柿畑と水田の中に、名を持つ前方後円墳が並ぶ岐阜の古墳群。
野古墳群とはどんな古墳か
野古墳群はひとことで言えば中型の前方後円墳がまとまって並ぶ古墳群です。岐阜県揖斐郡大野町大字野にあり、14基が国の史跡に指定されています。
大野町は、町内に200基を超える古墳が点在するとしたうえで、この古墳群を5世紀中葉から6世紀初頭(今からおよそ1500年前)にかけて造営されたものとし、指定の理由をこう記しています。
この時期にこれだけの規模の古墳が密集して造営されることは稀であるとして、14基が国の史跡に指定されています
現在9基が残存し、開墾等で削平されていた古墳8基が発掘調査により確認されています。前方後円墳が6基、しかもいずれも54メートルから83メートルという中型でそろっている点が、この古墳群の性格をよく示しています。
野古墳群の読み方と別名
読みは「のこふんぐん」です。「野」は大字(おおあざ)の名で、大野町大字野という地名がそのまま古墳群の名になりました。
個々の古墳には番号のほかに名があります。大野町が挙げるのは、モタレ古墳(野1号墳)、不動塚古墳(野2号墳)、南屋敷西古墳(野3号墳)、登越古墳(野4号墳)、南出口古墳(野5号墳、城塚)、乾屋敷古墳(野6号墳)の6基です。
屋敷、塚、城。土地の暮らしのなかで付いた名が、そのまま学術的な呼び名として使われています。野7号墳から17号墳には固有の名がなく、野14号墳だけが石塚と呼ばれてきました。
野古墳群(のこふんぐん)
大野町が用いる名。国の史跡としての指定名称でもある。
史跡野古墳群(しせきのこふんぐん)
大野町のページの見出しに使われている形。
登越古墳(のぼりこしこふん)
野4号墳の名。主軸全長約83メートルで、大野町は野地区最大規模とする。
野古墳群は誰の墓か
野古墳群の被葬者はわかっていません。大野町は、どの古墳についても人物を特定する記載をしていません。宮内庁の治定もありません。
手がかりになるのは、古墳の並び方です。大野町は乾屋敷古墳(野6号墳)について「この古墳は、野古墳群で最初に築造されたと考えられています」と記しています。主軸全長約79メートルの前方後円墳です。
そのあと、南屋敷西古墳(約76メートル)、南出口古墳(約75メートル)、登越古墳(約83メートル)、不動塚古墳(約64メートル)と続きます。大きさがほぼ横並びで、突出した1基がありません。
5世紀中葉から6世紀初頭という時期に、同じくらいの規模の前方後円墳を代々築ける立場の人びとがいた。そこまでが公式に読み取れることです。
公式の説明:わかっていない
個々の古墳について人物を特定する記載はない。乾屋敷古墳を最初の築造とするにとどまる。
野古墳群の大きさと形
大野町は、9基それぞれの規模を挙げています。最大は登越古墳(野4号墳)で、主軸全長約83メートル、後円部の直径約52メートル、高さ約7.3メートル、前方部の先端幅約33メートル、高さ約6メートルの前方後円墳です。大野町は野地区最大規模としています。
次いで乾屋敷古墳(野6号墳)が主軸全長約79メートル、南屋敷西古墳(野3号墳)が約76メートル、南出口古墳(野5号墳)が約75メートル、不動塚古墳(野2号墳)が約64メートル。いずれも前方後円墳で、64メートルから83メートルの幅に収まっています。
このほか帆立貝形前方後円墳としてモタレ古墳(野1号墳、約54メートル)、野7号墳(約29メートル)、野9号墳(約30.5メートル)があり、野8号墳は辺長約15.8メートルの方墳です。
登越古墳(野4号墳):主軸全長約83メートル・後円部の直径約52メートル・高さ約7.3メートル
乾屋敷古墳(野6号墳):主軸全長約79メートル・後円部の直径約49メートル・高さ約6.3メートル
南屋敷西古墳(野3号墳):主軸全長約76メートル・後円部の直径約54メートル・高さ約5.4メートル
南出口古墳(野5号墳):主軸全長約75メートル・後円部の直径約39メートル・高さ約6.2メートル
不動塚古墳(野2号墳):主軸全長約64メートル・後円部の直径約44メートル・高さ約7メートル
モタレ古墳(野1号墳):主軸全長約54メートル・直径約36メートル・高さ約6メートル(帆立貝形)
国の史跡の指定:昭和32年7月10日(のち2度の追加指定)
野古墳群はいつ作られたか
野古墳群の場所と行き方(観光情報)
9基が広い範囲に散らばっているため、1基ずつ場所を確かめる必要があります。大野町のページには、古墳ごとに規模と出土品が記されています。
乾屋敷古墳(野6号墳)の後円部墳丘上には不動院が建立されています。古墳が寺の敷地になっている例で、南側半分は削平されています。
史跡野古墳群
大野町は所在地を大野町大字野 地内とし、種別・種類を史跡としています。指定は昭和32年7月10日で、平成元年3月7日と平成26年10月6日に追加指定を受けています。
行き方・駐車場・料金・立ち入りの可否については、大野町のページに記載を確かめられませんでした。
大野町のページからは、大野あけぼのミュージアム(大野町埋蔵文化財センター)が関連記事としてリンクされています。出土品について調べるなら、そちらが手がかりになります。
野古墳群の発見と調査の歩み
名を持つ六基、番号だけの十一基
野古墳群を眺めると、古墳の扱われ方の差が見えます。
大野町が挙げるうち、固有の名を持つのは6基です。モタレ古墳、不動塚古墳、南屋敷西古墳、登越古墳、南出口古墳、乾屋敷古墳。いずれも前方後円墳か帆立貝形前方後円墳で、54メートルから83メートルの大きさがあります。
残りは野7号墳から野17号墳まで、番号だけです。ただし野14号墳には石塚という呼び名があり、明治期に環頭大刀が出土しています。
名が付くかどうかは、大きさと、土地の暮らしとの関わりの深さで決まってきました。屋敷、塚、城塚。名の由来をたどると、その古墳が近代までどう使われてきたかが見えてきます。
明治二年に開けられた石室
南出口古墳(野5号墳、城塚)は、主軸全長約75メートルの前方後円墳です。
大野町の記述はこうです。
明治2年に後円部堅穴式石室から鎏金(りゅうきん)獣帯鏡、馬具、大刀などが出土しました。また、周濠から形象埴輪や須恵器が出土しています。
鎏金とは、金と水銀を使って金めっきを施す技法です。金めっきをした鏡が出たということになります。
明治2年は西暦1869年、明治が始まったばかりの年です。柳井茶臼山古墳の明治25年、昼飯大塚古墳の明治10年代と並んで、この時期に各地の古墳が開けられています。野14号墳(石塚)でも明治期に環頭大刀が出土しました。
地面の下から、八基が出てきた
野古墳群でおもしろいのは、消えたはずの古墳が見つかっていることです。
大野町は「現在9基が残存し、開墾等で削平されていた古墳8基が発掘調査により確認されています」としています。地上から消えても、周濠や墳丘の基底部は地中に残ります。
大野町が挙げる野10号墳から17号墳には、推定径が付されています。野10号墳は円墳で推定径約19.6メートル、野11号墳は約24.6メートル、野14号墳(石塚)は約34.0メートルといった具合です。
野10号墳の周濠からは円筒埴輪と木器(鋤)が出土しました。木の道具が残るのは、水気の多い周濠の底ならではです。野12号墳は帆立貝形前方後円墳かとされ、後円部の推定径は約23.9メートルとされています。
野古墳群から出土したもの
大野町は、古墳ごとに出土品を書き分けています。埴輪が出た古墳、須恵器が出た古墳、鏡や大刀が出た古墳。同じ古墳群でも、中身は一様ではありません。形象埴輪は登越古墳と南出口古墳から出ています。
円筒埴輪
多くの古墳の墳丘や周濠から破片が見つかっている。
朝顔形埴輪
モタレ古墳や野7号墳の周濠から破片が出土している。
鎏金獣帯鏡
南出口古墳の後円部竪穴式石室から、明治2年に馬具・大刀とともに出土。
環頭大刀
野14号墳(石塚)から明治期に出土した、柄頭に環の付く大刀。
須恵器・管玉・鉄鏃
野7号墳では石室から須恵器・管玉・鉄鏃などが出土している。
木器(鋤)
野10号墳の周濠から円筒埴輪とともに出土した木の農具。
野古墳群と関連する古墳
野古墳群についてよくある質問
野古墳群は誰の墓ですか。
わかっていません。大野町も、どの古墳についても人物を特定していません。5世紀中葉から6世紀初頭にかけて、同じくらいの規模の前方後円墳を代々築ける立場の人びとがいたことがわかります。
野古墳群には何基の古墳がありますか。
大野町によれば、14基が国の史跡に指定されています。現在9基が残存し、開墾等で削平されていた古墳8基が発掘調査により確認されています。
野古墳群でいちばん大きい古墳はどれですか。
登越古墳(野4号墳)です。大野町は主軸全長約83メートル、後円部の直径約52メートル、高さ約7.3メートルとし、野地区最大規模としています。
野古墳群はいつ作られましたか。
大野町は5世紀中葉から6世紀初頭にかけて造営されたとしています。国の史跡に指定されたのは昭和32年7月10日です。
野古墳群はどこにありますか。
岐阜県揖斐郡大野町大字野 地内です。行き方については、大野町のページに記載を確かめられませんでした。
野古墳群と併せて覚えたい言葉・用語
帆立貝形前方後円墳(ほたてがいがたぜんぽうこうえんふん)
前方部が短く、帆立貝を伏せたような形の古墳。
鎏金(りゅうきん)
金と水銀を用いて金めっきを施す技法。
環頭大刀(かんとうたち)
柄の頭に環の付いた大刀。古墳時代後期の有力者の墓に副葬される。
周濠(しゅうごう)
墳丘の周囲をめぐる溝。水がたまるため木製品が残ることがある。