
内裏塚古墳はどこにありますか。
千葉県富津市二間塚です。東京湾に注ぐ小糸川の河口低地にあります。最寄り駅からの行き方は、公式のページでは確かめられませんでした。
内裏塚古墳の大きさはどれくらいですか。
文化庁は、墳丘の全長144メートル、後円部径80メートル、後円部高13メートル、前方部幅77メートル、前方部高11.5メートルとしています。周濠を含めると全長は185メートルに達します。南関東最大の前方後円墳です。
内裏塚古墳はいつ作られましたか。
古墳時代中期です。内裏塚古墳群は5世紀中頃から7世紀にかけて営まれ、内裏塚古墳はその中で最大であり、もっとも古い時期のものとされています。
内裏塚古墳群にはいくつの古墳がありますか。
文化庁は、前方後円墳11基を含む合計41基で構成されるとしています。国の史跡「内裏塚古墳群」には、内裏塚古墳のほか上野塚・九条塚・古塚・稲荷山・三条塚・割見塚・亀塚の各古墳が含まれます。
内裏塚古墳と併せて覚えたい言葉・用語
鳴鏑(なりかぶら)
放つと音が鳴る矢の先の器具。戦のはじまりの合図に使われた。鏑矢ともいう。
胡籙(ころく)
矢を入れて背に負う道具。内裏塚古墳の金具は朝鮮半島からの舶載品とされる。
舶載品(はくさいひん)
船で海を越えて運ばれてきた品。国内で作られたものと区別して呼ぶ。
きぬがさ形埴輪(きぬがさがたはにわ)
貴人にさしかける傘をかたどった埴輪。被葬者の格を示すものと考えられる。
作り出し(つくりだし)
墳丘の側面に張り出すように設けられた平坦な壇。祭りの場と考えられている。
内裏塚古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。