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大阪府

帝塚山古墳とはどんな古墳か|誰の墓か・場所

帝塚山古墳  / テヅカヤマコフン

前方後円墳 5世紀

大阪市街のただ中に残る前方後円墳。帝塚山という地名のもとになった。

帝塚山古墳とはどんな古墳か

大阪市住吉区帝塚山にある前方後円墳です。文化庁は、大町台地南部の西縁に立地し前方部は西南に面するとしたうえで、主軸の長さ約88メートル、後円部の径約49メートル、高さ約9メートル、前方部の幅約39メートル、高さ約8メートルとしています。

墳丘には埴輪円筒列があり、周囲の一部に堀の跡をとどめています。文化庁はこの古墳を「中期的な特色をそなえており、市街地に存する古墳としては、比較的旧状をとどめ、学術上の価値が高い」と評し、1963年(昭和38年)10月19日に国の史跡としました。

住宅と鉄道に囲まれた土地に、これだけの墳丘がそのまま残っていること自体が珍しい例です。明治のころまでは、俗に大帝塚・小帝塚と呼ばれる大小二つの塚が並んでいたと伝えられ、いま残るのはそのうち小さいほうだといわれます。

帝塚山古墳の読み方と別名

読みは「てづかやまこふん」です。文化庁のふりがなもこの読みで、「ていづか」ではありません。

この古墳が面白いのは、古墳の名が土地の名になり、駅の名にも学校の名にもなっている点です。大阪で帝塚山といえば、まず地名として通じます。もとをたどれば、この墳丘一つに行き当たります。

名の由来には二つの言い伝えがあります。ひとつは、明治天皇が大阪に行幸した折に当地へ足を運んだことを機に「帝塚山」と改められたというもの。もうひとつは、江戸時代後期の『摂津名所図会』にすでに「帝塚山」の記載があるというものです。どちらが正しいかは確かめられていません。もとは、たんに「塚」「手塚」「手塚山」と呼ばれていたと伝えられます。

帝塚山古墳(てづかやまこふん)

文化庁が用いる名。ふりがなも「てづかやまこふん」と記されている。

小帝塚(こてづか)

大小二つあったうちの小さいほうの呼び名。いま残るのはこちらだと伝えられる。

手塚山(てづかやま)

もとの呼び名と伝えられる。「塚」「手塚」「手塚山」と呼ばれていたという。

帝塚山古墳は誰の墓か

この古墳に葬られた人が誰かは、わかっていません

文化庁の解説文は、立地・規模・埴輪円筒列・堀の跡を記し、「中期的な特色をそなえており、市街地に存する古墳としては、比較的旧状をとどめ、学術上の価値が高い」と結びます。被葬者について書かれた記載はありません。

土地には、この地に館をもったとされる古代の豪族、大伴氏の墓だという言い伝えが残ります。大小二つあったうちの大きいほうを大伴金村、小さいほうをその子の墓とする話です。ただし大伴金村は6世紀前半の人物とされ、文化庁のいう中期的な特色とは年代が合いません。

宮内庁の陵墓としての治定は受けていません。掘れる立場にはありますが、市街地のまん中にあるため、まとまった発掘調査は行われていません。

断定できない:わかっていない

解説文は立地・規模・埴輪円筒列・堀の跡を記すのみで、被葬者にはふれていない。

土地に残る言い伝え。年代が合わないと指摘されている:大伴氏の人物

言い伝えは公式ページで確かめられなかった。文化庁は中期的な特色をそなえるとしている。

帝塚山古墳の大きさと形

文化庁は、この古墳の規模を主軸の長さ約88メートル後円部の径約49メートル、高さ約9メートル、前方部の幅約39メートル、高さ約8メートルとしています。前方部は西南に面します。

数字を並べると、後円部の径49メートルに対して前方部の幅は39メートル。後円部のほうが幅広い、古い形を残した釣り合いです。古墳時代の後半になるほど前方部は幅を増していき、羽曳野市の軽里大塚古墳のように前方部が後円部よりずっと広い古墳が現れます。

文化庁は、墳丘に埴輪円筒列が存在し、周囲の一部に堀の跡をとどめるとしています。指定は1963年(昭和38年)10月19日です。

主軸の長さ:約88メートル

後円部の径:約49メートル

後円部の高さ:約9メートル

前方部の幅:約39メートル

前方部の高さ:約8メートル

指定年月日:1963.10.19(昭和38.10.19)

帝塚山古墳はいつ作られたか

文化庁は、この古墳について「中期的な特色をそなえており」と記しています。古墳時代の中期、およそ5世紀ごろにあたります。年代を数字ではっきり示した公式ページは確認できませんでした。

中期的な特色として文化庁の解説文が挙げているのは、埴輪円筒列があること、周囲の一部に堀の跡をとどめることです。円筒埴輪をぐるりと並べ、濠をめぐらせる造り方は5世紀の古墳に広く見られます。

同じころ、堺市では大仙陵古墳が、羽曳野市では誉田御廟山古墳が築かれていました。八十八メートルという長さは、それらとは桁が違います。大阪の南のはずれで、この一帯をまとめた首長の墓だったと考えられます。

帝塚山古墳の場所と行き方(観光情報)

大阪市内で墳丘の残る古墳は多くありません。この古墳は、文化庁が「市街地に存する古墳としては、比較的旧状をとどめ、学術上の価値が高い」と書いたとおりの立場にあります。市街地に呑まれず残った、数少ない例です。

南に行けば堺市の百舌鳥古墳群、東に行けば八尾市の心合寺山古墳、さらに東には羽曳野市と藤井寺市の古市古墳群が広がります。

帝塚山古墳

地図で開く

帝塚山古墳の住所:大阪市住吉区帝塚山(文化庁の所在地(市区町村)の欄。番地までは確認できませんでした)

交通:公式に確認できませんでした

駐車場:公式に確認できませんでした

料金:公式に確認できませんでした

内部見学:国の史跡ですが、墳丘に立ち入れるかどうかを記した公式ページは確認できませんでした。宮内庁の陵墓ではありません

文化庁の国指定文化財等データベースは、所在地(市区町村)を大阪市住吉区帝塚山としています。番地までの住所、行き方、駐車場、料金を記した公式ページは確認できませんでした。

文化庁は、この古墳を大町台地南部の西縁に立地するとしています。台地の縁に沿って築かれた古墳で、いまはその周りが一面の市街地です。

帝塚山古墳の発見と調査の歩み

  1. 大帝塚と小帝塚
  2. 地名になった古墳
  3. 都市計画に呑まれなかった墳丘

大帝塚と小帝塚

明治のころまで、この一帯には俗に大帝塚・小帝塚と呼ばれる大小二つの古墳があったと伝えられます。大きいほうは学校の敷地となり、いま残るのは小さいほうだといわれます。

文化庁が史跡としているのは、残ったほうの一基です。解説文は、主軸の長さ約88メートル、後円部の径約49メートル、高さ約9メートル、前方部の幅約39メートル、高さ約8メートルとしています。

消えたほうの規模はわかりません。国立国会図書館の検索には「帝塚山古墳 : 「大帝塚」「小帝塚」をめぐって」という論考の記録が残っており、この問題が長く論じられてきたことがうかがえます。大阪市街では、こうして片方だけが残るという例が少なくありません。

地名になった古墳

帝塚山は、いまでは大阪の地名として広く知られています。もとをたどれば、この古墳一つに行き当たります。

古墳が地名になる例は各地にあります。奈良県の室宮山古墳が後円部に建った社にちなんで「宮山」と呼ばれたように、目印になる高まりは、そのまま土地の名になります。

この古墳の場合は、順序が少し込み入っています。もとは「塚」「手塚」「手塚山」と呼ばれ、のちに「帝塚山」となり、その名が周囲の町名になり、駅名になり、学校名になりました。近くの停留場に残る「塚西」は、塚の西という意味だと指摘されています。

都市計画に呑まれなかった墳丘

昭和のはじめ、大阪市はこの古墳の周囲を含む地域を史跡公園として整備し、帝塚山公園とする都市計画事業を立ち上げたと伝えられます。しかし土地の買収が進まず、計画は頓挫しました。

公園にならなかったことが、結果としてこの古墳を守ったともいえます。整備されれば、墳丘の形には手が入ります。買収が進まなかったために、墳丘はそのままの姿で残りました。

文化庁が「比較的旧状をとどめ、学術上の価値が高い」と書けるのは、そのためです。壊されかけて市民運動で残った堺市のいたすけ古墳とは、また違う残り方でした。

帝塚山古墳から出土したもの

文化庁の解説文が挙げているのは、埴輪円筒列と堀の跡の二つだけです。副葬品について記した公式ページは確認できませんでした。

市街地のまん中にあるため、墳丘を掘り下げるような調査は行われていません。墳丘の形は、外から測ることでとらえられてきました。国立国会図書館の検索には、大阪市立大学による測量調査の報告の記録が残っています。

埴輪円筒列

文化庁は「墳丘には、埴輪円筒列も存し」と記している。墳丘に並べられていた。

堀の跡

文化庁は、周囲の一部に堀の跡をとどめるとしている。もとは濠がめぐっていた。

埋葬施設

まとまった発掘調査が行われておらず、構造も副葬品もわかっていない。

測量の記録

大学による測量調査の報告が刊行されている。墳丘の形はそこから読み取られてきた。

帝塚山古墳と関連する古墳

帝塚山古墳についてよくある質問

帝塚山古墳は誰の墓ですか。

わかっていません。大伴氏の墓という言い伝えがありますが、年代が合わないと指摘されています。文化庁の解説文も被葬者にはふれていません。

帝塚山古墳はどこにありますか。

文化庁は所在地(市区町村)を大阪市住吉区帝塚山とし、大町台地南部の西縁に立地するとしています。番地までの住所や行き方は公式に確認できませんでした。

帝塚山古墳の大きさはどれくらいですか。

文化庁は、主軸の長さ約88メートル、後円部の径約49メートル、高さ約9メートル、前方部の幅約39メートル、高さ約8メートルとしています。

帝塚山古墳はいつ作られましたか。

文化庁は「中期的な特色をそなえており」と記しています。古墳時代の中期、およそ5世紀ごろにあたります。年代を数字で示した公式ページは確認できませんでした。

帝塚山古墳の墳丘に登れますか。

墳丘に立ち入れるかどうかを記した公式ページは確認できませんでした。国の史跡であり、宮内庁の陵墓ではありません。料金や開いている時間も確かめられませんでした。

帝塚山古墳と併せて覚えたい言葉・用語

円筒埴輪(えんとうはにわ)

筒の形をした埴輪。墳丘の平らな面にぐるりと並べられ、古墳の区切りを示した。

古墳時代中期(こふんじだいちゅうき)

およそ5世紀ごろ。巨大な前方後円墳が次々に築かれた時期にあたる。

台地(だいち)

周りより一段高く平らな土地。水に浸からないため、古墳の多くは台地の縁に築かれた。

国の史跡(くにのしせき)

国が歴史上重要と認めて指定した土地。宮内庁の陵墓とは別の枠組みで、調査ができる。

帝塚山古墳の参考資料

この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。

  1. 文化庁