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茨城県

舟塚山古墳とはどんな古墳か|誰の墓か・場所

舟塚山古墳  / フナツカヤマコフン

前方後円墳 5世紀

「入舟」と呼ばれた、茨城県でいちばん大きい前方後円墳。

舟塚山古墳とはどんな古墳か

舟塚山古墳は、茨城県石岡市北根本にある前方後円墳です。国の史跡に指定されたのは1921年(大正10年)3月3日で、古墳としてはとても早い時期の指定にあたります。

文化庁の国指定文化財等データベースに載る指定当時の説明は、文語で書かれています。丘陵を利用して築いた前方後円墳で、封土に段階を有し、長軸六百十五尺、後円部の幅三百二十五尺、高さ二十四尺、前方部の幅は三百十三尺、高さ二十一尺とあります。周囲には環濠の跡があり、封土には小さな祠と樹叢があって、埴輪の円筒片が見つかったとも記されています。

メートルでの数値は、公式のページでは確かめられませんでした。

古墳は霞ヶ浦にそそぐ恋瀬川の台地の縁に立ちます。北東にある府中愛宕山古墳が「出舟」と呼ばれるのに対し、この古墳は「入舟」と呼ばれてきました。

舟塚山古墳の読み方と別名

読みは「ふなつかやまこふん」です。

名の「舟塚」は、墳丘の形を舟に見立てたものと考えられます。さらにこの古墳には「入舟(入船)」という通称があり、北東約300メートルにある府中愛宕山古墳は「出舟(出船)」と呼ばれます。

霞ヶ浦との位置関係から生まれた呼び分けです。二基の古墳が、それぞれ前方部を反対の方向に向けて立っているため、片方は港へ入る舟、片方は港を出る舟に見立てられました。

石岡市はかつて常陸国の国府が置かれた土地です。舟塚山古墳は、その中心地が生まれる前からこの台地に立っています。

舟塚山古墳(ふなつかやまこふん)

文化庁のふりがなは「ふなつかやまこふん」。国の史跡としての指定名称でもある。

入舟(いりふね)

霞ヶ浦との位置関係による通称。前方部が内陸を向くことによると伝えられる。

舟塚山古墳群(ふなつかやまこふんぐん)

この古墳を含む古墳群の名。周囲に小古墳が分布する。

舟塚山古墳は誰の墓か

舟塚山古墳の被葬者はわかっていません。宮内庁の治定もありません。

1921年(大正10年)の史跡指定当時の説明は、墳丘の姿と保存状態を記すだけで、被葬者にはふれていません。公式のページに、この古墳の被葬者を比定する記載は見あたりませんでした。

手がかりは規模と場所です。茨城県では最大規模の前方後円墳であり、霞ヶ浦にそそぐ恋瀬川の台地の縁に立ちます。この規模からは、新治郡・行方郡・稲敷郡の一帯を治めた大豪族の墓と見られており、とくに茨城国造の首長墓と推測する説もあります。ただしこれは推測です。

地元には、多数の大刀が出土したという伝承があります。しかし埋葬施設は明らかになっておらず、その伝承を裏づける公式の記載も確かめられませんでした。

大きさだけがはっきりしていて、中身がわからない。そういう古墳です。

公式の説明:わかっていない

1921年の指定当時の解説は墳丘の姿と保存状態を記すのみで、被葬者にはふれていない。

舟塚山古墳の大きさと形

公式に確かめられた数値は、で書かれたものだけです。文化庁の国指定文化財等データベースに載る指定当時の説明は、次のように記します。

丘陵ヲ利用シテ築造セル前方後圓墳ニシテ封土ニ段階ヲ有シ長軸六百十五尺後圓部ノ幅三百二十五尺高サ二十四尺前方部ノ幅ハ三百十三尺高サ二十一尺周圍ニ環湟ノ跡アリ

長軸が六百十五尺、後円部の幅が三百二十五尺、その高さが二十四尺。前方部の幅は三百十三尺、その高さが二十一尺です。封土に段階を有する、というのは段築のことを指します。

メートルに換算した数値を載せる公式のページは、確認できませんでした。推測で書くことはしません。

続けて、周囲には環濠の跡があり、封土には小さな祠と樹叢があり、埴輪の円筒片を発見したと記されています。100年前の一文だけで、この古墳の姿がかなり見えてきます。

長軸(1921年の指定当時の記載):六百十五尺

後円部の幅:三百二十五尺

後円部の高さ:二十四尺

前方部の幅:三百十三尺

前方部の高さ:二十一尺

舟塚山古墳はいつ作られたか

築造の時期は、墳形と出土した埴輪から5世紀後半、古墳時代中期と推定されています。ただしこの年代を示す公式のページは確認できませんでした。

5世紀後半は、畿内で大仙陵古墳などの巨大古墳が築かれた時期です。同じころ、東国でもそれぞれの地域でいちばん大きい古墳が生まれています。房総の内裏塚古墳、多摩川の野毛大塚古墳、そして埼玉古墳群の始まりが、この前後にあたります。

舟塚山古墳の墳形は、大仙陵古墳やウワナベ古墳との築造企画の類似が指摘されています。同じ設計図をもとに、縮尺を変えて造ったのではないか、という見方です。ただしこれも学説であって、公式に確かめられたものではありません。

同じ茨城県では、7世紀の虎塚古墳が壁画で知られます。舟塚山古墳はそれより200年ほど早い時期の古墳です。

舟塚山古墳の場所と行き方(観光情報)

北東約300メートルには、府中愛宕山古墳があります。「入舟」と「出舟」、二つの古墳を続けて見られる場所です。

石岡市は、常陸国府・常陸国分寺・常陸国分尼寺が営まれた土地で、律令の時代にも常陸国の中心地でした。舟塚山古墳の被葬者が生きた時代と、その数百年後の国府の時代を、同じ市域で見ることができます。

舟塚山古墳

地図で開く

舟塚山古墳の住所:石岡市北根本

交通:公式に確認できませんでした

駐車場:公式に確認できませんでした

料金:公式に確認できませんでした

内部見学:公式に確認できませんでした

文化庁は、所在地を茨城県石岡市北根本としています。より細かい地番や、最寄り駅からの行き方を記した公式のページは確認できませんでした。

1921年(大正10年)の指定当時の説明には、封土に小さな祠があり、樹叢があると記されています。100年前から、墳丘の上には祠と木立がありました。

訪ねる前に、石岡市または茨城県の最新の案内を確かめることをおすすめします。

舟塚山古墳の発見と調査の歩み

  1. 大正10年の一文が、いまも公式の説明
  2. 入る舟と、出る舟
  3. 常陸の中心が生まれる、その前に

大正10年の一文が、いまも公式の説明

舟塚山古墳が国の史跡になったのは、1921年(大正10年)3月3日です。

文化庁の国指定文化財等データベースに載る詳細解説は、いまもそのときの文語のままです。丘陵を利用して築造せる前方後円墳にして、封土に段階を有し、と始まり、長軸や後円部・前方部の幅と高さを尺で記し、周囲に環濠の跡あり、封土には小祠あり樹叢あり、また埴輪円筒片を発見す、と結びます。100年前に書かれた一文が、いまも公式の説明として残っています。

同じころ、亀甲山古墳が1928年(昭和3年)に指定され、こちらも文語の解説が残っています。

読みにくい文ですが、書いてあることは具体的です。段があること、濠の跡があること、祠と木立があること、埴輪が出たこと。それだけで古墳の性格がわかります。

入る舟と、出る舟

舟塚山古墳には「入舟(入船)」という通称があります。北東約300メートルにある府中愛宕山古墳は「出舟(出船)」と呼ばれます。

霞ヶ浦との位置関係による呼び分けです。二基の古墳が前方部を反対の方角に向けて立っているため、片方は湖へ入っていく舟、片方は湖から出ていく舟に見立てられました。土地の人が、古墳を舟の姿として見ていたことがわかります。

前方後円墳を舟に見立てる感覚は、名前にもよく残っています。「舟塚」という名の古墳は各地にあります。

もっとも、古墳が築かれた5世紀に、この形が舟として意識されていたかどうかはわかりません。霞ヶ浦と恋瀬川という水の道のかたわらに立つ古墳が、後の世に舟の名で呼ばれるようになった。それだけは確かです。

常陸の中心が生まれる、その前に

石岡市は、律令の時代に常陸国府が置かれた土地です。常陸国分寺・常陸国分尼寺も営まれ、常陸国の中心地でした。

舟塚山古墳は、その中心地が生まれる数百年前から、この台地の縁に立っています。国府が置かれる土地には、たいてい、それ以前の大きな古墳があります。

同じことは武蔵でも起きました。武蔵府中熊野神社古墳が築かれた直後に、東山道武蔵路が敷かれ、武蔵国府が置かれます。大きな墓を築ける力をもった一族の土地が、そのまま国の役所の置かれる土地になっていきました。

舟塚山古墳の場合、古墳と国府のあいだには200年以上の隔たりがあります。それでも、恋瀬川と霞ヶ浦という水運の要にあたる場所が選ばれ続けたことに変わりはありません。地形が人を集め、人が権力を作り、権力が墓と役所を建てる。その順序が読み取れる土地です。

舟塚山古墳から出土したもの

公式に確かめられた出土品は、埴輪の円筒片だけです。

周辺には陪塚と見られる小古墳が数基分布しており、そのうちの一基からは短甲・盾・直刀が出たと伝えられますが、これも公式のページでは確かめられませんでした。

埴輪の円筒片

1921年の指定当時の説明に、封土から埴輪円筒片を発見したと記されている。

環濠の跡

同じく指定当時の説明に、周囲に環濠の跡があると記されている。

小祠と樹叢

封土の上に小さな祠があり、木立があると記されている。古墳が信仰の場でもあったことを示す。

埋葬施設

明らかになっていない。地元には多数の大刀が出土したという伝承があるが、公式には確認できなかった。

舟塚山古墳と関連する古墳

舟塚山古墳についてよくある質問

舟塚山古墳は誰の墓ですか。

わかっていません。宮内庁の治定もありません。1921年の指定当時の公式の説明は、墳丘の姿と保存状態を記すだけで被葬者にはふれていません。規模から、この地域を治めた大豪族の墓と見られ、茨城国造の首長墓とする説もあります。

舟塚山古墳はどこにありますか。

茨城県石岡市北根本です。霞ヶ浦にそそぐ恋瀬川の台地の縁に立ちます。最寄り駅からの行き方は、公式のページでは確かめられませんでした。

舟塚山古墳の大きさはどれくらいですか。

公式に確かめられたのは尺で書かれた数値だけです。文化庁の記載では、長軸六百十五尺、後円部の幅三百二十五尺・高さ二十四尺、前方部の幅三百十三尺・高さ二十一尺です。メートルでの数値は公式に確認できませんでした。

舟塚山古墳はいつ作られましたか。

墳形と出土した埴輪から、5世紀後半の古墳時代中期と推定されています。ただしこの年代を示す公式のページは確認できませんでした。

なぜ「入舟」と呼ばれるのですか。

霞ヶ浦との位置関係によります。北東約300メートルにある府中愛宕山古墳が「出舟」と呼ばれるのに対し、前方部の向きが反対であることから、こちらは「入舟」と呼ばれてきました。

舟塚山古墳と併せて覚えたい言葉・用語

封土(ほうど)

古墳の盛り土。大正・昭和はじめの指定文書では、この語で墳丘の高さが記される。

環濠(かんごう)

墳丘のまわりをめぐる濠。舟塚山古墳では指定当時にその跡が確認されている。

樹叢(じゅそう)

まとまって生えた木立。墳丘の上の樹叢は、古墳が守られてきた証しでもある。

陪塚(ばいちょう)

大きな古墳に付き従うように築かれた小さな古墳。舟塚山古墳の周囲にも数基ある。

国造(くにのみやつこ)

律令の前の時代に地方を治めた首長の称。この地域は茨城国造の領域とされる。

舟塚山古墳の参考資料

この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。

  1. 文化庁