若草山の山頂に築かれた前方後円墳。清少納言の書いた鶯陵に比される。
鶯塚古墳とはどんな古墳か
奈良県奈良市春日野町、若草山の山頂にある前方後円墳です。文化庁は1936年(昭和11年)9月3日に国の史跡に指定しています。
その解説文は、指定当時のままの文語で書かれています。「嫩草山ノ頂上ニアリ古來鶯陵トス前方後圓型ノ古墳ニシテ南西南ニ面ス」。規模はメートルではなく尺で示され、主軸の長さ約三百四十尺、後円部の径約二百尺、前方部の幅約百六十尺、高さ約二十六尺とあります。「埴輪及茸石ヲ存シ規模雄大ナリ」と結ばれています。
後円部の頂には享保十八年(1733年)の石碑が立ちます。近年おこなわれたドローンによる三次元測量では、前方部の前面に出島状施設があることが確かめられました。奈良の市街を見下ろす、標高のある場所に築かれた古墳です。
鶯塚古墳の読み方と別名
読みは「うぐいすづかこふん」です。文化庁のふりがなもこの読みで、「つか」ではなく「づか」と濁ります。
名の由来は、清少納言の『枕草子』に出てくる「うぐひすのみささぎ」を、この古墳に当てる言い伝えによります。文化庁の解説文も「古來鶯陵トス」と、古くから鶯陵と呼ばれてきたことを記しています。
もう一つ、江戸時代の初めの絵図には「牛墓」として載っていたとされます。鶯と牛。同じ墳丘に、まるで違う名が伝わってきたことになります。享保十八年(1733年)には東大寺の僧が墳丘の上に碑を建て、正面に「鶯塚」と刻みました。その碑の裏には、延喜式のいう平城坂上墓を清少納言が鶯陵と呼んだ、という趣旨の文が刻まれているといわれます。
鶯塚古墳(うぐいすづかこふん)
文化庁が用いる名。ふりがなも「うぐいすづかこふん」と記されている。
鶯陵(うぐいすのみささぎ)
文化庁の解説文が「古來鶯陵トス」と記す古い呼び名。清少納言の書いた名に比される。
嫩草山(わかくさやま)
解説文が用いる若草山の別表記。嫩は、やわらかい若葉を意味する字。
鶯塚古墳は誰の墓か
この古墳に葬られた人が誰かは、わかっていません。
文化庁の解説文は、墳丘の形と規模、埴輪と葺石が残ること、後円部の頂に享保十八年の碑があることを記すのみで、被葬者について書かれた記載はありません。
古くから「鶯陵」と呼ばれてきたことは、文化庁の解説文からもわかります。ただし、それは呼び名であって、誰の墓かを示すものではありません。江戸時代の碑に刻まれた文も、延喜式の記す墓をこの古墳に当てる見方を伝えるだけです。
この古墳は国の史跡として指定されており、宮内庁の陵墓の一覧では確かめられませんでした。発掘調査も行われていません。それでも、墳丘の上からは小型の内行花文鏡や滑石製の斧形の石製品が見つかっており、副葬品とみられています。奈良盆地を見下ろす場所に葬られた首長がいた。そこまでが言えることです。
断定できない:わかっていない
解説文は墳丘の形と規模、埴輪と葺石、江戸時代の碑を記すのみで、被葬者にふれていない。
土地に残る言い伝え。確かめられたものではない:うぐひすのみささぎに葬られた人
解説文に「古來鶯陵トス」とあり、古くからそう呼ばれてきたことだけがわかる。
鶯塚古墳の大きさと形
文化庁の解説文は、この古墳の規模をメートルではなく尺で記しています。主軸ノ長サ約三百四十尺、後圓部徑約二百尺、前方部ノ幅約百六十尺、高サ約二十六尺。1936年の指定当時の文章が、そのまま残っているためです。
続けて「封土ハ山頂ヲ利用シテ二段ニ築成セラレシモノノ如ク埴輪及茸石ヲ存シ規模雄大ナリ」とあります。山の頂そのものを利用して、二段に築いたという見立てです。茸石は葺石のことです。
近年の三次元測量では、新しい発見がありました。奈良文化財研究所が公開する報告の抄録は「前方部前面に出島状施設の存在を確認した」としています。出島状施設とは、墳丘から前へ突き出した壇のことです。詳細な墳丘測量図が得られ、前方後円墳の設計を復元するうえで有効なデータが得られた、とも記されています。
主軸ノ長サ(文化庁の解説文):約三百四十尺
後圓部徑(同):約二百尺
前方部ノ幅・高サ(同):約百六十尺・約二十六尺
指定年月日:1936.09.03(昭和11.09.03)
三次元測量での発見:前方部前面に出島状施設
鶯塚古墳はいつ作られたか
築造年代を記した公式ページを、確かめられませんでした。文化庁の国指定文化財等データベースは、時代・年代・西暦の欄をいずれも空欄としています。
下調べによれば、古墳時代前期の後半ごろと推定されています。奈良盆地では、東南部の大和古墳群や柳本古墳群に大型古墳が築かれたあと、王墓級の古墳が盆地の西北部へ移っていく、その時期にあたります。
墳丘からは、円筒埴輪のほか家形・舟形・蓋形の埴輪が出土しているとされます。形をかたどった埴輪が並ぶようになるのは、古墳時代前期の後半からです。
同じ奈良市では、佐紀の一帯にヒシアゲ古墳やウワナベ古墳、コナベ古墳が並びます。それらが平地に築かれたのに対し、この古墳は標高342メートルとされる若草山の頂にあります。
鶯塚古墳の場所と行き方(観光情報)
この古墳は、奈良市の東の郊外、若草山の山頂にあります。平地の古墳と違い、登らなければたどり着けません。
奈良県内では、天理市の大和古墳群、桜井市の箸墓古墳、奈良市佐紀のヒシアゲ古墳やウワナベ古墳などが知られます。それらはいずれも盆地の中にあり、山の上に築かれた大型の前方後円墳は珍しい部類に入ります。
鶯塚古墳
鶯塚古墳の住所:奈良市春日野町(文化庁の所在地(市区町村)の欄。番地までは確認できませんでした)
交通:公式に確認できませんでした
駐車場:公式に確認できませんでした
料金:公式に確認できませんでした。若草山の入山にかかる料金や開山の期間も、公式には確かめられませんでした
内部見学:国の史跡であり、宮内庁の陵墓ではありません。若草山の山頂にあり、後円部の頂には江戸時代の碑と三角点があります。ただし墳丘に立ち入れるかどうかを記した公式の案内は確認できませんでした
文化庁の国指定文化財等データベースは、所在地(市区町村)を奈良市春日野町としています。行き方、駐車場、料金を記した公式ページは確認できませんでした。
若草山は開山の期間が定められている山ですが、その期間や入山の料金についても公式には確かめられませんでした。訪ねる前に、奈良市や奈良県の観光案内で最新の状況を確かめてください。
鶯塚古墳の発見と調査の歩み
尺で書かれた指定の文章
文化庁の国指定文化財等データベースで、この古墳の解説文を開くと、まず文語の漢字の連なりが目に入ります。「嫩草山ノ頂上ニアリ古來鶯陵トス前方後圓型ノ古墳ニシテ南西南ニ面ス」。
規模も、メートルではなく尺です。1936年(昭和11年)の指定当時の文章が、そのまま残されているためです。
奈良県御所市の室宮山古墳も、同じように尺で書かれた解説文をもちます。書き換えないのには理由があります。指定のときに何を認めたのかという記録は、あとから測り直した数字とは別に残しておく必要があるからです。読みにくさと引き換えに、当時の判断がそのまま伝わります。
ドローンが見つけた出島
この古墳では、発掘調査が行われていません。そのかわり、近年おこなわれたのが三次元の測量です。
奈良文化財研究所が公開する報告の抄録は、こう記しています。奈良市に所在する鶯塚古墳について、ドローンを用いた三次元測量を行った。その結果、詳細な墳丘測量図が得られ、前方後円墳の設計を復元する上で有効なデータを得た。また、前方部前面に出島状施設の存在を確認した、と。
出島状施設とは、墳丘の前に突き出した壇のことです。まつりの場だったと考えられています。八十年以上、国の史跡として知られてきた古墳に、まだ見つかっていない構造がありました。
掘らずに測るだけでも、新しいことがわかります。
鶯と牛、二つの名
この古墳には、まるで違う二つの名が伝わっています。
ひとつは「鶯塚」。清少納言の『枕草子』に出てくる「うぐひすのみささぎ」を、この古墳に当てる言い伝えによります。文化庁の解説文も「古來鶯陵トス」としています。
もうひとつは「牛墓」。江戸時代の初めの東大寺の絵図に、そう記されていたとされます。同じ墳丘が、片方では雅な名で、片方ではそっけない名で呼ばれていたことになります。
享保十八年(1733年)、東大寺の僧が墳丘の上に碑を建てました。正面には「鶯塚」の二字。以後、こちらの名が定着していきます。碑を建てるという行いは、二つに割れた呼び名の片方に決着をつける働きをもちました。
鶯塚古墳から出土したもの
この古墳では発掘調査が行われていません。文化庁の解説文が記すのは「埴輪及茸石ヲ存シ」という一言だけです。
それでも、墳丘の上で拾われた品がいくつかあります。小型の内行花文鏡と、滑石でつくられた斧形の石製品。いずれも副葬品とみられています。奈良県立橿原考古学研究所附属博物館に保管されているとされますが、常設の展示は無いといわれます。
円筒埴輪
文化庁の解説文は「埴輪及茸石ヲ存シ」と記す。墳丘の表面に並べられていた。
家形・舟形・蓋形埴輪
形をかたどった埴輪が出土しているとされる。前期後半からあらわれる。
小型内行花文鏡
1953年(昭和28年)に前方部の南西の隅で見つかったとされる銅鏡。
滑石製斧形石製品
墳丘上で出土したとされる。実用ではなく、まつりのための品とみられる。
鶯塚古墳と関連する古墳
鶯塚古墳についてよくある質問
鶯塚古墳は誰の墓ですか。
わかっていません。古くから鶯陵と呼ばれてきたことは文化庁の解説文からわかりますが、それは呼び名であって被葬者を示すものではありません。
鶯塚古墳はどこにありますか。
文化庁は所在地を奈良市春日野町としています。若草山の山頂にあります。行き方や入山の料金は、公式に確認できませんでした。
鶯塚古墳の大きさはどれくらいですか。
文化庁の解説文は尺で記しており、主軸ノ長サ約三百四十尺、後圓部徑約二百尺、前方部ノ幅約百六十尺、高サ約二十六尺としています。
鶯塚古墳はいつ作られましたか。
築造年代を記した公式ページは確認できませんでした。文化庁の時代欄は空欄です。下調べでは古墳時代前期の後半ごろとされます。
鶯塚古墳の墳丘に登れますか。
墳丘に立ち入れるかどうかを記した公式の案内は確認できませんでした。国の史跡であり、宮内庁の陵墓ではありません。後円部の頂には江戸時代の碑があります。
鶯塚古墳と併せて覚えたい言葉・用語
出島状施設(でじまじょうしせつ)
墳丘の前に突き出した壇。陸橋で墳丘とつながり、まつりの場と考えられている。
葺石(ふきいし)
墳丘の斜面を覆う石。古い解説文では「茸石」と書かれることがある。
内行花文鏡(ないこうかもんきょう)
内側に向かって花びらのような弧を並べた文様をもつ銅鏡。
三次元測量(さんじげんそくりょう)
地形の高さを面としてとらえる測り方。掘らずに墳丘の形を読み取れる。
鶯塚古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。