大正の盗掘事件によって、中の様子が記録に残った陵墓の古墳。
佐紀陵山古墳とはどんな古墳か
奈良市山陵町にある前方後円墳です。堺市の全国の大きさ順の一覧には「陵山古墳(日葉酢媛陵)」として約207メートルで載り、所在地は奈良県奈良市山陵町とされています。
宮内庁は、第11代垂仁天皇皇后の日葉酢媛命の陵として管理しています。この古墳が特別なのは、1915年に大がかりな盗掘を受けたことによって、かえって中の様子が記録に残ったからです。犯人は検挙されて遺物も戻り、翌年の復旧工事にあわせて、竪穴式石室と出土品の詳しい調査と記録が作られました。
後円部の頂にはきぬがさ形埴輪と盾形埴輪が立てられていたことがわかっています。この古墳と同じ設計で造られた古墳は各地にあり、兵庫県の五色塚古墳もその一つに数えられます。
佐紀陵山古墳の読み方と別名
読みは「さきみささぎやまこふん」です。「みささぎ」は陵のことで、陵のある山、という意味になります。
つまり、この古墳の名は「陵」という言葉をすでに含んでいます。岡ミサンザイ古墳やニサンザイ古墳の「ミサンザイ」も同じ語がなまったものです。古墳の名には、陵と呼ばれてきた記憶がそのまま残っていることが多いのです。
宮内庁の陵名は狭木之寺間陵。堺市の一覧では「陵山古墳(日葉酢媛陵)」と、佐紀を省いて書かれています。同じ古墳に三つの呼び方があります。
佐紀陵山古墳(さきみささぎやまこふん)
考古学の側からの呼び方。佐紀という地名と、陵のある山という意味を合わせた名。
陵山古墳(みささぎやまこふん)
堺市の全国の大きさ順の一覧に載る呼び方。「佐紀」を省いた形。
狭木之寺間陵(さきのてらまのみささぎ)
宮内庁が定める陵名。狹木之寺間陵とも書く。日葉酢媛命の陵として管理される。
佐紀陵山古墳は誰の墓か
この古墳に葬られた人が誰かは、わかっていません。
宮内庁は、第11代垂仁天皇の皇后である日葉酢媛命の陵として管理しています。堺市の一覧にも「陵山古墳(日葉酢媛陵)」と併記されています。
ただし、治定は動いてきました。元禄10年の探陵のときには、この古墳が神功皇后陵にあてられていました。文久の修陵で神功皇后陵が五社神古墳に移り、この古墳は日葉酢媛命の陵になりました。そのとき、ここに奉納されていた灯籠8基も五社神古墳へ運ばれています。
『日本書紀』には、日葉酢媛命の葬儀に際して、殉死のかわりに初めて埴輪を立てたという話が載ります。この古墳がその舞台ではないかと言われますが、確かめようはありません。夫とされる垂仁天皇の陵は、堺市の一覧によれば奈良市尼ヶ辻町の宝来山古墳に治定されています。
宮内庁の治定:第11代垂仁天皇皇后 日葉酢媛命
堺市の一覧に「陵山古墳(日葉酢媛陵)」と併記されている。治定にもとづく呼び方。
断定できない:わかっていない
公式に確かめられるのは全長と所在地までで、被葬者を裏づける記載は見あたらない。
宮内庁の治定:夫とされる垂仁天皇の陵は宝来山古墳
同じ一覧に「宝来山古墳(垂仁陵)」が約227メートル、奈良市尼ヶ辻町として載る。
佐紀陵山古墳の大きさと形
堺市の全国の大きさ順の一覧では、約207メートルで第32位です。同じ順位に桜井茶臼山古墳が並びます。
この古墳は、西に接する佐紀石塚山古墳のくびれ部に、後円部が食い込むように築かれています。そのため佐紀石塚山古墳の周濠は極端に狭くなっており、この古墳のほうが先に造られたと推定されています。
墳丘は3段に築かれています。後円部の頂には、平たく割った石を小口積みにした石垣が四角くめぐらされ、その内側に土を詰めた壇が造られていました。2009年の調査では、前方部や渡り堤の斜面に葺石が確認されています。
墳丘規模(全長):約207メートル
全国での順位:第32位
所在地:奈良県奈良市山陵町
隣接する佐紀石塚山古墳:約218メートル(成務陵)
佐紀陵山古墳はいつ作られたか
築造は、古墳時代前期でも終わりに近い時期と考えられています。4世紀の後半にあたります。
手がかりは、盗掘事件の後の調査で記録された埴輪と副葬品です。きぬがさ形埴輪や盾形埴輪、三面の大型の仿製鏡、車輪石や鍬形石といった石製の腕飾り。これらの組み合わせが、前期の終わりごろの特徴を示しています。
佐紀盾列古墳群の中では、この古墳、宝来山古墳、佐紀石塚山古墳が先に築かれ、そのあとに五社神古墳が続くという順序が考えられています。群でいちばん早い段階の古墳のひとつです。
佐紀陵山古墳の場所と行き方(観光情報)
この古墳は佐紀盾列古墳群の西の側にあたります。歩けば、五社神古墳、佐紀石塚山古墳、佐紀高塚古墳と続けてまわれます。
どれも宮内庁が管理する陵墓で、見られるのは拝所と、木におおわれた墳丘の外側だけです。
佐紀陵山古墳(日葉酢媛命 狭木之寺間陵)
佐紀陵山古墳(日葉酢媛命 狭木之寺間陵)の住所:奈良県奈良市山陵町
交通:公式には確認できませんでした
駐車場:公式には確認できませんでした
料金:公式には確認できませんでした
内部見学:宮内庁が管理する陵墓で、墳丘に立ち入ることはできません。拝所までの参拝になります。参拝できる曜日や時間について、公式ページでの記載は確認できませんでした。
佐紀陵山古墳の発見と調査の歩み
盗掘が、記録を生んだ
1915年、この古墳は大がかりな盗掘を受けました。遺物が持ち出されましたが、犯人はのちに検挙され、出土した品は回収されます。
翌年、宮内省による復旧工事が行われました。そのとき、陵墓という性格から大きな制約があったとみられるものの、石室のあたりと出土品について、かなり詳しい調査と記録が作られました。
掘ることのできない陵墓の中身が、盗掘をきっかけに記録されたのです。同じことは野口王墓古墳でも起きています。あちらは鎌倉時代の盗掘の記録が、被葬者を定める決め手になりました。犯罪が、結果として学問に材料を残すことがあります。
焼けた記録と、手元に残った写し
復旧工事の記録の大部分は、宮内省の本省にありました。そして関東大震災で焼失します。
ところが、出土品の調査と整理にあたった京都大学の梅原末治が、記録のかなりの部分の写しを手元に残していました。それが今も宮内庁書陵部に保管されています。出土した遺物そのものは復旧のときに石室へ埋め戻されましたが、写真や拓本、寒天の型から作った石膏の模造品が残されました。
本体は失われ、写しが残った。古墳の資料には、こういう筋道のものが少なくありません。この古墳の石室の姿を今知ることができるのは、一人の研究者が写しを取っておいたおかげです。
佐紀陵山古墳から出土したもの
出土品はすべて、復旧のときに石室へ埋め戻されています。いま実物を見ることはできません。
残されたのは、写真と拓本、そして石膏で作られた模造品です。その一部は東京国立博物館にあります。埋め戻すという判断は、陵墓を守るという立場からのものでした。調べることと守ることが、正面からぶつかった例です。
きぬがさ形埴輪
後円部の頂に立てられていた。中央のものは大きく、直弧文で飾られていた。
盾形埴輪
木の盾をかたどったもの。周縁と中央の横帯を直弧文で飾る。
仿製鏡
国内で作られた鏡。舶来の鏡よりかなり大きく作られていた。
石製腕飾り類
車輪石・鍬形石・石釧。前期の古墳に特徴的な、腕を飾る石の製品。
佐紀陵山古墳と関連する古墳
佐紀陵山古墳についてよくある質問
佐紀陵山古墳は誰の墓ですか。
わかっていません。宮内庁は垂仁天皇皇后の日葉酢媛命の陵として管理していますが、行政上の扱いです。元禄のころには神功皇后陵とされており、文久の修陵で治定が入れ替わりました。
佐紀陵山古墳はどこにありますか。
堺市の一覧は所在地を奈良県奈良市山陵町としています。佐紀盾列古墳群の西の側にあたり、西に佐紀石塚山古墳、北西に五社神古墳があります。
佐紀陵山古墳の大きさはどれくらいですか。
堺市の全国の一覧では約207メートルで第32位です。同じ順位に桜井茶臼山古墳が並びます。墳丘は3段に築かれています。
佐紀陵山古墳はいつ作られましたか。
古墳時代前期でも終わりに近い時期、4世紀の後半と考えられています。盗掘事件の後の調査で記録された埴輪と副葬品の組み合わせが、その根拠です。
佐紀陵山古墳の中に入れますか。
宮内庁が管理する陵墓で、墳丘に立ち入ることはできません。参拝できる曜日や時間について、公式ページでの記載は確認できませんでした。
佐紀陵山古墳と併せて覚えたい言葉・用語
きぬがさ形埴輪(きぬがさがたはにわ)
貴人にさしかける傘をかたどった埴輪。墳頂に立てられ、権威を示したとされる。
直弧文(ちょっこもん)
まっすぐな線と弧を組み合わせた文様。魔よけの意味があったとみられる。
仿製鏡(ぼうせいきょう)
中国の鏡をまねて国内で作った鏡。舶来の鏡より大きく作られることがある。
石製腕飾り(せきせいうでかざり)
車輪石・鍬形石・石釧など、腕にはめる形の石の製品。前期の古墳に多い。
佐紀陵山古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。