日本武尊の白鳥陵として治定されている、古市古墳群の前方後円墳。
軽里大塚古墳とはどんな古墳か
大阪府羽曳野市軽里にある前方後円墳です。堺市がまとめた全国の古墳大きさランキングは、この古墳を「白鳥陵古墳(軽里大塚古墳)」として墳丘規模200メートルに置き、世界文化遺産の構成資産としています。
宮内庁は、日本武尊の白鳥陵として管理しています。日本武尊は記紀に伝えられる人物で、死後に白鳥となって飛び去ったという話が語られてきました。羽曳野という市の名も、その話に由来するとされます。
ただし治定は行政上の扱いであって、葬られた人が確かめられたという意味ではありません。前方部の幅が後円部の径よりずっと広いという墳形の特徴から、古市古墳群の中では新しい段階の古墳と考えられています。別名を前の山古墳ともいい、北には墓山古墳があります。
軽里大塚古墳の読み方と別名
読みは「かるさとおおつかこふん」です。「軽里」は所在地の名で、「大塚」は大きな塚という、そのままの意味です。
宮内庁が定める陵名は白鳥陵で、「しらとりのみささぎ」と読みます。堺市の全国一覧は「白鳥陵古墳(軽里大塚古墳)」と、治定名を先に置いて古墳名を括弧で添える書き方をしています。大仙陵古墳を「仁徳天皇陵古墳(大山古墳)」と書くのと同じ形です。
もう一つ、土地では前の山古墳とも呼ばれてきました。同じ古墳に三通りの名があることになります。探す先によって、使う名を変える必要があります。
軽里大塚古墳(かるさとおおつかこふん)
所在地の軽里と、大きな塚という意味を合わせた名。考古学の側からの呼び方。
白鳥陵古墳(しらとりりょうこふん)
治定にもとづく呼び方。堺市の一覧は「白鳥陵古墳(軽里大塚古墳)」と併記している。
前の山古墳(まえのやまこふん)
土地に伝わる呼び名。手前に見える山、という意味の素朴な名にあたる。
軽里大塚古墳は誰の墓か
この古墳に葬られた人が誰かは、わかっていません。
宮内庁は、この古墳を日本武尊の白鳥陵として管理しています。堺市の全国一覧にも「白鳥陵古墳(軽里大塚古墳)」の名で載ります。治定は行政上の扱いであって、発掘によって確かめられたものではありません。
そもそも日本武尊は、記紀に伝えられる人物です。景行天皇の皇子で仲哀天皇の父にあたるとされ、東西に遠征したのち伊勢で没し、白鳥となって飛び去ったと語られます。実在の人物として扱えるかどうかから、議論が分かれる存在です。
いっぽう考古学の側から言えることは限られます。主体部も副葬品もわかっていません。わかっているのは、前方部が後円部より大きく開くという墳形の特徴だけです。それは、古市古墳群の中でも新しい段階の古墳であることを示します。
宮内庁の治定。行政上の扱いであり、学術的に確かめられたものではない:日本武尊(やまとたけるのみこと)
堺市の全国一覧に「白鳥陵古墳(軽里大塚古墳)」と、治定名と古墳名を併記した形で載る。
断定できない:わかっていない
公表されているのは古墳名・規模・所在地だけで、被葬者を確かめた根拠にあたる記載は無い。
軽里大塚古墳の大きさと形
堺市の全国の古墳大きさランキングは、この古墳の墳丘規模を200メートルとし、所在地を大阪府羽曳野市軽里としています。世界文化遺産の構成資産という印も付いています。
200メートルという数字には、同じ長さの古墳がずらりと並びます。大阪府岸和田市の摩湯山古墳、奈良県広陵町の新木山古墳、川西町の島の山古墳、京都府の神明山古墳、岡山県の両宮山古墳。同じ順位に六基が肩を並べる、混み合った位置です。
古市古墳群の中では、第2位の誉田御廟山古墳が425メートル、第22位の墓山古墳が225メートル。この古墳は、それらに次ぐ位置にあります。後円部の径や高さといった細かい数字を記した公式ページは、確認できませんでした。
墳丘規模(全長):200メートル
所在地:大阪府羽曳野市軽里
世界文化遺産:構成資産
同じ200メートルの古墳:摩湯山古墳・新木山古墳・島の山古墳・神明山古墳・両宮山古墳
軽里大塚古墳はいつ作られたか
この古墳の築造年代を記した公式ページを、確かめられませんでした。堺市の一覧が載せているのは、古墳名と規模と所在地だけです。
下調べによれば、発掘調査で後円部の円筒埴輪列が確認され、朝顔形埴輪や家・蓋などの形象埴輪が出土したとされます。それらの出土品と、前方部の幅が後円部の径のおよそ1.5倍もあるという墳形上の特徴から、5世紀後半の築造と推定されているといわれます。
前方部が大きく開くというのは、古墳時代の後半に進むにつれて強まる傾向です。大阪市の帝塚山古墳のように後円部のほうが幅広い古墳と比べると、違いがよくわかります。
軽里大塚古墳の場所と行き方(観光情報)
古市古墳群は、羽曳野市と藤井寺市にまたがって広がります。堺市の一覧には、藤井寺市の仲ツ山古墳(290メートル)、岡ミサンザイ古墳(242メートル)、市野山古墳(230メートル)、津堂城山古墳(208メートル)が載ります。この古墳は、群の南のはずれにあたります。
同じ古市古墳群の高屋築山古墳は、宮内庁が安閑天皇陵として管理しています。二つの陵墓は、そう離れていません。
軽里大塚古墳(白鳥陵古墳)
軽里大塚古墳(白鳥陵古墳)の住所:大阪府羽曳野市軽里
交通:公式に確認できませんでした
駐車場:公式に確認できませんでした
料金:公式に確認できませんでした
内部見学:治定を受けた陵墓は、原則として墳丘に立ち入ることができません。この古墳について、立ち入りや拝所の案内を記した公式ページは確認できませんでした
軽里大塚古墳の発見と調査の歩み
白鳥になって飛んだという話
この古墳の名は、記紀の伝える話に由来します。
日本武尊は、東西の遠征を終えたのち伊勢で没し、その魂が白鳥となって飛び去ったと語られます。飛んだ白鳥が降り立った場所に陵が築かれ、また飛び立った。そうして陵がいくつも生まれた、という筋書きです。羽曳野という市の名も、白鳥が羽を曳くように飛んだという話からきているとされます。
愛知県にも、三重県にも、日本武尊にちなむ陵とされる古墳が伝えられてきました。一人の人物に陵がいくつもあるというのは、話としては筋が通っています。飛んで移ったのですから。ただし、それは古墳を確かめる根拠にはなりません。
前方部が後円部より広いということ
この古墳の墳形には、はっきりした特徴があるとされます。前方部の幅が、後円部の径のおよそ1.5倍もあるという点です。
前方後円墳は、時代が下るにつれて前方部が発達していきます。初めのころは後円部が主で、前方部は細く低い。それが次第に幅を増し、やがて後円部を上回ります。前方部の広がり方が、そのまま時期の物差しになるということです。
奈良県の箸墓古墳や大阪市の帝塚山古墳のように後円部が主役の古墳と並べれば、違いは一目でわかります。そのため、この古墳は古市古墳群の中でも新しい段階に置かれます。ただし、これらは公式ページで確かめられたものではありません。
掘れない古墳から、何がわかるか
この古墳の主体部も副葬品も、わかっていません。宮内庁が管理する陵墓であり、墳丘を掘ることができないためです。
それでも、まったくわからないわけではありません。濠や堤といった、管理の及ぶ範囲の外側では調査ができるからです。下調べによれば、1981年の発掘調査で後円部の円筒埴輪列が確認され、朝顔形埴輪や家・蓋などの形象埴輪が出土したとされます。
埴輪は墳丘の表面に並べられていたものですから、崩れて濠に落ちれば、掘れる場所から出てきます。同じことは堺市のいたすけ古墳でも起きており、採集された冑形の埴輪が、いまも市の文化財保護のしるしになっています。
軽里大塚古墳から出土したもの
この古墳の主体部と副葬品については、何もわかっていません。宮内庁が管理する陵墓で、墳丘を掘ることができないためです。
知られているのは、墳丘の表面に並べられていた埴輪だけです。下調べによれば、発掘調査で円筒埴輪列が確認され、朝顔形埴輪や家・蓋などの形象埴輪が出土したとされます。
円筒埴輪
後円部で列が確認されたとされる。墳丘の平らな面にぐるりと並べられていた。
朝顔形埴輪
口が開いた形の埴輪。円筒埴輪の列にまじって立てられることが多い。
家形埴輪
建物をかたどった埴輪。出土したとされるが、公式ページでは確かめられなかった。
蓋形埴輪
貴人にさしかける傘をかたどった埴輪。権威を表す道具として並べられた。
軽里大塚古墳と関連する古墳
軽里大塚古墳についてよくある質問
軽里大塚古墳は誰の墓ですか。
わかっていません。宮内庁は日本武尊の白鳥陵として管理していますが、治定は行政上の扱いです。日本武尊は記紀に伝えられる人物で、実在をめぐって議論があります。
軽里大塚古墳はどこにありますか。
堺市の全国の古墳大きさランキングは、所在地を大阪府羽曳野市軽里としています。古市古墳群の南のはずれにあたります。行き方は公式に確認できませんでした。
軽里大塚古墳の大きさはどれくらいですか。
堺市は墳丘規模200メートルとしています。同じ200メートルには摩湯山古墳・新木山古墳・島の山古墳などが並びます。後円部の細かい数字は確認できませんでした。
軽里大塚古墳はいつ作られましたか。
築造年代を記した公式ページは確認できませんでした。下調べでは、出土した埴輪と前方部が大きく開く墳形から、5世紀後半とされています。
軽里大塚古墳の中に入れますか。
立ち入りについて記した公式ページは確認できませんでした。治定を受けた陵墓は、原則として墳丘に立ち入ることができません。
軽里大塚古墳と併せて覚えたい言葉・用語
治定(じじょう)
宮内庁が、ある古墳を特定の天皇や皇族の陵墓と定めること。学術的な確定ではない。
朝顔形埴輪(あさがおがたはにわ)
口の開いた形の埴輪。円筒埴輪の列にまじって立てられ、区切りを示したとされる。
蓋形埴輪(きぬがさがたはにわ)
貴人にさしかける傘をかたどった埴輪。権威を表す道具として墳丘に並べられた。
主体部(しゅたいぶ)
棺を納めた埋葬施設のこと。陵墓では掘れないため、わからない古墳が多い。
軽里大塚古墳の参考資料
この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。