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奈良県

五社神古墳とはどんな古墳か|誰の墓か・場所

五社神古墳  / ゴサシコフン

前方後円墳 4世紀

神功皇后陵として治定された、佐紀盾列古墳群で最大の前方後円墳。

五社神古墳とはどんな古墳か

奈良市山陵町にある前方後円墳です。堺市の全国の大きさ順の一覧では第12位、約275メートルとされ、「五社神古墳(神功陵)」と併記されています。

佐紀盾列古墳群の中では最大で、丘の尾根を切り離して築かれています。「五社神」という名は、かつて後円部の頂にあった祠に由来すると伝えられます。宮内庁は第14代仲哀天皇皇后の神功皇后の陵として管理していますが、これは行政上の扱いで、学術的に確かめられたものではありません。

2008年に、陵墓としては初めて、研究者の団体による立ち入り調査が認められた古墳としても知られます。墳丘の1段目に限られたわずかな範囲でしたが、閉ざされてきた陵墓が開いた最初の一歩でした。

五社神古墳の読み方と別名

読みは「ごさしこふん」です。「ごしゃがみ」ではありません。字だけ見ると読みにくい名です。

由来は、かつて後円部の頂に五社神という祠があったことによると伝えられます。古墳の名としては、墳丘の上にあった建物から付いた、めずらしい形です。

宮内庁の陵名は狭城盾列池上陵。この「盾列」が、佐紀盾列古墳群という群の名のもとになりました。同じ群の佐紀石塚山古墳の陵名も「狭城盾列池後陵」で、二つの陵名がともに盾列を含むことから、群全体がそう呼ばれるようになったのです。

五社神古墳(ごさしこふん)

考古学の側からの呼び方。かつて後円部の頂にあった祠の名に由来すると伝えられる。

狭城盾列池上陵(さきのたたなみのいけのえのみささぎ)

宮内庁が定める陵名。狹城盾列池上陵とも書き、『延喜式』にも遠陵として載る。

神功皇后陵古墳(じんぐうこうごうりょうこふん)

治定にもとづく呼び方。堺市の一覧では「五社神古墳(神功陵)」と併記されている。

五社神古墳は誰の墓か

この古墳に葬られた人が誰かは、わかっていません

宮内庁は、第14代仲哀天皇の皇后である神功皇后の陵として管理しています。堺市の一覧にも「五社神古墳(神功陵)」と併記されています。

ただし、この治定は古いものではありません。元禄10年の探陵のときには、佐紀陵山古墳が神功皇后陵にあてられ、五社神古墳のほうは称徳天皇陵とされていました。文久3年の修陵に際して、古い班田図などの記述にもとづいて五社神古墳が改めて神功皇后陵と定められ、これが今日に踏襲されています。

治定が入れ替わった名残もあります。かつて神功皇后陵とされていた佐紀陵山古墳の灯籠8基が、治定の変更にともなってこの古墳の拝所へ移されました。研究の側からは、ヤマト王権の大王の墓とみる説があります。

宮内庁の治定:第14代仲哀天皇皇后 神功皇后

堺市の一覧に「五社神古墳(神功陵)」と併記されている。治定にもとづく呼び方。

断定できない:わかっていない

公式に確かめられるのは全長と所在地までで、被葬者を裏づける記載は見あたらない。

宮内庁の治定:夫とされる仲哀天皇の陵は別の場所に治定

仲哀天皇の惠我長野西陵は大阪府藤井寺市藤井寺4丁目。夫婦とされる二人の陵は離れている。

五社神古墳の大きさと形

堺市の全国の大きさ順の一覧では、約275メートルで第12位です。佐紀盾列古墳群の中では最大で、同じ群のウワナベ古墳の約255メートル、市庭古墳の約250メートルを上回ります。

この数字は、測量図から出された値です。宮内庁が墳丘の裾で行った調査にもとづけば、およそ267メートルに復原されるとする報告もあります。二つの数字があるのは、どこを墳丘の端と見るかが違うためです。

墳丘は、後円部が4段、前方部が3段に築かれています。くびれ部の西側には造出しがあったと推定され、祭りが行われたとすれば、中期に多いこの習わしの早い例になります。

墳丘規模(全長):約275メートル

全国での順位:第12位

所在地:奈良県奈良市山陵町

同じ群のウワナベ古墳・市庭古墳:約255メートル・約250メートル

五社神古墳はいつ作られたか

築造は、古墳時代中期の初め、4世紀末葉ごろと推定されています。

奈良盆地の北部では、佐紀陵山古墳、宝来山古墳、佐紀石塚山古墳が先に築かれ、この五社神古墳がそれに続く、という順序が考えられています。群の中でいちばん大きい古墳が、いちばん最後というわけではありません。

このころ、奈良盆地の東南部にあった大和・柳本の古墳群は衰えています。箸墓古墳西殿塚古墳のある一帯から、王の墓が北へ移りました。その移った先で最大の古墳が、これです。造出しでの祭りが始まる時期にもあたり、中期の古墳の特徴が現れはじめます。

五社神古墳の場所と行き方(観光情報)

この古墳は佐紀盾列古墳群の北西端にあたります。近くには佐紀石塚山古墳、佐紀陵山古墳、佐紀高塚古墳が並びます。少し離れた尼ヶ辻町には、堺市の一覧で約227メートルとされる宝来山古墳があります。

五社神古墳(神功皇后 狭城盾列池上陵)

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五社神古墳(神功皇后 狭城盾列池上陵)の住所:奈良県奈良市山陵町

交通:公式には確認できませんでした

駐車場:公式には確認できませんでした

料金:公式には確認できませんでした

内部見学:宮内庁が管理する陵墓で、墳丘に立ち入ることはできません。拝所までの参拝になります。参拝できる曜日や時間について、公式ページでの記載は確認できませんでした。

所在地として確かめられたのは、堺市の一覧が記す奈良県奈良市山陵町です。行き方を案内した公式ページは確認できませんでした。

山陵町という町名そのものが、この古墳をはじめとする陵から来ています。同じ町には佐紀石塚山古墳もあります。拝所には、かつて別の古墳に奉納されていた灯籠8基が移されて置かれています。治定が入れ替わったときに、いっしょに移動してきたものです。

五社神古墳の発見と調査の歩み

  1. 陵墓に、研究者が初めて入った
  2. 周濠は、後から掘られたのかもしれない
  3. 嘉永2年の盗掘が伝えるもの

陵墓に、研究者が初めて入った

2008年2月22日、考古学と歴史学の16の学会の代表による立ち入り調査が行われました。陵墓への学会の立ち入りとしては、これが最初です。

認められたのは墳丘の1段目だけで、掘ることはできず、見て測るだけの調査でした。それでも、長く閉ざされてきた場所に研究者が足を踏み入れたという意味は大きなものでした。

その後、西殿塚古墳や山田高塚古墳でも同じような立ち入りが行われています。宮内庁自身も、2003年度に墳丘の整備工事に伴って裾部の調査を行い、葺石や埴輪の状況を報告しています。陵墓は掘れませんが、まったく閉じたままというわけでもなくなりました。

周濠は、後から掘られたのかもしれない

いまこの古墳のまわりには、水をたたえた濠がめぐっています。ところが、この濠は築造当時のものではないかもしれない、という見方があります。

根拠は古文書です。周濠の存在を記さない古い記録が散見されること、そして現在の形が不自然であることから、もともとは濠を伴わなかったと推定されているのです。文久の修陵のときに整えられたとする説もあります。

古墳を見るとき、いま目に見えるものが当時のままとはかぎりません。島泉丸山古墳は明治18年に隣の方墳とつながれて前方後円形にされ、山田高塚古墳も江戸時代の修陵で大きく改変されています。修陵は保存であると同時に、改造でもありました。

嘉永2年の盗掘が伝えるもの

文献によれば、嘉永2年にこの古墳で盗掘があったことが知られています。当時は称徳天皇陵とされていました。

そのときの史料から、埋葬施設は竪穴式石室で、内部に長持形石棺が納められていたとみられています。長持形石棺は、中期の大王級の古墳に用いられた石の棺です。津堂城山古墳墓山古墳でも同じ形の石棺が確かめられています。

掘ることのできない陵墓について、中の様子がわかるのは、たいてい盗掘の記録によってです。野口王墓古墳は鎌倉時代の盗掘記録によって被葬者が定まり、佐紀陵山古墳は大正の盗掘事件のあとの復旧調査によって石室の姿が記録されました。皮肉な形で、知識が残されています。

五社神古墳から出土したもの

この古墳の中身は、直接には確かめられていません。陵墓として管理されており、発掘ができないためです。

知られているのは、墳丘の表面で見つかった葺石と埴輪、そして江戸時代の盗掘を記す史料からうかがえる石室の姿だけです。同じ群の塩塚古墳のように、史跡として調査された古墳とは、わかっていることの量がまるで違います。

葺石

墳丘の斜面を覆う石。宮内庁の墳丘裾部の調査で検出されている。

円筒埴輪・朝顔形埴輪

墳丘の外表で確かめられている。年代を考える手がかりになる。

形象埴輪

壺形・盾形・家形・蓋形の埴輪が知られる。

長持形石棺

江戸時代の盗掘を記す史料から、竪穴式石室に納められていたとみられる。

五社神古墳と関連する古墳

五社神古墳についてよくある質問

五社神古墳は誰の墓ですか。

わかっていません。宮内庁は仲哀天皇皇后の神功皇后の陵として管理していますが、行政上の扱いです。元禄のころには称徳天皇陵とされており、文久の修陵で今の治定に変わりました。

五社神古墳はどこにありますか。

堺市の一覧は所在地を奈良県奈良市山陵町としています。佐紀盾列古墳群の北西端にあたり、近くに佐紀石塚山古墳や佐紀陵山古墳があります。

五社神古墳の大きさはどれくらいですか。

堺市の全国の一覧では約275メートルで第12位です。佐紀盾列古墳群では最大にあたります。宮内庁の調査にもとづけば、およそ267メートルに復原されるとする報告もあります。

五社神古墳はいつ作られましたか。

古墳時代中期の初め、4世紀末葉ごろと推定されています。佐紀陵山古墳や宝来山古墳、佐紀石塚山古墳に続いて築かれた、という順序が考えられています。

五社神古墳の中に入れますか。

宮内庁が管理する陵墓で、墳丘に立ち入ることはできません。2008年に学会の代表による立ち入り調査が認められましたが、墳丘の1段目に限られ、掘ることはできませんでした。

五社神古墳と併せて覚えたい言葉・用語

造出し(つくりだし)

墳丘のくびれ部に張り出した平らな壇。祭りを行った場所と考えられている。

長持形石棺(ながもちがたせっかん)

長方形の箱の形をした石の棺。中期の大王級の古墳に用いられた。

修陵(しゅうりょう)

陵墓を整え直す工事。幕末の文久年間に大規模に行われ、古墳の形が変えられた例も多い。

周庭帯(しゅうていたい)

墳丘のまわりに設けられた平らな帯状の土地。濠を伴わない古墳で見られる。

五社神古墳の参考資料

この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。

  1. 堺市
  2. 宮内庁