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大阪府

河内大塚山古墳とはどんな古墳か|誰の墓か・場所

河内大塚山古墳  / カワチオオツカヤマコフン

前方後円墳 6世紀

全国第5位の大きさなのに、被葬者も築造の事情もわからない巨大古墳。

河内大塚山古墳とはどんな古墳か

大阪府の羽曳野市と松原市にまたがる巨大前方後円墳です。堺市の全国の大きさ順の一覧では第5位、全長約335メートルとされ、所在地は大阪府羽曳野市南恵我之荘・松原市西大塚と書かれています。

これより大きいのは、大仙陵古墳誉田御廟山古墳上石津ミサンザイ古墳、岡山の造山古墳の4基だけです。それほどの大きさでありながら、この古墳についてわかっていることは、ほとんどありません。

学術的な発掘調査が行われていないためです。前方部が低く平らで、埴輪も見あたらないことから、未完成のまま終わったとする説もあります。前方部の中央がやや外へ突き出す「剣菱形」と呼ばれる特異な形をしており、五条野丸山古墳と同じ系統に置かれます。巨大前方後円墳の、最後の姿です。

河内大塚山古墳の読み方と別名

読みは「かわちおおつかやまこふん」です。「大塚山」は、大きな塚のある山という、それだけの意味です。

同じ名の古墳は各地にあります。奈良県河合町の川合大塚山古墳、堺市の大塚山古墳など、互いに関係があるわけではありません。区別するために、河内という古い国名を頭に置きます。

宮内庁の管理上の名は「大塚陵墓参考地」です。陵墓参考地とは、陵墓の可能性があるとして管理する土地のことで、被葬者は定められていません。名前が、被葬者を語らない古墳です。津堂城山古墳の「藤井寺陵墓参考地」も同じ扱いです。

河内大塚山古墳(かわちおおつかやまこふん)

堺市の全国の大きさ順の一覧に載る呼び方。各地の大塚山古墳と区別するため国名を冠する。

大塚山古墳(おおつかやまこふん)

地元での呼び方。大塚山という名の古墳は全国に多く、単独では区別がつかない。

大塚陵墓参考地(おおつかりょうぼさんこうち)

宮内庁が管理する区分としての名。被葬者を定めない、陵墓の候補地という扱い。

河内大塚山古墳は誰の墓か

この古墳に葬られた人が誰かは、わかっていません

宮内庁は「大塚陵墓参考地」として管理しています。陵墓参考地は、被葬者を定めない区分です。かつては雄略天皇の陵とする説が有力視されましたが、近年はこの古墳を古墳時代後期の築造とする説が定着し、雄略天皇説は退けられています。

宮内庁が雄略天皇の陵として治定しているのは、羽曳野市島泉の島泉丸山古墳です。

そのほかに、敏達天皇が改葬されたとする説、安閑天皇の真陵とする説があります。安閑天皇説は、盛土の低さや周濠の浅さ、埴輪が無いことから、被葬者が完成前に亡くなったと考えるものです。さらに、欽明天皇の陵として築いたが放棄されたとみて、そもそも葬られた人がいないとする説まであります。大きさに比べて、何もわかっていません。

断定できない:わかっていない

堺市の一覧は「河内大塚山古墳」とだけ記し、治定名を併記していない。被葬者が定まっていないため。

宮内庁の治定は別の古墳:第21代雄略天皇

宮内庁は雄略天皇の陵を羽曳野市島泉8丁目の丹比高鷲原陵としている。この古墳ではない。

河内大塚山古墳の大きさと形

堺市の全国の大きさ順の一覧では、全長約335メートルで第5位です。前には大仙陵古墳、誉田御廟山古墳、上石津ミサンザイ古墳、造山古墳しかありません。

同じ一覧の第6位は、奈良県の五条野丸山古墳で約310メートルです。この二基は、どちらも6世紀後半の巨大前方後円墳とされ、同じ系統に置かれます。巨大古墳が造られる時代の、いちばん最後の二つです。

墳丘の各部の寸法を記した公式のページは確認できませんでした。前方部が低く平らで、後円部に比べて高さが極端に違うことが、この古墳の特徴とされています。

墳丘規模(全長):約335メートル

全国での順位:第5位

所在地:大阪府羽曳野市南恵我之荘・松原市西大塚

墳丘の各部の寸法:公式には確認できませんでした

河内大塚山古墳はいつ作られたか

この古墳は、6世紀後半に築かれたとみる説が定着しています。埴輪を持たないこと、剣菱形と呼ばれる特異な前方部の形が、後期の古墳の特徴と重なるためです。

6世紀後半に、これほどの巨大古墳が築かれた例は、ほかにありません。同じころの奈良県の五条野丸山古墳が約310メートルで、この二基だけが突出しています。

かつて雄略天皇の陵とする説が有力だったのは、この古墳をもっと古いものと見ていたからです。年代が下ると考えられるようになって、5世紀の大王である雄略天皇には当てはまらなくなりました。年代が動くと、被葬者の候補も動きます。

河内大塚山古墳の場所と行き方(観光情報)

同じ古市古墳群の側には、誉田御廟山古墳、墓山古墳岡ミサンザイ古墳、津堂城山古墳が、堺市の百舌鳥古墳群には大仙陵古墳、上石津ミサンザイ古墳、ニサンザイ古墳があります。その両方から等しく離れた場所に、この古墳は立っています。

大阪みどりの百選に選ばれています。周囲には濠がめぐります。

河内大塚山古墳

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河内大塚山古墳の住所:大阪府羽曳野市南恵我之荘・松原市西大塚

交通:公式には確認できませんでした

駐車場:公式には確認できませんでした

料金:公式には確認できませんでした

内部見学:宮内庁が陵墓参考地として管理しており、墳丘に立ち入ることはできません。大正のころまでは墳丘の上に人が住んで村がありましたが、1925年に陵墓参考地となって退去させられ、1932年から立ち入りが禁じられています。

所在地として確かめられたのは、堺市の一覧が記す大阪府羽曳野市南恵我之荘・松原市西大塚です。二つの市にまたがっています。行き方を案内した公式ページは確認できませんでした。

この古墳は、百舌鳥古墳群と古市古墳群のちょうど中間にあります。古市古墳群の一つに数えられることもありますが、群からいちばん西に離れているため、学術的には含めない見方もあります。世界文化遺産の構成資産の一覧にも入っていません。

河内大塚山古墳の発見と調査の歩み

  1. 墳丘の上に、村があった
  2. 未完成のまま終わったのか
  3. 群に入れてもらえない巨大古墳

墳丘の上に、村があった

この古墳には、人が住んでいました。大正のころまで、墳丘の上に住居が建ち、村がありました。

1925年に陵墓参考地となったことで、住んでいた人たちは退去させられます。1932年からは陵内への立ち入りが禁じられ、現在に至ります。

古墳に人が住むことは、めずらしくありませんでした。岡ミサンザイ古墳は中世に城として使われ、津堂城山古墳にも小山城が築かれています。高い土の山は、住むにも守るにも都合がよい場所だったのです。古墳が手をつけてはならないものになったのは、近代に入ってからのことです。かつて住んでいた人の証言から、後円部の埋葬施設は横穴式石室である可能性が高いとされています。

未完成のまま終わったのか

この古墳には、不思議な点がいくつもあります。前方部が異様に低く平らであること、周濠が浅いこと、そして埴輪が一つも置かれていないことです。

そこから、被葬者が完成前に亡くなったため、工事が途中で止まったとする説が生まれました。在位4年で世を去った安閑天皇を当てる説は、この考えに立ちます。

いっぽう、これらは未完成の証拠ではなく、6世紀後半の古墳の特徴だとみる研究者もいます。五条野丸山古墳にも葺石と埴輪がありません。飾らない造り方に変わっただけだ、という見方です。さらに、欽明天皇の陵として築いたが、あらためて大和に陵が造られたために放棄されたとして、葬られた人自体がいないとする説まであります。

群に入れてもらえない巨大古墳

この古墳は、古市古墳群の一つとされることがあります。しかし、群のいちばん西に離れて立っており、学術的には含めない見方もあります。

2019年に世界文化遺産となった「百舌鳥・古市古墳群」の構成資産の一覧にも、この古墳は入っていません。文化庁が記す世界遺産の所在地は、堺市、藤井寺市、羽曳野市です。

全国第5位の大きさを持ちながら、どの群にも属さず、誰の墓かもわからない。位置が中途半端であることは、この古墳の性格そのものを表しているのかもしれません。百舌鳥と古市、二つの群の力が衰えたあとに、その中間へ、最後の巨大古墳が築かれました。

河内大塚山古墳から出土したもの

この古墳から出土したものは、公式には確認できませんでした。学術的な発掘調査が行われていないためです。

はっきりしているのは、埴輪が置かれていないことです。5世紀の古墳では、墳丘に円筒埴輪をずらりと並べるのが常でした。津堂城山古墳の水鳥形埴輪や、いたすけ古墳の冑形埴輪のような品も、この古墳では知られていません。

河内大塚山古墳と関連する古墳

河内大塚山古墳についてよくある質問

河内大塚山古墳は誰の墓ですか。

わかっていません。宮内庁は被葬者を定めない陵墓参考地として管理しています。かつて雄略天皇の陵とする説が有力でしたが、年代が下ると考えられるようになり、退けられています。

河内大塚山古墳はどこにありますか。

堺市の一覧は所在地を大阪府羽曳野市南恵我之荘・松原市西大塚としています。百舌鳥古墳群と古市古墳群のちょうど中間にあたります。行き方は公式には確認できませんでした。

河内大塚山古墳の大きさはどれくらいですか。

堺市の全国の一覧では全長約335メートル、第5位です。上には大仙陵古墳、誉田御廟山古墳、上石津ミサンザイ古墳、造山古墳の4基しかありません。

河内大塚山古墳はいつ作られましたか。

6世紀後半とする説が定着しています。埴輪を持たないことと、剣菱形と呼ばれる前方部の形が、後期の古墳の特徴と重なるためです。

河内大塚山古墳の中に入れますか。

入れません。宮内庁が陵墓参考地として管理しています。大正のころまでは墳丘の上に村がありましたが、1925年に陵墓参考地となって退去させられ、1932年から立ち入りが禁じられています。

河内大塚山古墳と併せて覚えたい言葉・用語

陵墓参考地(りょうぼさんこうち)

宮内庁が、陵墓の可能性があるとして管理する土地。被葬者は定められていない。

剣菱形(けんびしがた)

前方部の中央がやや外へ突き出す形。後期の一部の前方後円墳に見られる。

周濠(しゅうごう)

墳丘のまわりをめぐる濠。この古墳では浅いことが、未完成説の根拠になっている。

埴輪(はにわ)

墳丘に並べた素焼きの土製品。この古墳には無く、年代を考える手がかりになっている。

河内大塚山古墳の参考資料

この記事は、以下の公的・学術資料をもとに構成しています。

  1. 堺市
  2. 宮内庁