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方墳一覧|日本最大の方墳と、石舞台古墳がこの形である理由

四角い墳丘の古墳を方墳といいます。数は多くありませんが、

古墳時代の最後に、大王の墓がこの形になった。

石舞台古墳も、赤坂天王山古墳も方墳です。前方後円墳が作られなくなったあと、何が起きたのかを示す形がこれです。

しかも、収録している方墳は飛鳥とその周辺に集中しています

このページでは、収録している方墳を横に並べて比べます。

方墳とは|いつ、なぜ作られたか

上から見て四角い墳丘の古墳です。

方墳は古墳時代の初めからありますが、注目されるのは終末期です。

六世紀の終わりごろ、前方後円墳が作られなくなる。

そのあと、大王級の墓は方墳を経て八角墳へ移っていきます。

この移り変わりの理由は、決着していません。 中央の権力の性格が変わったとする見方、大陸の制度を取り入れたとする見方などが示されていますが、確かめられてはいません

もう一つ、方墳には別の使われ方もあります。

大型古墳のそばに置かれる陪冢(ばいちょう)に、方墳が多い。

従者や副葬品を納めたと考えられてきましたが、この見方も見直されつつあります。

石舞台古墳|なぜ盛り土がないのか 1基

石舞台古墳(奈良県明日香村)は、日本でもっともよく知られた方墳です。

盛り土を失い、巨石の石室がむき出しになっている。

もともとこの姿だったわけではありません。 土を盛った方墳で、その土が失われた結果、中の石室だけが残りました。奈良県は、墳丘が一辺約55メートルの方形であることを調査から確認しています。

石室の全長は19.08メートル。玄室は長さ7.5メートル・幅3.48メートル・高さ4.70メートル、羨道は長さ11.5メートルです。

天井石の手前の一枚は、推定77トンにもなる。

蘇我馬子の桃原墓である可能性が高いと考えられていますが、断定はされていません。被葬者の名が記されたものは出ていないためです。

江戸時代の書物には、すでに石が露出した姿が描かれています。「石舞台」という呼び名も、平らな天井石を舞台に見立てたところから来ています。いつ、なぜ盛り土が失われたのかは分かっていません。

飛鳥の方墳|切石で組んだ石室 3基

飛鳥には、磨いた切石で組んだ石室を持つ方墳が集まっています。

岩屋山古墳(奈良県明日香村)は、その基準になった一基です。明日香村は、昭和48年からの調査で一辺約54メートルの方形墳が想定されたとしています。

岩屋山式という名は、この古墳から来ている。

石室の造りが揃っている古墳を「岩屋山式」と呼び、年代を推し量る手がかりにします。石室は表面を磨いた精美な切石造りで、ほぼ南を向いて開口しています。

被葬者は分かっていません。 明日香村は、吉備姫王・巨勢雄柄宿禰・斉明天皇らの名が挙がるが詳細は不明としています。

菖蒲池古墳(奈良県橿原市)には、

類例のない優美な家形石棺が、二基そろって並ぶ。

屋根の形を彫り出した石棺が向かい合っており、二人が同時に葬られたことを示します。

植山古墳(同)は一つの墳丘に石室が2基ある長方形の墳丘で、推古朝に限られる造りを持ちます。

石舞台の巨石と、岩屋山の切石は、技術の段階が違います。 大きな石を運ぶ力から、石を精密に加工する力へという移り変わりが、飛鳥の方墳には並んで残っています。

大方墳と、陪塚の常識を覆した方墳 2基

赤坂天王山古墳(奈良県桜井市)は、文化庁が東西約45メートル・南北約42メートルの方形墳とする大方墳です。国の史跡としての指定名称は「天王山古墳」です。

崇峻天皇の墓ではないかと語られてきた。

ただし治定されているわけではありません。 宮内庁は同じ桜井市大字倉橋の別の場所を崇峻天皇陵とし、陵形を円丘としています

同じ天皇の墓の候補が二つあり、形が違う。

宮内庁が定めた陵と、考古学が注目する古墳が食い違う典型例です。

岡古墳(大阪府藤井寺市)は一辺33メートルの方墳で、今は消えています。しかし、

陪塚の常識を覆した。

大型古墳のそばに置かれた小型の古墳は、従者や副葬品を納めるためのものと考えられてきました。ところが岡古墳からは、独立した墓としか考えられない内容が出ています。

そばにあるからといって、従属していたとは限らない。

方墳は数が少ないぶん、一基ずつが議論の的になっています。

方墳を並べる

収録している方墳を、大きさと特徴で並べます。

古墳所在規模特徴
赤坂天王山古墳奈良県桜井市東西約45メートル大方墳。崇峻天皇の墓と語られる
岡古墳大阪府藤井寺市一辺33メートル陪塚の常識を覆した。現存せず
石舞台古墳奈良県明日香村一辺約55メートル石室全長19.08メートル。天井石は推定77トン
岩屋山古墳奈良県明日香村一辺約54メートル岩屋山式の名のもと。石室が開口
菖蒲池古墳奈良県橿原市小型家形石棺が2基そろって並ぶ
植山古墳奈良県橿原市長方形の墳丘石室2基。推古朝に限られる造り

並べると、収録している方墳が奈良と大阪に集まっているとわかります。

飛鳥に、方墳が固まっている。

偶然ではありません。前方後円墳が作られなくなった六世紀末から七世紀にかけて、政治の中心が飛鳥にあったためです。大王とその周辺の墓が、この時期にこの場所で方墳として築かれました。

もうひとつ、方墳は中が見えるものが多いという特徴があります。

石舞台は石室がむき出し、岩屋山は石室が開口している。

宮内庁が陵墓として管理していないためです。天皇陵として治定されていないことが、かえって調査と見学を可能にしました

このあと、大王の墓は八角墳へ移ります。方墳は、その一つ手前の段階にあたります。

方墳についてよくある質問

方墳とはどんな古墳ですか。

上から見て四角い墳丘の古墳です。古墳時代の初めからありますが、前方後円墳が作られなくなる六世紀の終わりごろから、大王級の墓としての方墳が現れます。

石舞台古墳はなぜ石がむき出しなのですか。

もともとは土を盛った方墳で、その盛り土が失われた結果、中の石室だけが残りました。いつ、なぜ失われたのかは分かっていません。江戸時代の書物には、すでに石が露出した姿が描かれています。

石舞台古墳は誰の墓ですか。

規模と築造時期、そして島庄という土地から、蘇我馬子の桃原墓である可能性が高いと考えられています。ただし断定はされていません。被葬者の名を記したものは出ていません。

岩屋山式とは何ですか。

奈良県明日香村の岩屋山古墳に見られる、磨いた切石で組んだ石室の造りを指します。同じ造りを持つ古墳を岩屋山式と呼び、年代を推し量る手がかりにします。明日香村は墳丘を一辺約54メートルの方形墳と想定しています。

なぜ方墳は奈良と大阪に多いのですか。

前方後円墳が作られなくなった六世紀末から七世紀にかけて、政治の中心が飛鳥にあったためです。大王とその周辺の墓が、この時期にこの地域で方墳として築かれました。

方墳の石室は見られますか。

見られるものがあります。石舞台古墳は盛り土を失って石室がむき出しになっており、岩屋山古墳の石室はほぼ南を向いて開口しています。いずれも宮内庁が陵墓として管理していない古墳です。

方墳の一覧(収録しているすべての古墳) 14基

本文で取り上げなかったものも含めて、この形に属する古墳をすべて並べています。名前を押すと個別ページへ移ります。

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